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第35話 快楽殺人鬼の眼差し

 暗い廊下に土と石の匂いがこもっている。冷たい空気が、皮膚の表面をなぞるように這い上がってきた。


「血槍、そこで何をしていますの?」


 聞き慣れた、けれどどこか遠い声。


「……何でもないわよ」


 私はゆっくりと振り向く。そこには、いつものようにソニアがいた。黒い軍服に細いシルエット、冷え切った眼差し。それが今では「日常」の風景となっていた。

 ――ふと、厚手の布地に獣革の胸当てを重ねた簡素な装いのソニアが……かつて冒険者のような服を着ていたソニアが重なって見えた。


 名前で呼ばれなくなって、どれほどの時間が経ったのか。気がつけば、砦内では皆が私を「血槍」と呼んでいた。


 ――どうしてだろう?


 そう思うことすら、いつからか霞んでいった。


「さっさと来なさいな。フィロン達は反乱軍の掃討作戦の準備のための任務に出ていて、人手が足りないのです。次の処理が待っていますわ」


「……わかった」


 ……本当はわかっていない。……何も。でも、そう口にするのがただの機械的な応答になっていることに気付かないふりをして、私はソニアの背について歩き出した。


 石造りの廊下を進むたび、かすかに鉄錆びた血の匂いが漂ってくる。もう慣れてしまったはずのその匂いが、今日はなぜかやけに鼻についた。


 ――サキ。


「……え?」


 誰かに呼ばれた気がして振り向いた。だけれど、そこには誰もいなかった。


 

 **


 

「今日も帝国の平和のために、頼んだよ……二人とも」


 フィロンの軽やかな声。心地よさすら感じさせるその響きが、今の私とっては確かに現実だった。


「……はい」


 感情の起伏は薄れていた。フィロンの言葉を聞けば、自然と身体が動く。そういうものだった。


 目の前には、いつものように拘束された反乱者たち。痩せこけ、恐怖に歪んだ顔。見慣れた光景だった。


「……処理を」


 私は槍を構える。何も考えない。ただ、命令を遂行する。


「……はぁっ」


 刹那、槍が閃いた。肉を裂き、骨を貫き、血が弧を描く。


 真っ赤な飛沫が、私の手を濡らす。生温かい液体の感触。それが何度目か、もう数えることすらなかった。

 目の前を血が舞うと、私は変になる。胸が熱くなって、喉の奥から何かが込み上げてきて、叫ばずにはいられない。


「さすが、血槍」


 フィロンの声が褒めるように響く。私は何も答えなかった。私は叫びをやめて、息を整える。そして、ただ頭を下げるだけ。


 ――どうして……?


 心の奥底で、何かが問いかける。だが、それはすぐに霧のように消えていく。


 私の横では、「双剣」と呼ばれている少年が同じように剣を振り下ろしている。


 同じ部屋で寝泊まりしている少女は「魔女」と呼ばれ、殺すだけの武力が無いことから、レーシュの魔術の研究を手伝わされているらしい。



 

 **

 


 その夜、私は寝台に横たわりながら、無機質な天井を見つめていた。


 ――血槍。


 そう呼ばれることに、何の疑問も抱かなくなっている自分が、ほんのわずかに怖かった。


 ……怖い? あれ? 私、ここに来る前には、何をしていたんだったかしら?


 ――かつて「**」と呼ばれ、村で人族と生きていた日々。旅に出て……誰かと出会って……一緒に居たいと思った……ような……。


 それは遠い夢だった。一瞬だけ脳裏に現れて淡い景色の中に消えていく。


「……」


 その名前を、口に出そうとして、結局出せなかった。喉の奥で何かが詰まり、言葉にならない。


 ただ、目を閉じる。そして、また明日も同じ日常を繰り返す。血に塗れた槍を振るいながら、何も考えずに。


 槍を構え、突き、引き抜き、血の匂いを吸い込む――それが日常。


 

 **

 


「血槍、そっちの男を頼みますわ」


 ソニアが言う。


「……ええ」


 私は槍を振るう。

 相手が男でも女でも、若くても老人でも、変わらない。ただ命を摘み取るだけ。

 かつては心が震え、手が汗ばみ、夜に眠れなかったはずなのに。


 今は違う。

 血の匂いと熱に、衝動のようなものが込み上げてくる。


「血槍、今日も見事ですわね」


 ソニアが淡々と褒める。

 私は薄く笑った気がするが、それさえも曖昧だった。


 **


 その日、処刑場に運び込まれた男は、いつもと違っていた。


「戦争をするしかないんだ……! もう、帝国を倒すしかないんだ!」


 男が叫んだ。

 彼の目は絶望ではなく、燃えるような怒りを宿していた。


 ――何か、私は。


 一瞬、何かが胸を刺した。

 けれど、その思考はまたすぐに霧の中に沈んだ。


「……彼は反乱軍の末端の構成員だな。……ヴェルデは事前に砦に送らないように処理し切れなかったのか」


 フィロンが静かに言ったのが聞こえた。

 だが、私はその意味を考えることなく、いつものように私は槍を構えた。


 男の目が私を見据える。


「お前も……帝国に利用されているだけなんだぞ……!」


 私は何も言わなかった。ただ、槍を突き出した。


 肉を裂き、骨を貫き、血が吹き出す。

 男は崩れ落ち、訓練場の土が赤に染まる。


 私はなぜか、その光景から目を離せなかった。


「うっ……」


 嗚咽が漏れる。人が崩れ落ちて、赤に沈んでいく光景に頭痛がした。……その光景は、思い出したくない、酷い絶望の記憶と重なっていた。


 ――思い出せない。だけど、この記憶は何? ――あの激流は……大河?


「……君は“血槍”だ」


 息を荒くしてうずくまる私の耳元で、フィロンの声が響いた。その言葉は、いつも私の中で何かを決定的に麻痺させる。


「……そう、私は血槍。私は、ただ命令を守っていればいい……」


 そう思うことで、すべてが楽になった。


 砦の吹き抜けは、朝日が眩しい。

 肌が刺すように熱い。


 ――なのに、私は、顔を上げて眩しい太陽を睨んだ。


「血槍、そこで一体何をしていますの? もう行きますわよ」


 ソニアの声が響く。


「……そうね……」


 ――太陽をこんなにも熱く感じるのは、一体いつからかしら……。


 ――本当に、こんなことをしていて戦争を防ぐことができるの?

 ――本当に、私はまた***に会うことができるの……?


 

 青い空が、在りし日の旅立ちの記憶を呼び起こしていた。

 けれど、私は槍を握り直し、足を踏み出した。考えることをやめて。


 ――あれ? ***って、誰……だっけ……?



 **


 

 都シュタットの城壁に腰掛ける人影がある。

 見上げても見上げきれないほど高く聳える城壁に人がいるというのは、俄には信じられない状況だった。

 

「……笑えないな。……何だ? あの(ザマ)は……」


 心底、不愉快そうに呟く。影は、城壁に埋め込まれたようになっている砦の中心の吹き抜けを見下ろしていた。彼の胸に渦巻くのは、沸騰するような怒りと底の知れない失意だった。


 ――彼は、楽しみに取っておいた極上の餌が、他人の舌先で弄ばれ、さらに泥の上に吐き捨てられている光景を目撃したのだ。


 彼が絶望に染め上げるはずだった少女は、虚な目とミスマッチな叫び声を上げて、半狂乱で処刑対象を血に染め上げていた。


 彼――ミラクはため息をつく。あんな壊れた玩具で遊ぶために、十年近くも殺人鬼の真似事をしていた訳ではない。


 ミラクは、殺したと思っていたサキが目の前に現れたとき、それまでは死者に対してしか抱けなかった強烈な感情を抱いた。

 ()()()()()()()()()、強烈な感情を抱いたのだ。


 ミラクはサキに対して何か特別な感情を抱いているわけではない。ミラクの目的は、サキとの関係を複雑にし、悪化させることで、自らの内に湧き上がる様々な感情を「味わう」こと。

 

 ――殺すことでしか得られなかった「快楽」を、生者と関わることで得ることができる。

 

 ……だから。もっと、もっと得るはずだった。


 サキが自分を救おうとする姿勢に気づきながら、その善意を利用し、関係をねじ曲げていく。それに伴って生まれる愛憎の感情を味わうことが、彼にとっての娯楽となり……快楽を得る手段となる()()()()()のだ。


 ミラクは感情そのものを楽しむために他人を殺す、あるいは唯一感情を抱ける生者であるサキとの関係を意図的に複雑にしていく。感情を味わうことは、感情と呼べるほどの熱のない世界を生きていた彼に取って、「快楽」に相違ない。

 


 ――しかし。サキから感情が奪われてしまっている。これでは、「快楽」はもたらされない。


 故に、感情を失った少女に対して、快楽殺人鬼は落胆の眼差しを落としていた。


 

 風が吹き、鳥型の殲獣がミラクの眼前を横切る。彼は片手でそれを掴み取ると、翼を捥ぎ取って城壁の内側へと投げ捨てた。鳥型は、霧の地へ舞うように落ちていく。

 

 ――不意に、ミラクの瞳は黒い輝きを取り戻した。狂気の願望が滲む、歪な笑みを浮かべる。



「……ただ……あの状態のサキを正気に戻せば、どんな顔をするのか……。……俺にどんな感情を……くれるんだろうな……?」


 ミラクは、肩に担いだ古文字の紋様が描かれた剣を手に取って、立ち上がった。

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