テツとソニアとフィロン
ある日、フィロンに声をかけられた。
「ねぇ、テツ」
俺はフィロンのことが気に食わない。特に、常に人のことを見下しているような薄ら笑いが。貼り付けたような笑みは、まるで道化師のようだ。
……いつからこんな奴になったのか。フィロンは変わった。少なくとも俺は最初はこいつを有象無象だと思っていたはずだが。
砦の夕陽が赤黒く石壁を染める中、フィロンは壁にもたれ、余裕たっぷりの態度で俺を見つめていた。フィロンはランク 1 であるミラクに続く実力者で、ソニアと同じランク 2 だ。俺よりは格上にあたる。
「何だ? お前が俺に用なんて珍しいな」
「君さ……ソニアのことが好きなんだろう」
投げかけられた言葉に目を見開く。ソニアのことが好き。……好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きだ。だが、俺は自分がソニアに恋愛感情を抱いているのかと問われると、分からない。俺の中にある願いはソニアの隣にいたい――それだけだからだ。
「……。それがどうした?」
「砦からソニアを連れ出したいと思わない?」
否定も肯定もせずに答えると、フィロンはいつにも増して含みのある笑みで言った。
「は?」
「もう少し踏み込んで言うと……ソニアのためにも、この腐敗しきった帝国を壊したいとは思わないかい……?」
風が吹き抜ける。砦全体に漂う鉄の匂いが鼻についた。
フィロンの声は妙に静かで、だが鋭く胸を抉った。
俺は咄嗟に答えられなかった。あまりにも唐突で、しかも危険な提案だったからだ。だが、フィロンの目は冗談を言っているような色をしていなかった。
「……抽象的だな。具体的には俺に何をさせたいんだ?」
慎重にそう訊ねる。フィロンは壁に寄りかかったまま、俺を見る。
「さすがだね、テツ。頭ごなしに否定しないあたり、さすが三年間は生き延びただけあるよっ」
「御託はいい、答えろよ」
「まあ焦るなって。……君も知ってるだろう? この砦はただの訓練施設じゃない。帝国の闇そのものだ。人族の子供達を暗殺者に育て、人族を殺す兵器を育て上げるための場所。……司令部は、戦争を防ぐためなんて綺麗事を言っているけどね」
フィロンはそこで一度言葉を切り、遠くを見つめた。彼の瞳には、沈みゆく太陽の光と訓練場に吊るされた死体の影が微かに映っている。
「このまま帝国にいたら、僕達は道具にしかなれない。帝国は僕達の命を数にしか思っていないんだよ。ソニアだって、いくらランク 2 になったって、所詮は使い捨てさ。僕達は結局、亜種族に支配されているだけなんだ」
言葉が、彼がもたれる砦の冷たい石壁に染み込んでいくようだった。
なぜフィロンが、こんな妙なことを言い出したのか。心当たりが無いわけではなかった。
有象無象だと思っていたフィロンが変わったきっかけ。……フィロンには仲の良い兄がいた。フィロンの兄は俺達と同じく暗殺部隊に連れて来られた。……だが、フィロンの兄は一年ほど前に脱走を企てて殺された。
……フィロンの兄は、一人で脱走しようとしたらしい。フィロンには残酷な二つの事実が降りかかった。それは、兄が死んだことと、兄がフィロンを置いていこうとしていたこと。
フィロンの歯車はそこから狂い始めたのだ。
……いや。暗殺部隊に入ることを義務付けられた時点で、俺達の人生は既に狂っていたと言えるか。
「亜種族に都合よく使われる殺しのための駒……。分かっているさ。でも、そんなの今更じゃないか」
分かっている。ずっと分かっていた。
俺たちはただの兵器だ。人としての価値なんか、ここにはない。
だが今、俺は生きていて、ソニアも生きている。ソニアと生きている。
今は……それだけで充分なんだ。俺には帝国を壊す力はないし、そうする気も湧かない。
「俺に何の関係があるんだよ」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。だが、フィロンは薄ら笑いのまま。
「あるさ。君がソニアを守りたいと願うなら……僕の計画に手を貸すべきだ」
「計画? 砦から逃げ出す計画か?」
「はは、違うよ。さっき言ったじゃないか。……帝国を壊すんだ」
「……!」
この砦から逃げる――そんなことを考える奴は、今までも山ほどいた。だが、そいつらは例外なく死を以て粛清された。
夜の闇に紛れて砦の壁を越えようとした者、隙を突いて司令部が乗ってきた馬を奪おうとした者――全員、翌日には広場に吊るされていた。……フィロンの兄も。
昨日も一人、脱走者が吊るされたばかりだ。風に揺れる死体は、腐臭を漂わせながら俺たちに警告を発し続ける。
帝国に逆らうことがどういう意味を持つのか。俺たちは骨の髄まで叩き込まれてきた。
俺は首を振る。
「お前が砦を去るというのならば止めはしない。勝手に死ね。……だが、帝国を破滅させるというのは、反乱者だ」
俺たちは帝国の命じるままに、同胞であるはずの人族を殺す道具になった。
……年下の訓練兵達と違い、俺達は薬を投与されておらず洗脳がかかっていない。亜種族どもの言う「暗殺部隊は戦争を防ぐために必要な組織だ」という言い分はまやかしだと知っている。
――だが、生きるためには命令には従わざるを得ない。俺達は反乱者を排除するために訓練されている。
フィロンは俺の否定を予測していたかのように、余裕の笑みを崩さないでいる。
「わかっているよ」
「……だったら、なぜだ?」
「砦を抜け出しても、何も変わらないんだよ。帝国は亜種族の支配下だ。……人族である皇帝だって亜種族の傀儡だ。……ならばもう、帝国そのものを壊すしかないじゃないか」
フィロンの声は静かだったが、その奥に確固たる意志が感じられた。狂気にも似た確信。
なぜ帝国を壊すという結論に辿り着くのか、俺には分からなかった。
だが、フィロンには認めたくないことがある。兄の死、そして兄に捨てられた過去。
……フィロンは忌まわしい過去を否定するために、何かを狂信するしかないのかもしれない。だが。
「……フィロン。サリィや……俺達と戦うつもりなのか?」
問いかけると、フィロンはわずかに目を細めた。暗殺部隊は反乱者を殺すために設立された。フィロンが本気で帝国を裏切るつもりなら、何らかの形で俺達はフィロンに立ち塞がることになる。無論、暗殺部隊だけではなく帝国軍全体を相手にすることになるだろうが。
フィロンは優秀だ。こいつが反乱軍を作り帝国に仇なすならば、おそらく脅威となる暗殺部隊を真っ先に潰そうと考えるはずだ。それは俺やソニアの命に危険が及ぶ。問いかけずにはいられなかった。
「……君達や将軍級の将校との戦いは可能な限り避ける計画なんだ。……だから僕は今、こうして君に協力を頼んでいるんだよ」
打算的な理由だった。俺は息を吐く。感情的にならず打算的に動くこと。それは暗殺者に求められる資質の一つだ。
壊れて、抱いた狂想に狂信して、こいつは優秀な暗殺部隊の訓練兵になった。……その果てに帝国を裏切ろうとしている。
「……なるほどな。だが、やはり今の段階では俺はお前に協力する気にはなれないな。……あまりに現実的でない」
「そう思うよね。でもね、もう計画はほぼできているんだ」
「できるもんなら実行に移してみろよ」
「……今はまだ、できない。計画のためにはただ一つだけ、まだピースが足りないんだ」
余裕な態度を貫いていたフィロンの顔が微かに俯く。だが、影の下でフィロンの目は鋭く光っていた。
「最後のピースは……ソニアだ。あの子がいないと、この計画は成立しない」
「……どういう意味だ?」
「とぼけないでよ。君も知っているんだろう? ソニアの秘密を……城での過去を」
意味深に言葉を濁すフィロンに一応とぼけてみたが、しらを切っても仕方なさそうだ。フィロンが言うソニアの秘密は、ソニアが皇女ユリアナの影武者だったということだろう。
「この話は既にソニアにもしてあるよ」
「……少し考えさせろ」
「いいさ。でも、時間はないよ。……その気になったら、訓練場の西端。ソニアと明後日の夜明け前に来てくれ」
そう言い残し、フィロンは闇の中へと消えていった。
日が落ちて冷たい風が吹いていた。俺は剣を握りしめ、そこに染みついた汗と鉄の匂いを嗅ぎながら、目を閉じる。
――ソニアの側に居られたら、それで良い。ソニアさえいれば、俺はたとえ、腐った帝国の操り人形であり続けても構わない……。
ただ、ソニアと別の場所で生きられるとしたら?
ソニアが異なる世界で生きることを願うとしたら……。
願いと迷いが、俺を引き裂きそうだった。
**
翌日。訓練場にはいつものように冷たい朝霧が立ち込めていた。
訓練場の西端へ行くかどうか――俺は一晩では決断を下せなかった。まだソニアと話もできていない。フィロンの話は唐突で、あまりにも危険すぎる。だが、昨夜の言葉が頭から離れなかったのも事実だ。
帝国を壊す。
そんなことが可能なのか――。ソニアが本当にユリアナと連絡を取れれば可能性はなくはないのかもしれない。
俺は剣を手に取り、軽く握りしめる。何も答えを出せないまま、今日も訓練が始まろうとしていた。
訓練の合間に、ソニアを探した。
古びた倉庫の陰で彼女の姿を見つける。はっと振り向くソニア。金髪が風に揺れ、あの碧い瞳が俺を捉える。
「テツ?」
俺に注意力不足を指摘するだけあり、ソニアは俺が声をかける前に気がついた。
「話がある」
俺は昨夜フィロンと交わした会話を打ち明けた。
ソニアは驚いた様子は見せなかった。最初から予期していたらしく、静かに頷いた。
「……やはり、テツのところにも話がいきましたのね」
ソニアの言葉は落ち着いていたが、その瞳の奥には何か揺れるものがあった。
「……お前は、どうするつもりなんだ?」
そう尋ねると、ソニアは一瞬だけ目を伏せた。そしてゆっくりと口を開く。
「私は……前向きに考えていますわ」
「本気で言ってるのか?」
「ええ。フィロンの計画によれば、私がユリアナ様とフィロンの架け橋になって反乱軍の一助となり、革命を遂げた後は、ユリアナ様に政治を任せたいそうなのです。ユリアナ様は素晴らしい方なんですのよ」
ソニアは一息吐く。
「……亜種族の求める影の如く振る舞えず、彼らに嬲られていた、ユリアナ様自身の存在をも脅かす影武者にさえも慈悲深く手を差し出してくれた……。フィロンの計画が成功してユリアナ様が民を導けばきっと、慈愛に満ちた国が――」
「成功すると思うのか?」
早口に紡がれていくソニアの声を遮る。俺の言葉に、ソニアは少しだけ困ったように笑う。
「もし少しでも可能性があるなら……私は、その道を選びますわ」
「お前は……俺が帝国に留まると言ったら、どうする?」
自分の口から出た問いに驚く。俺がソニアと道を違えるなんてあるはずがないのに。ソニアはじっと俺を見つめていた。
「私は自分の選択をしますわ」
その言葉を聞いて、俺の中の何かが弾けた。
ずっと、ソニアの隣にいたいと思っている。たとえ、それが帝国の暗殺部隊という呪われた場所の中でも。
生きて、隣に居ればいい。そう思っていた。
だが――ソニアが暗殺部隊を去るなら?
ソニアが、世界を変えて、その先で生きることを望むのならば?
俺は――。
「ソニア。俺はお前と、お前が信じるユリアナを信じよう」
**
夜明け前の砦は、冷たい霧に包まれる。訓練場の西端――そこにフィロンはいた。
彼は壁にもたれ、蒼白い空を見上げていた。
その姿はいつもの余裕に満ちたものだったが、どこか静かな緊張感が漂っていた。
俺とソニアが姿を現すと微笑む。
「待っていたよ」
淡々とした声だった。驚きもせず、ただ当然のように受け入れる声音。
「ずいぶん自信があるんだな」
俺がそう言うと、フィロンは少しだけ肩をすくめた。
「君達なら来ると思っていたからね。……特にソニアは」
フィロンは霧の向こう、砦の壁の向こうの都を見据える。微笑をたたえるフィロンは普通の少年に見えた。
「分かっているとは思うけど、ユリアナへの接触は長い道のりになるよ。まずは外の任務に出るようになって、冒険者上がりの警備隊で僕達の思想に順応する奴を仲間に引き入れないといけない――」
だが、フィロンは段々と嘘の笑みを深め、その声は異様に明るくなっていく。
「自由度の高い任務を受けるためにも、ミラクをランク 1 から早く引き摺り下ろさなくちゃ……。これから忙しくなるねっ」
その様はまるで暁闇を纏うかのようだった。
俺達は、その闇へと足を踏み出すことを選んでしまった。
ユリアナは本当にソニアが言うような慈悲深い人物だったのか
次の間話は「ユリアナとソニア」です




