テツとソニア
ソニアと共に生きていきたい。
――たとえ、それが腐りきった帝国の操り人形として生涯を終えなければいけないことを意味していたとしても……構わない。
暗殺者として生きていくことになったあの日、俺は生きる意味をソニアの存在に見出した。
――ソニアとの再会は昨日のことのように思い出せる。だが、砦に連れてこられてから三年が経過していた。砦に連れてこられた子供は初め、百人は超えていたと思う。
しかし、その数は一年目で半減し、二年目にはさらに半減した。人員は幾度か補充されたこともあり、総数に変動はあるものの、最近は全体的な人数が五十を超すことはないあたりで安定している。
あれから色々なことがあったが、気づけば、俺やソニアは暗殺部隊の年長者の一人になっていた。
……何人も死んでいく仲間を見た。そんな過酷な中で生き延びている。かつての俺ならば、それだけで十分だっただろう。しかし、今の俺は違う。……俺は願ってしまったんだ。……ソニアの側で生きていきたいと。
数日前、ソニアが暗殺部隊のランク 2 に昇進したという噂を耳にした。だが、俺は彼女と違って有象無象のランク 5 だ。まだ何者にもなれていない。
俺は拳を握り締めていた。ソニアへの憧憬と同時に、自分の無力さに苛立ちを感じていた。ソニアに負けないくらい訓練を重ねてきた。しかし、彼女は自分とは比べものにならないほどの力を持ち、特別な存在となっている。
ソニアは生まれたときから皇女ユリアナと共に育てられたらしい。ユリアナの影武者となるべく、皇女と比べても遜色ない教育を受けていたという。ただ、長耳族の母を持つユリアナにはある日、精霊術の力が発現した。そのことにより、ソニアは影武者を演じることが不可能であると判断された。
ソニアはそのまま殺されるはずだったらしい。だが、ソニアにかけられた莫大な教育費、そしてユリアナ本人を常に上回り続けたソニアの成績に亜種族どもは注目し、ソニアをただ殺しては勿体無いと判断された。
そして、ソニアは暗殺部隊に送られることになった。
だが、暗殺部隊に送られてもソニアは優秀であり続けた。
『城で影として、自分を押し殺しながら生きていた頃よりは楽しいですわ。……私をユリアナ様の影武者にした亜種族の期待に応えられなければ、ずーっと理不尽な暴力に晒されましたけれど、サリィは理不尽ではありませんものね』
ソニアはそんなことを言って笑っていた。……いまやソニアは誰もが認める実力者であり、ミラク、フィロンに続いて暗殺部隊を率いている存在だ。彼女の冷静さ、強さ、そして決断力は他の訓練兵たちに畏敬の念を抱かせていた。
――ただ、ソニアを慕う年下の訓練兵たちの瞳は悲しいほどに無垢で……。
「……帝国は腐っている。暗殺部隊で過ごして改めて感じる。……だが、俺には帝国を変える力などない」
ソニアを使い捨てにして殺そうとしたという、皇帝を操る亜種族の大臣達。そして、人族の子供を殺戮人形として育てる帝国軍。……腐っているとしか言いようがない。
「……だめだな、俺は」
不意に溢れた弱音と本音にそっと目を瞑る。
俺に弱音を吐いている暇などないと分かっているはずだった。
……もっと剣を振ろう。
生きる。……ソニアと。俺の力ではそれ以上を望めないのは事実だ。地獄で生き延びるためには、まだまだ訓練が必要だ。
「テツ、何をぶつぶつ言いながら剣を振っていますの?」
「うわ、ソニア!?」
急に耳元で囁かれた声。驚いて振り向くとそこに立っていたのはソニアだった。一番聞かれたくない人物に独り言を聞かれてしまった。
「黙って背後に立つなよ」
「テツが気がつかなかっただけで、何度も声をかけましたわよ。注意力が足りないのではありませんの?」
そう言って不満げに腕を組む姿は年相応に幼く見える。まだ自分がソニアと対等であると錯覚してしまいそうになった。俺は高く羽ばたき続けるソニアを仰ぎ見る立場なのに。
「テツ、久しぶりに一緒にお話ししませんか? 砦の屋根に登ると、星が綺麗に見えるんですのよ」
ソニアは俺の手を引きながら言う。ソニアは出会った頃から変わらずに俺に接してくる。彼女は、自身の秘密を知る数少ない人物として俺に親しみを抱いているようだった。俺の気持ちなんか知らない彼女の無邪気な笑顔。その花の綻びを見るたびに、俺は気が狂いそうになった。
「屋根って……本気か? サリィに見つかったらどうなるか……」
なんとか平静を取り繕って答える。いつも通りに感情を押し殺していた。
「大丈夫ですわよ。サリィなら昨日から見ていませんもの。きっとまた放浪しているんですわ」
「またか」
サリィは帝国軍の女将軍であり、俺たち暗殺部隊を育てている存在だ。だが、サリィはしょっちゅう砦を留守にしていた。
サリィの放浪癖は帝国軍では有名な話だ。
サリィは放浪に出るたびに、暗殺部隊の育成という裏の任務を平気な顔で帝国軍の部下に押し付けている。俺はサリィの部下に延々と愚痴を聞かされたことがある。
機密性の高い裏の任務を部下に押し付ける、放浪癖のある女……。……よく将軍でいられるものだと思う。
だが、サリィが帝国軍で将軍の地位を保てているのは、きっとそれだけの実力があるからなのだろう。
「……まぁ、サリィがいないのなら……たまにはソニアと話すのもいいかもな」
ソニアの側に居続けるために研鑽を怠ってはいけないと思いつつも、俺はついソニアの誘いに乗ってしまった。
ソニアと訓練場を歩いていると、遠くで他の訓練兵たちが話している姿が見えた。彼らはソニアに気がつくと、元気よく挨拶をして駆け寄ってくる。それに応える彼女の姿は堂々としていて、周りの者たちが彼女に敬意を払っているのが明らかだった。
「この殲滅製の剣には火を纏う効能がありますわ。慎重に使わないと自分を滅ぼすことになりますからお気をつけて」
ソニアの声が耳に届く。魔術が施された武器は強力だが、その分危険性も大きい。地力がある暗殺者ならば、効能のない殲獣製の武器を使うのが無難だ。ソニアは年下の訓練兵相手に冷静にそのことを説いていた。その姿を見つめると、複雑な感情が渦巻いた。
「そういえばソニア様、ランク 2 に昇進されたんですよね! さすがです!」
「そろそろ外の任務も与えられそうだって聞きました!」
訓練兵たちが無邪気にソニアを称賛する。ソニアは柔らかく微笑みながらも、どこか涼やかな視線を彼らに向けていた。
「ありがとうございます。ですが、油断は禁物ですわ」
彼女はそう言って、剣の柄に軽く手を添えた。その動作ひとつで、周囲の空気が変わる。訓練兵たちは息を呑み、敬意と緊張が混じった目でソニアを見つめていた。
俺は少し離れた場所でその光景を見ていた。一瞬、俺も会話に入ろうかと思ったが、足が止まる。彼女の背中が遠く感じ、何を言えばいいのか分からなかった。
「……もっと強くならなければソニアの隣に立つ資格なんてない」
歪な帝国の暗殺部隊で、ソニアと共に生き残るということ。俺がソニアに追いつくだけではない。俺自身だけでなく、ソニアの命が失われるような事態を起こしてはならない。その意味を改めて噛み締める。
「あら、テツ?」
「悪いなソニア、話はまた今度だ」
「え? どうしてですの?」
ソニアは、訓練兵たちに囲まれてこちらを振り向く。俺の心の中には、言葉にできない焦りと劣等感が渦巻いていた。
「いいじゃないですか、ソニア様。あんな偏屈な奴なんかに構わなくて大丈夫ですよ」
訓練兵の一人がそう言い、周囲がくすりと笑う。俺は何も言わず、ただその場を後にした。
俺は再び訓練に打ち込んだ。前を走り続けるソニアへの憧憬はある。ソニアのことは仲間として尊敬し、その実力も認めている。
だが一方で、ソニアが俺とは違う場所に行ってしまったという孤独感が、心の奥底に深く根付いてもいた。かつて秘密を共有し、彼女を隣で支えられたらと思った。ソニアは遠い存在になってしまったが、果たして俺は彼女に追いつけるのだろうか。そんな不安が俺の胸に影を落としていた。
――俺はただ、ソニアの隣にいたいだけなのに。
**
「テツ、お前はソニアと相性が良いみたいだな」
「え……」
ある夜。いつもの訓練を終えた俺に、聞き慣れた低い声がかけられる。振り向くと、砦の薄暗い廊下にサリィが立っていた。
サリィは相変わらず威圧感のある佇まいだった。彼女は冒険者のような荒い上衣に長い外套を羽織り、冷え切った空気を纏っている。淡々とした口調だが、その視線は鋭く、油断ならない。俺たちを育てる者として、決して甘さは見せない人だった。
「……ソニアと?」
「そうだ。あの子は才能がある。お前も、それに気づいているんだろう」
静かな声だったが、その言葉には不思議な重みがあった。俺は何も言えず、ただサリィの冷ややかな瞳を見つめ返すことしかできなかった。
「今日の訓練を見ていた。お前、焦っているな」
「……別に」
「嘘はつくな」
サリィはすっと俺に近づく。足音ひとつ立てずに滑るように。背筋が自然と伸びる。気配だけで人を押さえ込む、そういう人だ。
「焦りは剣を鈍らせる。暗殺者ならば感情を殺せ。お前もそれくらい、分かっているはずだ」
「……ああ」
「いいか、テツ。訓練兵であるお前たちに与えられる任務は限られている。だが、だからといってこの三年を無為に過ごしてきたわけではないだろう?」
サリィの声は低く、胸の奥を掻き回されるような響きを持っていた。
「暗殺者にとって何より大事なのは、冷静さだ。お前はソニアとの連携は他の訓練兵より安定している。だから私は、お前たちをよく組ませてきた。それが、お前が強くなるための近道だと判断したからだ」
そうだったのか。知らなかった。俺がソニアと組むことが多かったのは、単なる偶然や同じ年齢だからだと思っていた。
「だがな、勘違いするなよ」
サリィがじっと俺を見据え、低く囁く。
「お前は確かに三年間、私の訓練に食らいついてきた。だが、同じく三年生き残った者……ミラク、フィロン、ソニア、レーシュの中ではお前が一番の落ちこぼれだ」
一拍置き、サリィの瞳が一層冷たく光った。
「今のままでは、お前がソニアの隣に立つことは永遠に叶わない」
心臓を掴まれたような感覚。重い沈黙が砦の石壁に染みつくように落ちる。サリィは背を向け、暗い廊下の向こうへと歩き始めた。
「……お前の心は、砦の壁よりも脆いか?」
低い問いかけが、背中越しに落とされる。
俺は歯を食いしばった。地獄でも良い。ただソニアに生きていてほしい。……そして、彼女の隣にいたい。それは俺の唯一の願いだった。
「……脆くない」
「ならば示してみろ。口先ではなく、行動と結果でな」
そのまま、サリィは暗闇に溶けて消えた。そのやり取りをフィロンが見ていたことに、当時の俺は気が付かなかった。




