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第36話 波乱を呼ぶ影

「恐らく、幻獣種型を利用した魔術で洗脳されているな。……俺の剣と同じか」


 そう呟くと、ミラクは何かを確かめるように口を開く。


 ――サキ。

 名を呼んだ刹那、地上の少女がぴくりと反応して振り向いた。ミラクは確信を強めて、不敵に笑う。


「……ならば、俺の剣で解けるな」


 言い終えるや否や、ミラクは躊躇いなく城壁を飛び降りた。


 **


 早朝の作業が終わり、ソニアはサキとラキを連れて訓練場を後にしようとしていた。いつもの通り、早朝の処刑作業の後は洗脳をさらに深めるための暗示を行う予定だった。ラナに対してはレーシュが同じようにしているはずだ。


 空はまだ薄青く、霧が森を覆っていた。遠くでは鳥が鳴く声が聞こえる。ふと、その静かな空気が重く濁った。


 ソニアは目を見開き、息を呑んで立ち止まる。


 突如、背後に気配が現れたのだ。静かに、ほぼ気配を漏らさずに降り立った侵入者が只者ではないことを悟りつつ、あくまでも冷静に対処せんとソニアは背負った剣を抜く。


「……一体、どこの命知らずですの?」


 ソニアが声を上げて剣を構える。サキとラキは虚な目でソニアの視線の方向に向き直り、侵入者を見つめていた。


 やがて土埃が晴れ、現れた男を見た瞬間、ソニアは目を見開いた。鋭く冷え切った黄色の瞳。そして、口元の歪な笑み。


 ソニアの心臓が、強く跳ねた。


「なっ……ミラク!」


 よりにもよってフィロンとテツは砦を留守をしている。最悪の侵入者だった。朝は、サリィは砦にはいない。ソニアの狼狽にミラクは満足げに笑う。


「安心しろ、ソニア。お前を殺すつもりはない。……今はまだ、殺しても得るものが少ないからな」


 笑っていたミラクだが、彼の表情から徐々に色が褪せていった。ただぼんやりと立っているだけのサキとラキが視界の隅に入ると、ミラクの瞳からはいよいよ生気が失われた。


「……何ですって?」


 ミラクの異様な様子にソニアは眉を顰める。しかし次の瞬間、ミラクは体勢を低くしてサキの方へ駆け出した。


 ミラクは一瞬で間合いを詰め、サキへと斬りかかった。サキは槍を構えるが、間に合わない。


 ――斬。左腕に鋭い痛み。血飛沫が弧を描く。


「……ッ!」


 サキは膝をつき、槍を支えに体勢を整えた。


 だが、ミラクの視線はすでに次の標的――ラキへ向けられていた。ラキは双剣を投擲したが、ミラクはそれを軽々と蹴り飛ばし、そのままラキの胸を切り裂いた。ラキは血を吐いて、地に崩れ落ちる。


 サキとラキの荒い呼吸が飽和する。


 ソニアは次のミラクの動きを警戒するが、それ以上の追撃はなかった。ミラクはすぐに剣を鞘に戻す。


「ミラク、何を……。……っ、しまった!」

 

 ミラクの剣の鞘は、魔術が施されていることが一目瞭然だった。ただ人体を斬るためだけの剣ではない。剣には人の精神に何らかの影響を及ぼす幻獣種型の身体が利用されている。


 サキとラキの息切れは、悲鳴に近い慟哭へと変わっていた。二人には、記憶が奔流のように流れ込んでいた。


 

 **

 


 ――旅立ち。故郷の村を後にした朝。


 潮風が吹いていた。ライトに鍛えてもらった私は自信と希望に満ちていた。私は槍を肩に担ぎ、誇らしげに胸を張っていた。


 ――ミラクとの出会い。


「断る。お前みたいな雑魚と何の益にもならない戦闘なんか、俺はしない」

「ざ……雑魚って……何よ? お前……私の強さを見込んで、誘ってきたんじゃないの……?」


 ――焚き火の夜。


「俺は大河を渡って都へ行くつもりだ。……西部の冒険者の多くが、そうするようにな」

「そうなの。私も目的地は都よ」

 

 ミラクの横顔が炎に照らされていた。ミラクは、どこか遠くを見つめていた。



 **

 

 

 記憶が溢れ出し、私の意識を侵食していく。頭が割れるように痛んだ。


「……あ……ぁ……!!」


 視界がぐにゃりと歪む。足元が崩れ、世界が揺れる。胃の奥がひっくり返るような吐き気。目の奥は焼けるように熱い。


 それは圧倒的な拒絶だった。


 ――違う、違う……私は……!


 目の前の光景が捻じれていく。ミラクの姿が、焼け焦げた影になる。揺れる焚き火は広がって、赤髪の女性――ニーナの死体に変わった。


「あぁ……あ、ニ、ニーナ……」


 血に濡れた槍を見下ろす。そこには、何十もの死体が転がっていた。反射的に槍を投げ捨てた。カラカラと転がる槍の音に混じり、声が聞こえる。


 ――フィロンの声が、頭の中で響く。


『これは、戦争を防ぐための任務だ』


 ――……本当に……? いや、違う……!


『お前は、帝国の民のために戦っている。反乱者を殺すことで、戦争を防いでいるんだ』


 ……そんなの……まやかしだ……!!


『殺せ、血槍。……それが民の――帝国のためなんだ』


「ッ――!!!」


 息が切れて喉が渇く。けたたましい悲鳴が喉の奥から込み上げる。頭を抱え、地面に爪を立てる。意識が崩壊していく。焼けるような記憶の奔流と、現実との間に挟まれ、精神が粉々に砕け散りそうだった。


「ああああああ……!」


 爪の隙間から血が流れて赤く染まった手を見つめると、自分が殺した人間の顔が浮かんできた。

 フィロンの命令にただ従い、殺し続けた”反乱者”。

 

『やめてくれ……助けてくれ……!』


 悲痛な叫びが、耳の奥で響いて離れない。取り返しのつかないことだ。私の命を狙った盗賊や海賊を槍で刺したことならばある。……だが、彼らは……。


「わ……私は……何で!」


 指が震え、心臓が悲鳴を上げる。

 

『お前らは帝国に利用されているだけだ……!』


 いや、私の手が汚れたことは最早どうでも良い。


 私は、ラキとラナにこんな場所で、こんなことをさせてはいけなかったのに!


「違……私、は……ラ、ラキ、ラナ……!」



 **


 

 サキの絶叫に呼応するように、隣にラキも崩れ落ちていた。


「……ぐ……ぁ……」


 彼の目から、血の涙が流れていた。彼もまた、記憶の奔流に呑まれ、心を引き裂かれていた。


 このままでは、サキとラキが壊れるのは遠くない。

 

 ――その時、鋭い破裂音が鼓膜を打った。閃光が視界を裂く。


「やってくれましたわね、ミラク。……何という強引な方法を……。このままでは、二人とも壊れてしまいますわよ……!?」


 残響の残る空間に、ソニアの声が響く。煙の向こうから彼女が姿を現した片手には、小型の閃光弾が握られていた。爆発による衝撃と閃光で、場の混乱を一時的に断ち切ったのだ。


 彼女は閃光弾をミラクに向かって投げつけると、サキとラキの間に割って入った。


「サキ! ラキ! 貴方達が殺した死刑囚は……ヴェルデが……私達の仲間が見繕った……死んでも仕方がない人間ですわ。殺したことを気に病む必要はない……!」


 サキの呼吸が止まる。耳鳴りの向こうで、ソニアの声を聞いていた。


「そんなの……! それが……どうしたっていうのよ……?」


 サキはうわ言のように答えた。ソニアはサキの肩を掴んだ。ソニアの指はサキの肩に食い込む。


「今は、気に病んでいる場合ではないと言っているのですわ!」


「……おい……」


 ソニアの鋭い声にラキがゆらりと顔を上げる。ぐったりと汗に濡れた前髪の隙間から覗く瞳には、動揺による怯えと怒りが交錯していた。


「……お前ら、とんでもないことを、してくれたな……」


 震える手で双剣にかけた指に力を込める。だが、立ち上がる気力さえ残っていないことを、ラキ自身が誰よりも理解していた。


 それを見抜いたように、ソニアはラキを一瞥だけした。


「……ですから、今はそれどころではありませんのよ」


 冷ややかな視線がラキを射抜く。ラキは悔しげに歯を食いしばった。拳が震える。だが、今は何もできない。ただ、ソニアの言葉を噛みしめることしかできなかった。


 沈黙のなか、サキはただ呆然とソニアを見つめていた。


「サキ……貴方、ミラクを捕まえるために、ここに残ったのではありませんの?」


 ソニアはサキの肩を掴んだまま、目をしっかりと合わせて問いかける。その言葉に、サキの瞳が僅かに揺れた。

 

 ――ミラクを捕まえる。

 声は出さずに、唇だけが動く。サキの黒い瞳にはまだ迷いが滲んでいた。だが、サキはしばらく黙ってから視線をソニアから逸らした。


「あのとき……私はどうかしていた」


 かすれた声で呟く。手が小さく震えていた。


「ミラクを忘れることはできないけど……私は、そんなことを言わずに逃げ出すべきだったんだ」


 ラキは黙ったまま、サキの言葉を聞いていた。


「ラキとラナを逃がしたあと、私にも逃げる機会はあった。でも……それなのに私は……」


 苦しげに眉を寄せる。その顔には悔恨が滲んでいた。


「二人が砦にいると知るまで……サリィとミラクのことを優先して、ラキとラナのもとへ向かおうとしなかった……」


 自身の弱さを呟くサキの声に、ラキの拳が僅かに強く握られる。


「ラキ……ごめん。でも……!」


 サキは唇を噛みしめ、震える息を整える。唐突に、サキはソニアの手を振り払って立ち上がる。そして、決意を込めた眼差しでラキを見据えた。


「でも……今度こそ私、ラキとラナのことは絶対に逃がすから」


 ラキも俯いていた顔を上げてサキを見つめた。彼女の瞳には、迷いながらも固めた覚悟が宿っていた。しかし、ラキは静かに首を横に振る。


「……何言ってんだよ。それだけは、もう駄目だって話だろ」


 はっきりとした声だった。


「逃げるなら一緒。残るなら一緒だ。もう、一人にはさせない」


 サキは結んだ口の奥で息を呑んだ。ラキは震えながらも何とか立ち上がって、サキと視線を合わせる。ラキはサキの肩を掴んだ。その手の温もりが、彼の揺るがぬ意志を物語っていた。



 **


 

 ――……あぁ、いいな。


 そのとき、ミラクは体を震わせ、高まる鼓動に身を任せていた。

 正気を取り戻したサキの震える肩、うつむいた顔、血に濡れた手――そのすべてがミラクにとっては心地よい刺激となって響いていた。


「……やはり、生きている者から得る熱は格別だ」


 ミラクは愉悦に満ちた声で呟いた。彼はゆっくりと剣を握り直す。


 サキはハッとして顔を上げる。ミラクの目は、まるで獲物を弄ぶ捕食者のような光を湛えていた。


「……サキ、俺はもっとお前を見たい。お前もそうだろう?」


 その神経を逆撫でする言動に、サキは拳を震わせながらラキの手を払い、ミラクに向き直った。額には血管が浮かんでおり、黒い翼は拡張している。


「は……何を言っているのよ!? 私は……。私は、ミラクがどういうつもりだったのかを洗いざらい吐かせて……最後は、殺してやるつもりなんだから……!」


 強がるように叫ぶサキだったが、ミラクはそれを愉しむように口元を歪めた。


「殺すか。洗脳され、命令のままに殺していたようにか?」


 挑発的な指摘だった。サキの心臓が、ドクンと跳ねる。


「……洗脳はもう解けたわ! ……私は、私自身の気持ちとして、ミラクのことが殺したいくらい憎いだけよ……!」


 ミラクは降り止まない刺激に対して眩暈を覚えながらも、サキを嘲笑した。彼は何をすればサキが動揺するのかを知っていた。


「面白いな! 憎いならば、なぜお前は俺に似た餓鬼を側に置いている?」


 ミラクはラキを指差しながら言う。その言葉に、サキの全身が凍りつく。


「黙って! ラキは、ミラクになんか似ても似つかないわよ!」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。サキは歯を食いしばり、乱れる呼吸を整えながら睨みつける。

 

「サキ、お前は俺の影に囚われているんだよ」


 ぞくり、と冷たい何かが背筋を這い上がる感覚。

 ミラクの視線がサキからラキへと移る。瞬間、彼の剣が閃いた。


「ラキッ!」


 サキが叫ぶよりも早くミラクは一直線にラキへと跳躍する。サキはほぼ本能で動いた。

 ミラクに斬られた左腕から血の槍を瞬時に生み出し、渾身の力で振るう。


 金属が弾けるような音。

 ミラクの剣とサキの槍が激突し、稲妻のような光が散った。


「……吸血鬼族の力、使えるようになったのか」


 ミラクは少し驚いたように目を見開く。


「良いな。……今ならサキが戦闘好きだった理由が分かるぜ。……俺に執拗に手合わせを願っていたお前が、懐かしいよ」


 彼は後退しながら口の端を持ち上げる。興奮に震える声で、静かに言った。


 ただ刃を交わすだけ。だが、相手が正気のサキであれば、単純な攻防であっても、それはミラクにとっては生者の感情を味わうことができる極上の快楽だった。



 ミラクとサキとラキ――三つ巴の隣で、ソニアは砦に近づきつつある存在に、そっと安堵の笑みを溢していた。

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