第37話 袂を分つ
廃れた教会。砕けたステンドグラスから射し込む月光が、埃っぽい空気の中で揺らぎ、教会全体に静かな不安を漂わせていた。
「ここまで待っても来ないってことは……ヴェルデに何かあったな」
テツは壁にもたれ、ぼそりと呟いた。その声は気怠げだったが、滲む焦燥を隠しきれてはいなかった。
「まったく、ヴェルデの無能さには呆れるね。……これ以上は待っていても仕方がない。今夜は二人だけで少しおしゃべりをして帰ろうか」
フィロンはにこやかに提案し、足元の石畳を軽く蹴った。小さな石片が転がり、乾いた音を響かせる。風が吹き抜け、朽ちた木材が軋む音が静寂の中に溶け込んだ。
テツは微かに視線を落とし、やや間を置いて口を開く。
「サキ……いや、血槍の様子はどうだ?」
「悪くないね」
フィロンは指先で剣の柄を弾きながら、薄く笑った。微かな金属音が夜の空気に鋭く響く。
「そろそろ外の任務を与えるようにサリィに頼もうかな。ヴェルデやユリアナとも会わせておきたいし」
その声音は軽いものの、細められた目には冷ややかな光が宿っていた。
「……ただ、双子は微妙だね。薬の相性が悪いのか、ラキは明らかに戦闘能力が落ちているし、ラナに至ってはすでに壊れかけている」
フィロンの言葉にテツは僅かに眉をひそめたが、すぐにその表情を消した。
ふと、微かな違和感を覚えたのだ。
風の流れが変わった。教会の闇に紛れるようにして、何かが潜んでいる。
フィロンは細めていた目を見開くと、視線を闇に向ける。
「……ねぇ、ずいぶんと熱心な盗み聞きだね。そろそろ顔を見せたらどう?」
軽い調子でそう言う。すると、沈黙を破るように闇が揺らめく。空間に異物が入り込んでいた。
ゆっくりと、不気味な律動を刻む足音が響く。月光が差し込む中、一つの影が姿を現す。
黒い服を無造作に纏い、草臥れた冒険者のように埃を被った姿は、一見すると隙だらけに見える。しかし、剣の柄に添えられた指先は異様にしなやかで、不気味な存在感を放っていた。
「……よお、フィロン。それに、テツか」
どこか乾いた、耳に残る声。ミラクだった。
ミラクは微笑んでいた。しかし、その目の奥に宿るのは、冥府の底を覗いたかのような深潭だった。
「昼間、砦に顔を出したんだが……あれはフィロンの指示か?」
「ミラク!?」
テツが驚愕の声を上げる。
月灯りに照らされたミラクの目は、底冷えするほど冷たい。歪んだ口元は、笑っているのか呆れているのか――テツには判別できなかった。
「へぇ、驚いた。よくこの場所が分かったね」
「忘れたか? この廃教会の近辺で昔、何度かサリィに殺されかけただろ」
靴音が石の床に響き、わずかに埃が舞う。鼻腔をくすぐるのは、冷たい夜の匂いとかすかに残る血の残滓。
「訓練兵の頃、サリィにはたまにこの森で遊んでもらったものだね……。……君がこの廃教会を覚えていたのは、意外だったよ」
ミラクが反乱軍の基地の一つに現れたのは偶然か、あるいは何らかの意図があってのことか。フィロンは動揺を隠しながら言う。だが、その指は無意識に腰の剣の柄をなぞっていた。
「昔話は、もういい。……なあ、フィロン。俺は今朝、砦に行ったんだよ。……あれはお前の指示か?」
「あれって……薬のこと? それなら、そうだよ。ミラクが部隊にいた頃にはなかった強力な新薬が開発されてね。あの子たちに使ったんだ」
フィロンは剣を指でなぞる。今度は無意識ではなく、意図的に。
「というか……君、ここに何をしにきたの? ……わざわざ僕に殺されに来たのかな?」
「さてな。……だが、一つだけ確かなことがある。俺は警告をしに来たんだ」
ミラクは長く暗い前髪から獣のような黄色の瞳を覗かせる。彼の目はまっすぐフィロンを射抜いた。
「お前ら、随分と悪趣味な真似をしているようだな」
「……はあ? ……悪趣味? 悪趣味だと?」
黙っていたテツが嘲笑混じりに言った。
「ミラクが部隊を抜けてから何をしていたか、僕達が知らないとでも思っているの? ……ただの快楽殺人鬼がさえずるなよ、雑魚」
テツに乗じてフィロンもミラクに言う。だが、ミラクはフィロンやテツの罵倒を意に介さず、ただじっとフィロンを見据えていた。
「フィロン。お前は俺を快楽殺人鬼だと言ったな」
「そうだけど?」
「……だが、お前はそれ以下だ。お前は狂人の仮面を貼り付け、道化を演じて、破壊者を気取っている」
「うーん、何を言っているのか分からないな。頭、大丈夫?」
「……お前の進む道の先には何もない。……なぜなら、フィロン……。お前は俺や死んだ兄の影を追っているだけの存在だからだ。お前は、兄と共に焦がれていた俺という影に縛られている」
「……そろそろ黙るといいよ。君の言うことはすべて間違いだ」
とぼけた様子を貫いていたフィロンだったが、ミラクの言葉に徐々に声を荒げていく。
「お前は帝国を壊した先にある救済を騙っているな。だが、それは嘘だ。……俺ならば帝国を壊した後、新たな争いを生み出す。……お前は壊して終わりなんだろう? お前はどうしたら良いかわからないんだ。お前という矮小な器では、俺や、お前の死んだ兄は騙れない……」
「……ミラク。お前は制御が壊れているだけだ。訓練ではそれで十分だったかもしれない。……だが、殺せば制御もクソもない。……今、戦えば僕は君を殺す。……分かる? 僕が勝つんだよ」
ミラクは反乱軍のことを把握しているかのような口ぶりだ。やはり彼は殺しておかなければならない。フィロンは常人の目では追えない速さで剣を抜いた。
「君、一人で僕とテツを相手にできると、本気で思っているの?」
フィロンは凄む。だが、それでもなおミラクは楽しげに笑ったままだ。
「荒れるなよ。さっきも言ったが、俺は親切に教えに来てやったんだ」
「……何?」
「……あの餓鬼の洗脳は解いた。俺の剣に施された魔術で、少々手荒に……な。砦に帰るのを楽しみにしていろよ。……手厚く歓迎してもらえるだろうぜ」
ミラクがフィロン達のいる廃教会を訪れた理由。それは、帝国軍と、暗殺部隊と繋がる反乱軍という、ただでさえ混沌としている戦況を掻き乱すためだった。
ミラクは自身が反乱軍と暗殺部隊の繋がりを知っていることを仄めかし、さらにサキ達という不確定分子を解き放ったことを伝えに来たのだ。
すべては、殺したときに得る感情を、最大限に引き出すため。ミラクの行動原理はそこにある。
ミラクは剣を宙で一振りした。そして、幻覚の闇に紛れて姿を消した。
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「……なるほど。確かに、これは面倒だね」
翌朝、フィロンは頭をかきながら、机の上の紙を見ていた。そこには、サキ達が残した手紙が広げられている。
ソニアの報告によれば、ミラクの奇襲を受け、サキ達の洗脳は解けたという。そのままミラクの挑発に乗ったサキ達は戦闘を始めたらしい。
だが、サリィが砦に戻ったことで戦闘は唐突に終わった。ミラクはサリィを見た瞬間に一時撤退を選んだのだ。サキ達が正気に戻ったことを知らないサリィは、ミラクを追って、その隙を突いてサキ達は逃走した。
サキ達はただ逃げたわけではなく、洗脳が解けていないラナを連れ、さらに最後に手紙を残していった。
手紙は、言い回しからしてラキが書いたものらしかった。
「この置き手紙の存在、サリィにはバレていないんだよね?」
「ええ、今のところは」
「そう。それにしても……」
フィロンは手紙を読み返しながら静かにため息をつく。
『俺達の望みは三つ。
一つ、反乱者と決めつけて人族を正式な手続きを経ずに殺すのをやめろ。
二つ、サキの希望で、サリィとライトを会わせたい。サリィにシャトラント村に行くように伝えろ。ライトにはサキが文を送っておく。
三つ、隠してもバレるだろうから言う。俺達はこれから帝国軍の正式な部隊に入軍するつもりだが、邪魔をするな。
もしこの要求を拒むなら、暗殺部隊の存在を公にする、もしくは内部の情報を敵対勢力に細かく漏らす。そうなれば、部隊どころか、お前らが進めている計画も破綻だろうな』
隣で腕を組むソニアも、疲れた様子で肩を落とす。相性のあまり良くない二人だが、今は互いに険悪な雰囲気になる余裕もなかった。
「要求の詰めが甘すぎる。……この手紙はブラフである可能性が高いだろうね。だけど……脅しが実行され得るとしたら、要求は少なからず飲むしかない」
「その……ミラクやサキ達を逃してしまい申し訳ありませんでしたわ」
「……まあ。サリィもいたのに逃げてしまったんでしょ? 僕とテツもミラクを逃してしまったし責められないよ」
「え」
「……餓鬼共は、都にいるなら見つけ出して殺せばいいだけだしさ」
フィロンにしてはあまりに寛大な判断だった。連絡が取れないヴェルデに、場を掻き乱すのを楽しむ快楽殺人鬼、さらに逃げ出した不確定分子。流石に仲間割れをしている場合ではないと考えているのだろう。
「……それより、ソニア。ヴェルデと連絡がつかないんだけど、何か知ってる?」
フィロンの何気ない問いに、ソニアは少し考え込む。
「あら……。一昨日、表の任務で警備兵支部に行ったときはヴェルデは居ましたわよ」
「そっか。今のところ、それが最後の目撃情報かな」
フィロンは指で机を軽く叩きながら思案する。ヴェルデが急に消息を絶ったことが、どうにも嫌な予感を呼んでいた。
フィロンの心に不穏な感覚が広がっていた。
――そのとき。低く冷たい声が、不意に空気を裂く。
「お前達、ヴェルデという奴と知り合いなのか?」
そこにいるはずのない女性の声だった。一瞬、場が静まり返る。ソニアとフィロンの会話が止まり、二人の視線が弾かれたように声の方を向く。
「……わあ」
フィロンが驚きの声を漏らす。そこに立っていたのは、サリィだった。
いつの間にか部屋に入り込み、フィロンの真後ろに立っている。驚きながらも、先ほど感じた胸騒ぎに納得した。そして、努めて平静を装い、笑みを貼り付ける。
「サリィ。いつからいたの?」
サリィはフィロンの問いを無視し、冷淡な声で告げる。
「警備隊のヴェルデのことなら、奴は帝国の裏切り者だ。私が直々に捜査を依頼されて判明した……。翌朝、見せしめとして、都の中心街で処刑されることになっている」
サリィの言葉に空気が凍りつく。ソニアは驚愕し、フィロンはわずかに眉を寄せた。
「本当に知り合いなのか?」
その反応にサリィが目を細めると同時に、フィロンは再び笑みを取り繕った。
「……あぁ、いや。有名人だから驚いただけだよ。ヴェルデって、ユリアナ皇女と仲が良い警備隊の副長だよね」
「確か、亜種族に弾圧されているのにアナテイア教への信仰心を隠していない馬鹿だよね。まさか反乱軍と繋がっていたなんてね!」などとペラペラと軽い口を動かしながら、フィロンは机の上の手紙をサリィに見られないように裏返す。フィロンは内心では舌打ちしていた。
フィロンを見下ろすサリィの瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。




