ラキの迷い
砦から三人で逃げ出した日の夜。
ラキは夢を見た。
かつてのサキがミラクに対して無意識に抱いていた感情が、鮮明に再現されていく。
サキは、幻影の中で、ミラクに向かって微笑んだり、無邪気に話しかけたりしていた。サキはそのとき、自分がミラクに仲間意識以上の淡い憧れを抱いていることに気づいていなかった。
しかし、ラキにとっては、その行動の全てが痛々しいほどに明確だった。
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砦から逃げて二回目の夜。俺たちは都近郊の森に身を潜めていた。俺の傷は深く、ラナの洗脳も解けない。今は身を隠し、回復を待つしかなかった。
薬とサキの吸血により痛みは引いたため、俺はサキと交代で夜の小屋の傍の高木の頂上で見張りをしていた。今はサキは薬を飲んで眠っているラナの隣で仮眠を取っているはずだ。
――ラナ。落ち着いてはきたが、まだ記憶が晴れないらしい。もし、このまま……。いや、俺とサキは戻ったんだ。ラナの記憶も必ず戻ると信じるしかないか。
サキは怪我が重い俺を気遣い、少し仮眠を取ったら見張りは自分がすると言っていた。だが、ラナの薬を探しに行った都から手ぶらで帰ってきてから様子がおかしかったし、あいつにばかり負担をかけていたら悪い。
……それに考え事もしたいしな。
周りに怪しい気配がないことを確認して、静かに星を見上げる。風が冷たく頬を撫で、森には狼型の殲獣の遠吠えが響いた。
だが、澄んだ空気とは違い、俺の胸の内は目の前に果てなく広がる森のように混沌としていた。ラナのことだけではない。
――ミラクに斬られたとき。
俺には自身の過去の記憶以外にも脳に流れ込んできた、断片的な記憶があった。
――それはミラクの記憶だった。
都で孤児として生きた過去。暗殺部隊に入った過去。初めて人を殺して世界が色付いて見えたときの高揚。勇者と持て囃された冒険者を殺し、その絶望に焦がれた夜。サキを殺したときの熱と落胆……そして、殺したはずのサキと再会して得た感情。
気が狂いそうだった。
何故。一体なぜミラクは、俺にそんな記憶を流し込んだのか。……故意なのか、それとも偶然なのか。
考えれば考えるほど分からなくなる。奴の狂った欲望もだが――何よりミラクの意図、そしてミラクの殺人の理由を、サキに伝えるべきかどうかを。
答えは見つからない。選択が、心を苛み続ける。
サキから聞いていたミラクについての話と、砦でのミラクの言動と、流れ込んできた記憶から、奴の事情はあらかた察していた。
「……サキはミラクにすべてを吐かせたいと言っていた。ミラクの過去をサキに話すべきなのか?」
俺はいつのまにか無意識に握りしめていた拳を見つめる。
――ミラクが、サキを殺すことで最終的に極上の感情を得ようとしていること。冷徹な動機と歪んだ欲望。
それを知ったら、サキはどう反応するだろうか。
サキがミラクに向けているのは、仲間を殺されたことへの憎しみと、裏切られたことへの怒りだ。
だが、それだけではない。おそらくサキは、特別視していたミラクに、訳も分からないまま、何の躊躇いもなく裏切られたことに屈辱を感じている。
『私は、ミラクがどういうつもりだったのかを洗いざらい吐かせて……最後は、殺してやるつもりなんだから……!』
砦でのサキの叫びが脳裏に蘇る。――事情を吐かせて、なぜ殺すのか。
……俺には、サキがミラクに求めていることが、分かってしまう。サキは、絶対に得られるはずのない答えを得ようとしている。それは……ミラクに仲間を殺され、自身も殺されかけたことに対する、納得のいく理由だ。
……そんな答えなど、あるはずがないのに。
サキはミラクを理解していないし、ミラクもサキに自身を理解させようとはしていない。
……だが、もしもサキが、ミラクは普通には『感情』を抱けない哀れな存在だと知ってしまったら――
――サキはミラクに哀れみを抱くかもしれない。
……仲間が殺されているんだ。ただでは納得なんかしないとは思うが。
『お前が殺してしまったニーナのことは、もう取り返しがつかない』
頭に、サキがミラクに言うかもしれない言葉が浮かんだ。
『だけど……私とミラクは生きている。……お前が、誰かを殺すか、私と居るかでしか人に対して感情を持てないのなら。殺して感情を得るのではなく、共に生きることで感情を得るというのはどうなの……?』
あまりにもふざけた提案だが……言いかねない。……いや、実際には言いはしないと思うが。俺とラナもいるし。
ただ、サキなら、状況によっては言いかねない。
サキの優しさは寄り添うようでいて、どこか危うい。寄り添いすぎるというか、一度受け入れようとしたならば、その相手がどれほど傷つけた存在であっても、自身に引き込もうとする。
ミラクを忘れられていないように。俺達を砦から逃して、サリィと対話しようとしたときのように。
もしサキがミラクを哀れみ、そして救おうとするなら……。
「サキの心はミラクにも向くだろうな」
その結論が、思考をさらに暗い淵へと引きずり込んだ。サキがミラクに手を差し伸べる未来を想像した。ミラクを許し、理解しようとするサキ。
……サキを見ていたらよく分かる。サキがミラクを忘れられていないことを。
一方で、俺にはもう一つ選択肢がある。それは、何も伝えないこと。
サキがミラクを憎み続け、最終的には彼を殺す。その道ならば、サキの心は俺にだけ向けられるだろう。それが俺にとっては最も安全で、確実な未来だった。
「でも……それで本当にサキは良いのか?」
渦巻く感情に、旅出前の雨の夜を思い出す。サキのことを考えれば、彼女がミラクを哀れみ、救おうとする可能性を否定すべきではない。それがサキにとっての正解であり、彼女が求める未来なのかもしれない。だが、俺は――それが怖い。
サキがミラクに、今、俺とラナが独占している眼差しを向ける未来など想像したくもない。
「……」
再び夜の森を見つめ、木々が夜風にそっと揺れる音に耳を澄ませる。先にある答えは、まだ見えない。どちらを選んでも、痛みを伴うのは分かっている。目を閉じ暗闇に身を任せながら、心の中で一つの決断を迫られていた。
「サキに伝えるべきか……それとも、黙っているべきか……」
答えを出すことができず、ただ夜の静寂の中に立ち尽くしていた。
ミラクにとってサキは初めて、生きたまま『感情』を抱いた存在だった。
しかしその感情は純粋なものではなかった。サキを殺すことで得られるであろう極上の感情――その執着が、ミラクの中にある狂気を一層際立たせた。
『俺はあいつをより苦しめ、より怒らせ、より哀しませ、より孤独にして、最後に殺すつもりだ.....』
ミラクの幻影が意識の奥で囁く。
背筋がゾッとした。足元が崩れるような感覚に襲われる。
何も見えず、ただ重く記憶の海へと沈んでいく――。
「――ッ!」
声にならない叫びを押し殺した。再びミラクの忌まわしい記憶が流れ込む。――嵐の中、サキを裏切り、殺そうとした。ミラクがあのとき抱いた強烈な感情と、“絶望”を味わえなかった落胆……そして、サキと再会して……。
あの歪んだ執着が全身に重くのしかかった。
今にも気を失いそうだったが、何とか意識を取り戻す。呼吸が荒くなる。目の前にいないはずのミラクがぼんやりと揺れているのが見えた。
幻のミラクが遠ざかっていく中、頭に残ったのは、ミラクの歪んだサキへの執着と殺意――それがどれほど異常で狂気に満ちたものなのかという事実だった。
「サキ.....」
ミラクは快楽を手に入れるために、再びサキを標的にするだろうという確信に恐怖を感じた。
俺はこれまでミラクを憎んできた。サキを傷つけた敵として、ただ無慈悲に、感情のない存在だと思っていた。だが今、ミラクの行動の背後には『感情』があったことを知ってしまっている。
いつのまにか双剣に手をかけていた。胸の奥で込み上げる感情が、言葉にならなかった。ミラクはただサキを殺そうとしているのではない。
――彼女を通じて、自分の中に眠る感情という快楽を得ようとしている。そして、最終的にはサキの命をもって、絶望を味わおうとしている。
執着と快楽を混ぜた歪んだ感情。ミラクがサキを傷つけるたびに感じるのは、その感情は――。
それを考えてしまった今、以前のように純粋にミラクを憎むことができなくなっていた。もちろん、あの狂気は、俺がサキやラナに向ける思いとは全く異なる。――だが。
憎むべき敵として、斬り捨てたかったはずの存在に、自身の影が見え隠れする。かつて、サキにミラクと似ていると言われたことを思い出していた。
「ミラク……お前は確かに俺に似ているのかもな」
深く息を吐く。記憶を流し込まれたせいとはいえ、ミラクの心中が理解できてしまった。手の中の剣を見つめた。その刃でミラクを討つことができるのか――。
ミラクを殺すことに迷いはなかったが、今は違う。ミラクの事情を知ってしまった今、新たな葛藤が生まれていた。
「……。サキもサキだよな……正直……」
そう。この迷いはサキがミラクのことに区切りをつけていれば、生じないはずなのだ。だが、ミラクに殺されかけているサキは、いつまでもミラクとの過去を捨て切れていない。忘れられていない。
今サキの隣いるのは、俺とラナなのに。
……それが復讐と怒りと憎悪とはいえ。サキがミラクに向けている感情が、恐らく俺に向けられている感情よりも大きいことは、受け入れ難い。ミラクのことなんか忘れて、俺だけを見てほしい。その欲望を飲み込むように、歯を食いしばる。
だが、それでも止められない。
「――……」
そのまま、サキへの不満をいくつか零そうと口を開いた。
「ねぇ、ラキ?」
しかし、そのとき飛んできたのは不安そうな声。はっと振り返ると、そこには枝の上に立っているサキがいた。上着を脱いで白い薄衣を着崩している。黒い髪と瞳が夜闇に溶けるようだった。
――サキが木に登っていたのにも気づかなかったとは。そんなに深く考え込んでしまっていたか。
「……いつまで経っても交代に来ないけど……そろそろ見張り、代わるわよ?」
どこか、いつもより儚げに見える。その雰囲気は夜に目を覚ました幼い子供が、親に捨てられてしまったと勘違いして泣き出す直前と似ている気がした。
「なんとか言ったらどうなのよ? ……まさか、傷がまた痛み始めて、声も出せないとか?」
「……なんでもない。少し風に当たっていただけだ」
「い、痛むなら、その……吸血鬼族の力も強い夜だし、また傷口から血を吸ってみるわよ」とサキが言い終える前に、愚痴を溢そうとしていた手前、気まずい気持ちで答えた。
「……そうなの? ならいいんだけど」
眠いのか、若干瞳を潤ませていたサキは安心したようにはにかんだ。
最初に出会ったときは、身体に対してかなり小さかった翼は、今は、羽ばたけるほどに大きくなっているままだ。
月に照らされ、落ち着かない様子で揺れる、黒い翼。
「……なによ? ……大丈夫なら、早く行きなさいよね。よく眠っていたけど、長い間ラナを一人にしていたら心配だから」
じっと見つめていれば、彼女は不安そうに目を逸らしながら言う。俺の口数が、いつにも増して少ないのが気がかりらしい。
俺は、サキが俺に嫌われまいとしていることへの嬉しさと、まだ許してやれないという意地の間で揺れて――
「……やっぱ、傷口、痛むかも」
つい、そんなことを口走ってしまった。




