第39話 袂を分つ 3
テツの隙を探ろうとして、サキは呼吸を忘れた。この体勢でまともに彼の攻撃を受けたら……絶対に死ぬ。本能がそう告げていた。
「……っ!」
――ラキとラナのところへ戻らないといけないのに!
一瞬の間。サキは思考を巡らし、覚悟を決めた。
目を閉じ、そして開く。刹那、手首を自身の口元に寄せる。僅かに浮き上がる血管に牙を立て、噛み切った。
零れ落ちる赤い雫を吸っていく。たった一人、陽の下で一時的に吸血鬼族の能力を引き出す苦し紛れの策。次の瞬間、彼女は地面を蹴り、反転して路地の奥へと駆け出した。迷っている暇はない。少しでも距離を取らなくては。
「待てっ!」
テツが即座に追いかけようとする。だが、ソニアはその行動を制した。
「テツ、追わなくていいですわよ。サキはあの状態で、まともな策など打てるはずもない。ラキも深傷を負い、ラナは洗脳が解けていませんし……何より、今は時間がありませんもの」
ソニア達の目前の目標はヴェルデ救出。だが、反乱軍の掃討作戦が行われる前に、計画を実行に移すことも忘れてはいけない。情に甘いところがあるソニアにテツは疑念を抱きかけていたが、どうやら杞憂であったらしい。
「……ラナと狐魅丹の相性は最悪だったみたいだから、サキがどれほど足掻こうと、ラナも当分は元に戻らない……はずだよ」
レーシュの言葉を最後に、ソニア達は踵を返した。彼女達が今すべきことは、ヴェルデの救出と反乱軍の窮地を脱すること。そのために必要な行動を取るだけだった。
**
私は城壁の外の森の小屋を目指して、路地裏を駆けていた。テツは怪我が治り次第、絶対に何発かは殴るとして、今は――
――ラナのこと、きっと何か、方法があるはず……!
信じている。いや、信じるしかなかった。ラナを取り戻すために、まだやれることがあるはずだと。
息を切らしながら決意を固める。
――絶対に、諦めない。
灼熱の陽光は、血を流しながら走る私を無情に照らし続けた。
**
ソニアの案内で城に侵入し、三人はユリアナの私室に足を踏み入れる。だが、その瞬間、三人は息を呑んだ。
燃え上がるような夕陽が窓から差し込み、深紅に染まった室内。薄く透けたカーテンがゆらめく中、ユリアナは椅子に腰掛け、穏やかな笑みで静かにこちらを見つめている。
「……フィロン」
――ただ、彼女の横にはフィロンがいたのだ。
「一足、遅かったね」
フィロンが肩をすくめ、まるで退屈な劇の幕間を眺めるような眼差しを向けてくる。
「お久しぶりですわね、ソニア」
ユリアナは微笑む。その表情は柔らかだったが、声音には冷たい壁を感じる。
「フィロンからすべて聞きましたわ」
「ユリアナ様……どういうことですの?」
ソニアの声がかすかに震える。
「フィロン、お前はサキ達を探し出して殺すと北に向ったはずだが。まさか、もう済んだのか?」
テツ達はサキ達と都の南で会った。よって、フィロンが既にサキ達を殺してこの場に来ているとは考えられない。だが、フィロンがユリアナと共にいるという事実を前に確認せずにはいられなかった。
フィロンは気怠げに片手を上げる。
「どういうことも何も……僕は最初から、合理的な選択をするつもりだったよ」
「フィロン……! お前、謀ったな」
「当たり前だろう?」
激昂するテツに返すフィロンの言葉は淡々としていた。
「餓鬼共の条件には穴があった。……あの脅しが実行されるのは、最速でも翌朝の死刑執行が行われた後だ。ならば、その前に計画を実行に移してしまえば問題ない」
フィロンが北にサキ達を探しに行くというのは、最初から嘘だったのだ。
「まさか、ではもう……!」
「既に、反乱の計画は始まっていますわ。わたくしとフィロンは布石を打ちました」
ユリアナの言葉が鋭く割って入る。
「ヴェルデは捕らえられました。ですが、彼を助けることは反乱軍にとって何の利益にもなりません。帝国に勝つために、無駄なものは捨てる。そう決めましたのよ」
「そんな……!」
レーシュが息を呑んだ。ヴェルデと最も付き合いの長いユリアナの言葉だということが冷徹な重みを増していた。
ユリアナは静かに席を立ち、ソニア達へ歩み寄る。
「……ですが、あなた方には最後の機会を与えましょう」
碧い瞳がソニアを真っ直ぐに捉えた。
「……ソニア。わたくしは、貴方と袂を分かちたくはない。幼い頃、わたくしはずっと、優秀だった影武者の背中を追っていました」
ユリアナの声が、一瞬だけ幼い少女のものに戻った気がした。ソニアの中に淡い思い出が蘇る。
「わたくしの能力が発現して、お役御免になった貴方が暗殺部隊に送られた後、わたくしは貴方の穴を埋めるのが本当に大変で……貴方の優秀さを思い知りましたの。……貴方を尊敬していました」
ユリアナはソニアに手を差し出す。美しく、白く……かつては互いに取り合った手を。
「……今ならまだ間に合います。さあ、わたくしの手を取って! さもなければ――」
ユリアナの声は震えるが、その表情には迷いはない。冷たい決断を迫る潤んだ瞳が、ソニアに突き刺さる。
「断りますわ!」
だが、ソニアはユリアナの手を取らない。
「ユリアナ様、貴方は仲間を切り捨てるような方ではなかった……! 貴方ならば、私達が革命を成した後、慈愛に満ちた世界を作ってくれると信じたから、私は、この道を選んだのです! ……それなのに、貴方は……」
怒りに満ちた言葉が鋭く響く。彼女の横で、テツとレーシュも険しい表情を浮かべていた。
ユリアナは小さくため息をつく。
「……愚かですわね」
その静かな呟きには、深い悲しみと諦念が滲んでいた。
「フィロン。やはり彼女たちは――」
「まぁ、そうだろうね」
フィロンは苦笑し、ソニア達を見渡す。その瞳には、かつての仲間を見つめる寂しさが浮かんでいた。
「ソニア。テツ。レーシュ。君たちは何も見えていない。理想だけで戦えるほど、この世界は甘くないんだよ」
重い沈黙が降りる。
フィロンとユリアナが静かに背を向けた。
「……これが最後の機会でしたわ」
ユリアナの言葉が、決定的な断絶を告げる。ソニアはフィロンを睨みつけ、深く息を吸い込んだ。
――そのとき。
「……甘さか。フィロン。それを理解しているのならば、私に殺される覚悟は当然、済ませているのだろうな?」
その声が聞こえた途端、大砲のような爆音と衝撃がユリアナの部屋の扉を破る。
――サリィ!!
蹴破られた扉の向こうから現れたのは、帝国軍の将校服を纏った長身の女性だった。長い緑髪を揺らし、鋭い眼差しをソニアたちに向ける。その場の誰もが、彼女の禍々しいほどの殺気に気圧されていた。
「……っあはは……サリィが軍服着てる……珍しいね」
何とか言葉を紡ぐフィロンの声は掠れていた。途切れ途切れな言葉を吐き出すたびに、息が浅くなっている。
「黙れ、愚か者めが」
サリィの言葉は冷たい。しかし、その声音の奥にかすかな悲しみが滲んでいるようにも感じられた。
「……貴様ら、ヴェルデが私に暴かれた時点で大人しく投降するべきだったのだ」
サリィは静かに歩みを進める。その足取りは確かだが、目の奥には微かな躊躇が見えた。
「今なら、育てたよしみで即粛清は勘弁してやらんこともない。……分かるはずだ。掃討作戦も知らず、後手に回っていた貴様らに勝ち目はない。帝国軍に付き、残りの残党を差し出すことを選べ」
サリィには、ソニア達が彼女の手を取ることを選ぶという確信があった。脅迫にも似た提案に、その場の空気がさらに張り詰める。
フィロンは無言で拳を握りしめた。
「……サリィと戦うのは、最終決戦になると思ってたんだけどな」
フィロンは苦笑しながらも、ゆらりと剣を構えた。肩で息をしながらも、その視線は鋭いままだ。
「まさか、前哨戦になるとはね。……残念だよ」
対するサリィは、一歩も動かない。まるで動く必要すら感じていないかのように、ただ冷ややかにフィロンを見据えていた。
「残念なのは私の方だ」
変わらず静かな声だった。
「最古参組を、まとめて処理しなければならんとはな」
その瞬間。増幅する死の予感に誰もが身構える。
死は、彼らにとって日常的なものだ。しかし、何度も死線を潜り抜けた者ほど、「こんなところで死ぬはずがない」という意識を無意識のうちに抱く傾向がある。
死線を潜り抜いた経験が「生きてさえいれば、いかなる状況でも打開策がある」という認識を生む。極限状態を生き延びた者は、その過程で状況判断や決断力を研ぎ澄まし、生存の可能性を最大限に引き出す方法を学ぶ――。
「……待って!」
切迫した声が、張り詰めた空気を切り裂いた。フィロンが眉をひそめる。声の主は、ソニアだった。
彼女は息を詰まらせながら、一歩前へと進み出る。
「サリィ。私とテツ、それにレーシュは……今この瞬間から帝国軍に付きますわ」
その言葉に、室内が凍りついた。
――生き抜いた経験。「生きてさえいれば打開策はある」と言う認識が、彼らに生存を最優先させる。ゆえに、彼らは生き延びるために必要であれば、意にそぐわない選択を取ることがある。
フィロンは自身を裏切ると宣言したソニアを見つめる。ソニアの表情からは迷いが拭えてはいなかった。
迷いながらも、ソニアが帝国軍に付くと宣言した理由。それは、サリィが軍服を着ているという違和感。そして、即粛清は勘弁するというサリィの言い方だ。それらのことから、サリィの今の行動は彼女の本意ではないと、ソニアは考えた。
そう。――生きてさえいれば、状況の覆しようはある。
「……反乱軍の残党を引き渡すことも、約束します」
「……賢明な判断だな」
サリィも、ソニアの言葉が本心ではないと見破ることができる。だが、サリィはソニアの降伏の言葉を受け入れた。やはりサリィはここでソニア、テツ、レーシュ、フィロンを殺してしまうことを望んではいないのだ。
「さて、フィロン。それにユリアナ皇女――お前たちはどうする?」
だが、サリィの瞳はなおも冷たい。
「先ほども言ったが、今なら即粛清だけは勘弁してやる」
ここまで言って、フィロンにサリィの意図が伝わっていない筈がない。フィロンはゆっくりと目を閉じた。深く息を吸い、吐く。
そして――静かに目を開く。
「断るよ、サリィ」
その声は驚くほど澄んでいた。だが、その清々しさの奥には、後戻りはできないという意志が宿っていた。
「僕は帝国を壊すと決めたんだ」
その瞬間、死の気配がフィロンとユリアナを包み込む。
――サリィの意図を汲んだ上で、フィロンは答えている。
ソニア達にはフィロンの自殺まがいの行動が理解できなかった。異常だった。
サリィはここでソニア達を殺すつもりはないと言っている。だが――それは大人しく投降するというサリィの要求を飲んだ場合の話だ。
なぜ、フィロンはサリィの最大限の譲歩を蹴ろうとしているのか。
確かに、要求を飲めば反乱軍の計画実行は絶望的だ。だが、ここで中心メンバー全員が死ぬよりは要求を飲む方が余程希望がある。
誰より実力を持ちながらも、精神的な脆さを抱えるフィロンの異常な言動。ソニア達――特に教会でミラクに詰られたフィロンを見ているテツには、フィロンがすべてを諦め、サリィによってもたらされる死に身を委ねているように見えていた。
「……おい、フィロン! ……冷静になれ!」
「フィロン……一言、帝国軍に付くと言えばいいだけですわよ……! そうすれば、あなたが反乱軍に誘ってくれたときに言った、共に支え合うような国を目指す私達の道は完全には閉ざされることはない……!」
テツに続いたソニアの叫びは、悲痛だった。だが、ソニアの言葉にフィロンは悲しげに目を伏せる。
「……共に支え合う、か。確かにソニアのことは、その謳い文句で誘った記憶があるね……。でも、糾弾したいのは僕の方だよ。だからこそ、僕は今、こうして反乱軍に残っているんじゃないか……」
フィロンの冷たい瞳が、ソニアとテツを射抜く。
「……皆、何で帝国軍に付くの?」
「フィロン……。あたしを誘ったときは、部隊に入るときに家族から離れて一人ぼっちになったあたしに……帝国に復讐したくないかって……言って誘ったよね。……でも、あたしは、もう、部隊のみんなで一緒に居られたら、それだけで良いから……。たった……それだけで……」
レーシュの潤んだ声がフィロンの殺気を微かに溶かす。彼女は涙を流しながらフィロンへと手を伸ばした。しかし、彼がその手を取ることはなかった。
「さようならだ、皆」
代わりに差し出されたのは、別れの言葉だった。
「……本当に。残念だよ、フィロン」
サリィがそう言ったのとほぼ同時に、扉があった場所から荒々しく四人が押し入る。身体的特徴から、彼らはそれぞれ鬼族、吸血鬼族、獣族、土人族だった。
――帝国軍に属する者ならば、誰でも知っている最もイカれた四人組。皇帝を操る亜種族の大臣達直属の武人集団。命じられた大陸帝国内外の土地に赴き、殲獣を狩り、男を殺し、女を拐い、子供を食する、修羅のような四人組――鋼鬼四天だった。
「やれやれ……。サリィを呼んでおきながら、大臣直属の鋼鬼四天まで寄越すなんてね。ま、でも僕には相応しいもてなしか」
「私は鋼鬼四天など必要ないと言ったのだがな。監視役だそうだ。どうやら大臣どもは私をも信用していないらしい」
サリィは短く嘆息する。
「……コイツらがいるんだ、フィロン。お前は死ぬしかない」
鋼鬼四天の一人、巨大な斧を肩に担ぐ鬼族の大男が嗤った。
「無様に逃げ回る暇もねえぞ、小僧」
「血の匂いが足りないわねぇ……。もっと泣き喚いてよ、楽しませてくれなきゃ、ねえ?」
獣族の女が舌舐めずりしながら言う。吸血鬼族の男は無言で血を宙に漂わせ、土人族の少女は怪力をもたらす手甲を装着した右手を握っている。
フィロンは、サリィにだけ視線を送る。
「……サリィ。昔、逃走経路を用意しておくことの大切さを、あなたは部隊からの脱走者を殺すことで教えてくれたよね。……僕、城に入るときは絶対に準備していることがあるんだ。それはね……」
フィロンが口にした瞬間、空気が震えた。ユリアナはフィロンの腕の中に身を寄せる。フィロンの足元には、空間の裂け目が生じていた。まるで世界そのものがねじれ、引きちぎられたかのような異様な光景。
「なにしようとしてやがるッ!」
鋼鬼四天の鬼族の大男が咄嗟に斧を振り下ろす。しかし、斧が二人を掠めることはなかった。二人の体は光の粒子となって空間の裂け目へと溶けていく。
彼らの姿が完全に消える刹那、フィロンの声が最後に響いた。
「また会おう、サリィ」
次の瞬間、空間の裂け目は崩壊し、フィロンとユリアナの気配が完全に消えた。
サリィは、無言でその余韻を見つめている。
「チッ、つまんなーい」
獣族の女が忌々しげに舌打ちをした。
ふと、土人族の少女が動こうとしないサリィを見上げる。そして、ぽつりと漏らす。
「……サリィさん、追わないの?」
「どう追えというんだ?」
その声は、どこか寂しげだった。
――こうしてユリアナとフィロンは、帝国軍とも、暗殺部隊とも決別した。
これで第3章は完結になります。
お読みくださって本当にありがとうございます。面白い、続きが気になると思ってくださったら、評価やブクマを入れていただけますと、励みになり有り難いです。
第4章に入る前に、テツ、ユリアナ、ラキの一人称の話を入れます。
第4章以降は、なるべくサキかラキの一人称で物語を進めていきたいなと思っています。
ぜひ、これからもよろしくお願いします!




