ユリアナとソニア -純真な皇女の真似事-
ユリアナは私室の椅子に腰を下ろし、目の前の机に山積みになった書類をじっと見つめていた。この席で仕事をするのは、ソニアがいなくなってから始まった日常だった。
無表情のまま書類の一つを手に取る。
目を通すと、それは帝国北部の吸血鬼族に人族の奴隷を送るというものだった。一応、名目上は奴隷ではなく、選定奉仕者などと称されていたが。――血の提供、雑用、娯楽のための狩りの獲物、繁殖用……。記されていたのは奴隷に相違ない仕事内容だった。
反帝国主義者や、その家族を見せしめとして送るという。子供たちさえも含まれていた。
今回が初めてではなく、このようなことは帝国が成立してから幾度も繰り返されているらしい。だが、ユリアナはただ形式的に判を押すだけで、何かを変えることなどできない。最初は悔しかった。泣いたこともあった。でも、もう何も感じない。
「……ソニア」
無意識にその名を口にし、ユリアナは目を閉じた。
彼女の影として育てられた少女。自身の片割れのように、同じ衣をまとい、同じ髪飾りをつけ、同じ言葉遣いで話し、同じ微笑みを浮かべた少女。
しかし、今ここにいるのはユリアナだけだった。
ソニアが去ってから――いや、帝国によって影武者として使い捨てられてから、ひと月ほど経った。
「貴方がいない日々に、まだ慣れませんわ」
静かな独白は、広い私室の中で虚しく響いた。
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ユリアナは人族の皇女として、十分な教育を受けて育った。亜種族が支配しやすいように、人族の中では皇族だけが強い力を持てるようになっており、そのため皇族には適切な教育が与えられていた。
ユリアナは皇女として、誰よりも慈悲深く、正しくあろうとした。
だからユリアナは、いつも自身より上の結果を出すのに、なぜか亜種族に虐げられているソニアに手を差し出した。
ソニアは、花が綻ぶような笑顔でユリアナの手を取る。ユリアナは可哀想なソニアを救っているつもりだった。――そう思うと、満たされた。
だが、それは間違いだったと彼女はソニアが居なくなってから理解した。
実際に救われていたのは、ユリアナの方だった。
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――影武者となることを強制された少女は、どれほどの努力をしても、どれほどの成果を上げても、決して認められることはなかった。亜種族の望む影の如くあれていないと判断されれば理不尽に暴力を振るわれる。
そんな可哀想なソニアに手を差し伸べる唯一の存在。それがユリアナだった。ソニアは亜種族から自身を守ってくれるユリアナを無邪気に慕っていた。
ソニアが、一部の大臣の野心によってユリアナの立場を脅かすために育てられていることも、帝国の闇も。何も――何も知らなかったユリアナは、人族の皇女として慈悲深く手を差し伸べた。
『……ユリアナさまっ、あなたがいれば帝国は安心ですわ!』
絹のような金髪に水晶のような碧い瞳。鏡合わせの二人の少女。彼女らは、亜種族の闊歩する城の片隅で手を取り合っていた。
ソニアはユリアナに希望を見出しながら。
ユリアナは基礎教養も礼儀作法も武芸も、何をするにも自身を上回るソニアを――尊敬するソニアを助けることを誇りに思いながら。
……だが、二人は互いに互いを過大評価していた。
ソニアの希望は虚構に過ぎず、ユリアナがソニアに対して純粋なまでに慈悲深くあれたのは、ソニアが闇を引き受けていたため、その闇を知らずにいられたからに過ぎなかった。
ソニアは密かにユリアナの仕事を肩代わりしていた。そして、その仕事の内容こそが――帝国の闇、そのものだった。
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長耳族の母を持つユリアナには、六歳になる少し前、精霊術の力が出現した。人族の外見で生まれた彼女の能力の発言は予想外。そのため、一部の大臣の思惑によりユリアナの影武者として育てられたソニアという少女は身代わりを演じることは出来なくなり、口封じのために殺されることになった――。
しかし、彼女の優秀さを知る大臣が、それに異を唱えた。皇女と遜色ない教育を受け、むしろ皇女以上の成果を上げてきた彼女を殺すのは、いささか勿体無いことだと主張したのだ。
議論の末に出た結論。それはソニアを新設される暗殺部隊に送る、というものだった。
帝国の暗殺部隊は、表向きは存在しないことになっている。民を大切にせよと教えられ、ソニアに守られていたユリアナは、そんな部隊の存在など知らなかった。だが、それは確かに帝国の中にあり、ソニアはそこに組み込まれることになったのだった。
ユリアナがその事実を知ったのは、ソニアがいなくなってからだった。
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「皇女殿下、新たなお仕事ですわ」
ユリアナはその声に現実へと引き戻され、書類を受け取る。
「人族の皇帝が冠する帝国の皇女である……わたくしの仕事なんですの?」
その声はどこか虚ろな響きがした。侍従はその変化に気づくことなく、ただ冷静に返答する。
「帝国の命令です。我々に選択肢はありません。……人族の不始末は、人族で片をつけねばならないのです。残念ながら、我々人族は亜種族に生かされているに過ぎませんから」
ユリアナは言葉を失い、再び書類に視線を落とした。
「こんなことを、ソニアはわたくしに黙って……」
ユリアナはソニアがしてくれていたことに何も気づかなかった。信じていた帝国が、こんなに歪んでいたとは。残酷な現実は彼女の前に突きつけられていた。
「……ソニア。貴方はこの国の闇を知っていたのですね?」
書類を握りしめながら、ユリアナは呟いた。
「それなのに、どうして……あんなにも無垢な笑顔をわたくしに向けられましたの?」
その問いに、答えてくれる者はいない。
――守っていたつもりだった。
だが、帝国の闇に晒されたユリアナは、ソニアが笑顔を向けてくれないだけで、心が壊れそうだった。もうユリアナを守り、満たしてくれていた存在はいない。
「ソニア……もう一度、わたくしの前に姿を見せて、道を示して……?」
ソニアと手を取り合って築いていた、儚い花園。ソニアが姿を消してから、ユリアナの信じていた世界は一瞬で、音も無くあっさりと崩れ去った。
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ソニアが去った後、ユリアナは闇の前に立たされた。もう、彼女は純真な皇女のままではいられなかった。
人族は自由を奪われ、城も都も、帝国はすべて亜種族の思惑のままに形作られている。
……自分は何も知らずに、すべてを背負っていたソニアに手を差し伸べていた。
可哀想でいてくれたソニアが居ない今、ユリアナは削られていくばかりの心を満たす術を闇雲に模索するしかなかった。
ユリアナが最初に試したのは宗教だった。彼女は亜種族に規制されている人族の宗教アナテイア教を勉強した。その次は慈善活動。都の貧民地区から辺境の西部まで色んな場所に赴いた。
貧民地区への奉公はソニアがユリアナに代わってしていた仕事の一つだった。ユリアナはそれを受け継いだ形になる。
多くの帝国の人族は、末の皇女の亜種族を恐れぬ善行を無償の愛の産物であると考え、涙を流した。
西部で幻獣種型の殲獣からユリアナを救った冒険者が勇者などと持て囃されるほどに。
亜種族に一矢報いて、大陸戦争を人族の皇帝を立てることで終わらせるきっかけとなった帝国建国の英雄ライトと遜色ないほどに。
人族の民はユリアナを神聖視していた。
――ユリアナの善行の裏にある悪意に、誰一人として気づいてなどいなかった。
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……ソニア。わたくし、とても心外でしたのよ?
『あなたはそんな方ではなかった』?
……貴女と一緒にいたのはたかだか六歳頃までではありませんか。ソニアが知っている純真だったわたくしなんて、もうとっくに居ませんのよ。
……ねえソニア。考えてもみてくださいな。貴女が壊れかけながら何とか引き受けていたこの国の闇を、わたくしが一人で受け止められるわけないではありませんか……?
……だって、わたくしずっと貴女より劣っていましたもの。
フィロンと共に城を脱出するとき。光の粒子の中でユリアナはそんなことを考えていた。
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反乱軍から最初に接触されたのはいつだったか。彼らはわたくしに近づくために、まずヴェルデに接触したそうです。彼は冒険者から警備隊に入って、わずか三年で副長になったが、かなりの変わり者であると有名でした。彼とは、わたくしが一時期アナテイア教を勉強していたときから親交がありました。
アナテイア教への信仰なんて、ソニアを失った心の穴を埋めるために試した戯れの一つなのですけれど。……信仰心の厚いヴェルデの前では信心深いふりをしていましたけれどね。
――ただ、ソニアが足りなくて。
ソニアの真似事か、純真な皇女の演技かも分からない曖昧なナニカを続けていた、五年ほど前のある日。いつになく真剣な顔をしたヴェルデに、初めて反乱軍のことを――ソニアのことを打ち明けられました。ヴェルデからソニアの名前が出たときは驚きましたが、わたくしはそれ以上に嬉しかった。
『その話に乗れば……ソニアに、会えますの?』
震える声が出ました。……いつもはわたくしに好意的なヴェルデが後ずさっていましたね。
でも、そんなこと気にならないくらい嬉しかったのです。
ソニアが生きていると知って。貴女が暗殺部隊でも優秀な存在だったと知って。ソニアが腐った帝国を壊すために動いていると知って。ソニアがまだ、あの頃のようにわたくしを純粋に慕ってくれていたと知って。
廃れた宗教への信仰も、意味を見出し難い慈善活動も無駄ではなかった。……ソニアの前で、まだ純真な慈悲深い皇女を演じていられる……!
……ソニア。そうすれば、貴女はまた、あの笑みをわたくしに向けてくれますわよね……?
ならば、わたくしは幾らでも反乱軍やソニアの前でも、信心深い皇女を演じましょう。
……ソニアは変わらずに崇敬に歪んだ眼差しでわたくしを見続けて――
『断りますわ!』
――嗚呼。目を閉じると、夕刻の忌まわしい記憶が蘇る。あんな敵意と失望の入り混じった睨みをソニアに向けられるなんて。
フィロンから話を聞いて予想はしていましたけれど……貴女がわたくしの手を取ってくれなかったときは胸が張り裂けそうなほど悲しかったですわ。
……ソニア。貴女はわたくしが純真な皇女であることを望みますわね。
……ですけれど。
わたくしを必要としておきながら。再びわたくしの前に現れておきながら。わたくしにあの笑顔を向けておきながら。……わたくしが貴女の理想の通りでないとして反乱軍を裏切るだなんて。あまりに酷いではありませんか。
貴女はわたくしを信じて、ただあの笑顔をむけてくれるだけで良かったのに。
……残念で仕方がありませんわ。わたくしはソニアと共に居たかった。
……ですが、もう戻れないのなら。
わたくしに微笑んでいてくれた頃のソニアの理想の通り、慈愛に満ちた人族の国を作ることは約束しますわ。貴女が成し得なかったことを、今度はわたくしが代わって、成して差し上げましょう。
――すべてが終われば、次はわたくしから……迎えに行きますわ。
そのときこそ、わたくしの手を取って、純粋に笑うソニアに戻ってくださいますわよね……?
二人で手を取り合っていた頃のような、素敵な花園を作りましょう……?
月灯りの下。一人で両腕を広げてくるくると踊っていたユリアナは、不意に動きを止め、両手を胸の前で広げた。ユリアナの手の中に生成した水のような膜のような何かが、その顔を反射して映し出す。
彼女は恍惚とした表情で熱い吐息を零した。ユリアナの感情の揺れを伝えるように、水鏡に波紋が広がる。彼女は水鏡に映った自身の歪に曲がる紅い唇を、ソニアの面影と重ねていた。
ソニアさん可愛いのでモテモテですね…




