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第34話 帝国軍暗殺部隊、早朝の定型作業

 テツは無表情のまま、訓練兵達が殲獣の死肉の処理を着々と進める様子を眺めていた。

 

 直接サリィの元に送られた最初期の訓練兵であるテツ達とは違い、今の訓練兵達は一度、司令部を経由して暗殺部隊に送られている。


 一時的な力を得ることができる強化薬や、帝国や司令部を盲信させるための洗脳薬。司令部で薬漬けにされた彼らが、安定した感情と健康な肉体を代償に与えられたものは、帝国を裏切らないという忠誠心と一時的な身体強化のみだった。


 地下室には鉄臭い血の匂いが充満している。石畳の床はすでに幾重もの血溜まりを作り、赤黒く変色していた。灯された火は薄暗く、そこかしこに影が揺らめく。


 天井には数多の殲獣の死体が吊るされていた。喉を裂かれ、腹を割かれ、そこからまだ温かい血が滴り落ちている。訓練兵達は血を抜き、皮を剥ぎ、毛を毟り、肉を干す。作業に没頭し、手際よく刃を走らせながら、流れ出る血を瓶に溜めていく。


 殲獣を魔術の材料にするためだ。


 地下特有の湿り気が生臭さを強めて、足元には皮や肉片が転がっていた。


 ふと、単調に飽和する作業の音律の中に、二つの靴音が混ざり込む。

 それと同時に、テツは不快そうに舌打った。


「戻ってきたのか、フィロン」


 開け放たれている扉から姿を現したのは、フィロンとレーシュだった。


 フィロンはどこか楽しげな足取りで血溜まりを避けながら進み、一方のレーシュは顔色を変えずに後ろを歩いている。


「うん。ラキだけなら、洗脳していない状態でも話が通じるかと思ったんだけど……やっぱり洗脳は不可避だった。早々に飲ませて、猿鬼の部屋に入れておいたよ」


 日常の雑務を片付けただけ、というような軽い口調だった。

 後ろのレーシュは床に目を落とす。フィロンが避けて進んだ血溜まりを自身は踏んでしまったこと気がついたのだ。生暖かい液体がレーシュの靴底に纏わりつく。


「本当に飲ませてしまいましたのね……」


 テツと同じく考えを巡らせながら作業の様子を眺めていたソニアがため息混じりに呟く。


 ソニアは、司令部が訓練兵を薬漬けにしているため、安定した人手が不足している暗殺部隊にサキ達を招いたはずだった。戦いの実力は高く、ミラクを暗殺するという任務を果たせなかった代わりの成果としてサリィに差し出すには十分だと思っていた。

 

 だが結局は、反乱軍の掃討作戦という大波と、サリィとサキのライトに関する予想外の相性の悪さを前に、その策略は叶わなかった。


 かつて皇女として国民を愛するよう教えられ、表の顔は軍医であるソニアとしては、訓練兵の子供達が薬漬けにされといることは忌むべきことだった。

 新たな風を吹き込んでくれそうだと、サリィへの手土産として連れ帰った少女達は、何も変えてなどくれないまま帝国の闇に落ちていく。


 ミラクに殺されかけて沈んでいたようだが、無垢で楽観的な、希望に満ちていた少女が堕ちる(さま)に、ソニアは自身の過去と重なる影を見た。もう何もかも投げ出して、諦めたくなる。だが、希望は完全に掻き消えたわけではない。反乱軍としての作戦が成功すれば、救うことができる人がたくさんいる。


 ――もうこれ以上、失敗している暇も足踏みしている暇もない。

 

 ソニアは自身を落ち着かせるように静かに息を吐くと、顔を上げた。


「……じゃあ、レーシュ。洗脳を効果的に深めるために大切なことを話してね」


 フィロンがテツ、ソニア、レーシュの顔を見渡しながら言う。

 レーシュは頷き、口を開いた。


「……孤魅丹は、天狐の涙から作られる。天狐は幻想の中に獲物を閉じ込める……殲獣。だから、孤魅丹の作用もそれに近い。洗脳を持続させるために大事なこと……それは――できる限り現実世界から切り離すこと」


 普段は辿々しく話すレーシュだが、魔術のこととなると饒舌になる。


 司令部が投与を中止した孤魅丹を訓練兵達が殲獣の解体を進める真横で話題に出すこと。何より秘匿すべき反乱軍に関わる内容を司令部から強く洗脳されている訓練兵達の真横で話すのは危ういように思われる。

 

 だが、問題はない。訓練兵達は、感情も実力も薬漬けのせいで一時的に高まることはあっても不安定だが、盲目的に帝国と上官を信奉する。訓練兵達はフィロンやレーシュ、そしてテツやソニアが裏切るなどとは考えもしない。


「まず……名前は……呼んではだめ、だと思う」


「……名前を?」


「うん。名前は現実を思い出させる。天狐の幻術も、一人だと中々抜け出せないんだけど、名前を呼ばれたら幻術が弱まるの。それと同じ」


 レーシュの言葉に、ソニアが静かに目を細める。せめて彼女を正確に表す呼び名を付けたいと思ったのだ。半吸血鬼であり、槍術に自信を持ったあの少女を。人族と亜種族――血に囚われた帝国を、暗殺部隊を、変えてくれそうだと思ったあの少女を……。


「……なら、サキのことは……そうね、『血槍』とでも呼びましょうか」


 その瞬間、どこかで殲獣の血が滴り落ちる音がした。


 訓練兵の一人が、殲獣の喉を裂く。

 ぬらりと臓腑が床にこぼれ、血が飛沫を上げた。


 血槍。


 その名が、殺しの因果に縛られた地下室の空気に馴染むように響いた。


「わかった。じゃあ、半獣族の子たちは……男の子の方は双剣、女の子の方は魔女でいいかな。……それと……」


 レーシュは一呼吸おいて、ゆっくりと続けた。


「寝ている間は、幻想が現実より強まっている。だから、睡眠中に繰り返し声を聞かせて暗示をかけたら、洗脳が強まるはず。……今日はあたしが後から行って、司令部が訓練兵の子達にしているみたいに、暗殺部隊の思想をしばらく耳元で言い続けてみるよ」


 眠りの中で、現実と幻想の境界が曖昧になる。そこへ、繰り返し繰り返し、言葉を流し込む。それは意識に深く根をはっていき、暗示が強まるのだ。

 レーシュは薬の効果を自身の手で確かめたいのか、珍しく積極的に役割を買って出た。


「いいね。じゃあ、深く眠っているときにしっかり暗示をかけておかないとね」


 満足そうに笑うフィロンの背後では、訓練兵達は淡々と作業を続けていた。

 生温かい血が滴り落ちる音だけが、規則正しく響いている。


「フィロン。しばらく暇が無かったが、翌朝の定型作業に送られてくる死刑囚の調整はちゃんと済んでいるのか?」


 テツが低く呟く。


「もちろん。明日の朝に反乱軍として送られてくる死刑囚は、実際には反乱軍ではない者がほとんどだ。……全員じゃないんだけどね。ヴェルデが見繕ったクズ共が大半だよ」


 フィロンは無造作に手をひらひらと振る。反乱軍といえど全員を生かすことはできない。大義を成すためには犠牲は不可欠だ。反乱軍に参加する者ならば、己の命を差し出す覚悟など済ませているはずだった。


 フィロンの言葉にソニアは薄闇に灯る火を仰ぐ。赤黒い血の匂いが、地下室に満ちていた。


 

 **



 目が覚めた時、私は知らない部屋にいた。


 天井が暗い灰色で、壁は冷たそうな石造り。埃臭い空気に、鼻をつく鉄の匂いが混じっている。


「あれ……?」


 頭がぼんやりしている。自分がどうしてここにいるのか、思い出せない。


「……私、一体どうして……?」


 瞼が重く、思考は霞がかったように鈍い。胸の奥に微かな違和感があるのに、何かに蓋をされたみたいに、考えがまとまらない。


 ふと、口の中に奇妙な感覚を覚えた。

 喉の奥が痺れている。舌の先まで苦い薬の残り滓が張り付いているような不快感。


「う……」


「え?」


 呻き声に視線を落とす。その先に、ラキとラナが座り込んでいた。


「ラキ、ラナ……!」


 思わず名前を呼ぶ。名前を呼んだ瞬間、二人の表情が微かに歪んだ気がした。けれど、ラキとラナは顔を上げない。虚ろな目で床を見つめ、微動だにしなかった。


 その時、気づいた。

 石の床には古い血痕が染みついていた。ラキとラナは黒い制服を身に纏っている。


 ――……ああ、そうか。私は暗殺部隊にいるんだった。


 

「……あ、起きてる? えっと……血槍に、双剣に、魔女」


 はっとして顔を上げると、細く開けられた扉の隙間に人影があった。長い白髪から目をのぞかせていたのはレーシュだった。


 **



 壁際には処刑を待つ者たちが並べられ、土に乾いた血の跡がこびりついている。砦の中心の吹き抜けに差し込む明るい陽の光は、命を搾り取るために存在している場には不釣り合いだった。


 あまりに異様な光景なのに、驚きよりも、ただ淡々と「そういうものか」と思っている自分に気づいた。


「今日も帝国に楯突く人族が、たくさん送られてくるよ」


 フィロンの明るい声が、場違いなほど軽やかに響く。

 気づけば私は、ラキとラナと並んで彼の前に立っていた。


 身体は正常に動く。けれど、頭の奥が霞んでいる。思考の芯がふわりと浮いて、掴みどころがない。


「部屋の中にいる奴らは、都に旅をする人族の少年達を攫って亜種族に奴隷として売っていた馬鹿共さ。人族と間違えて、ちょっと狩りに出ていた都の長耳族を攻撃して返り討ちにあって、捕まったらしいよ」


 壁際に並べられた囚人たちは、皆、憔悴しきった顔をしていた。足枷をつけられ、痩せこけた体を震わせている。だが、彼らの目には、かすかに光が宿っていた。


 それを見たフィロンが、楽しげに笑う。


「さて――そろそろ最初の洗礼といこうか」


 おかしい、と思うべきだった。でも、何がおかしいのかがわからない。


「君たちは、暗殺部隊の存在意義を知っているかな?」


 フィロンが優しく尋ねる。

 ……ソニアから説明されたことはあったかもしれない。だけれど、詳しくは覚えていない。


「……反乱分子を芽のうちに殺して、革命を起こさせないこと、でしょう」


 私は静かに答えた。まるでそれが当然のことのように、口が勝手に言葉を紡いだ。

 ……あれ? 私、どうしてこんなことを……。


「その通り。……もっと言うと、戦争を防ぎ、帝国の平和を守っているんだ」


 フィロンは仮面のような笑みを深め、傍らの訓練兵の子供に視線で合図した。一人の囚人が縄を引かれて前に突き出される。私達を訓練場に連れて来たレーシュは、その傍で私達を観察するようにじっと見ていた。


 突き出されたのは、痩せた男だった。肌は汚れ、髪は伸び放題で、飢えと恐怖に震えているのが見て取れた。


「暗殺部隊の一員になるためにも、作戦で駒になってもらうためにも……殺しができないんじゃあ、何も始まらないからね」


 フィロンがますます笑みを深める。


「暗殺部隊の一員……」


 何となくその言葉を反復した。


「うん。あ、その服は帝国軍の軍服だけど……表向きには存在しないとはいえ、暗殺部隊も帝国軍に属するから気にしないで」


 その言葉に、私は自分が着ている服に目を遣る。いつの間にか暗殺部隊の子供達が着ているのと同じような黒い制服を着ていた。

 

 ――そういえばラキやラナも似たような服を着ているわね。

 

 フィロンは白い騎士のような服を纏っているが、ソニアやテツは冒険者が着ている服に近いものを着ていた。暗殺部隊では階級が高いと着る服は自由なのだろうか。


「さあ、殺すんだ」


 虚に周囲を見渡していると、フィロンの声が澄み渡る。自然に、私は一歩前に出ていた。


 ラキも同じだった。

 ラナは何も言わず、ぼんやりと立っている。


 頭の片隅で、かすかな違和感が疼いた。私はこんなことをするために砦に来たんじゃない――そう、何かが間違っている。


 けれど、その違和感は霧のように掴めない。考えようとすればするほど、頭が靄に包まれていく。


「……悪いことではないんだよ?」


 フィロンの声が落ち着いた調子で響く。


「こうして反乱分子を潰すことで、戦争を防げているんだから」


 目の前の男は震えていた。何かを言おうと口を開く。

 私は槍を構えた。


「現在の帝国がどんなに不安定だとしても、戦争に比べたら遥かにマシな状況さ」


 ――槍先が血に濡れる。


 続いてラキの双剣が振り下ろされる。

 血の匂いが鼻を突く。鉄の味が口の中に広がるような錯覚。


 私はただ、静かにその場に立っていた。


「……フィロンの言っていることは一理あるわ」


 自分の声が、誰か他人のもののように冷たく響いた。


「……そう、だな」


 ラキも同じ調子で答える。


 武器を持っていないラナは何も言わない。ただ、土にこびりついた血の跡をじっと見つめていた。

 ……何かがひどくおかしい。


 けれど、そのおかしさを深く考えることができない。


 頭が、働かない。


 身体は動くのに、心が動かない。

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