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第33話 フィロンの狂想

 俺は立ち上がり、眠っているラナとサキの前に移動した。泣き疲れて眠ってしまった二人の警戒心の無さを危ぶんでいたが、俺もフィロンの気配に気が付かなかった。


 ――人族の嗅覚では問題ないのかもしれない。だが、獣族の特徴として鼻が効く俺にとっては、血の匂いが充満している砦は気配を探りづらい。


 警戒を強めるに越したことはないだろう。


「ラキ……。実は君にだけ話しておきたいことがあるんだ」


 フィロンはふっと静かな声で言う。


「……俺にだけ? ……サキには反乱軍に入るように説得しないのか」

 

「あの子は頭が足りなさそうだし、制御するには骨が折れそうだからね。……使える駒になり得るかは検討中だ」


 その言葉に、俺は深く息を吐き視線を落とす。フィロンの言葉に込み上げる疑念をどうしても抑えられなかった。


「駒、か。……お前ら、本気で戦争なんか起こすつもりなのか?」


「そうだよ」


 俺の問いにフィロンは即答した。その答えには迷いがなかった。

 

「分かっているのか? 帝国を敵に回すということは、亜種族全体を敵に回すことと同じなんだ。何より人族同士で殺し合い、多くの血が流れることになるだろう」


 当然のことだが、改めて確認せずにはいられない。


「アハっ、まったく誰に言っているのか。……分かりきったことだよ」


 フィロンはその笑みを深くして、楽しげに頷いた。淡い赤の瞳が、ゆらりと揺れる。灯る狂気を隠すことなく向けられたその視線に、思わず身震いした。


「僕は吐き気がするような帝国の仕組みをすべて壊し尽くすことができるし、僕の仲間達は救いたい人を救えるからね」


 その言葉には、冷酷さと確信が滲んでいる。俺の心に、警鐘が鳴り響いた。


「……壊すか。人族が亜種族から解放されると、確かに一時的に救われる者が存在するのかもしれない。……だが、その先には何があるんだ? 俺には大陸戦争の歴史が繰り返され、その結果、より混沌とした地獄が生まれるだけに思える……」


 俺は努めて冷静に言い放つ。しかし、フィロンの反応は予想以上に感情的なものだった。

 フィロンは一瞬だけきょとんとしたような表情になったかと思うと、次の瞬間には腹の底から笑い出したのだ。


「ふっ……アハ! アハハハハハっ!」


 歪んだ笑い声が響き渡る。フィロンは背を丸め、腹を抱えながら、狂ったように笑った。


「お前……よく笑うな」


 俺が冷たく言うと、フィロンは涙を滲ませながら、振り向いて答えた。


可笑(おか)しかったものでね」


 その目には、嘲りと憐れみが交錯していた。


「君みたいな雑魚には僕の考えなんて到底理解できないだろうさ。……僕はね、ただ壊せればそれでいいんだよ」


「……壊す?」


「そう、壊すのさ」


 フィロンはゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。血走った瞳が俺を捕らえる。


「いつまでも搾取する側でいるつもりの亜種族(ざこ)共を引き摺り下ろし、屈服させるんだっ。帝国の仕組みから亜種族共のくっだらない矜持まで、何もかも壊し尽くしてやるっ……!」


 その言葉には、狂信者のような熱が宿っていた。フィロンの声は震えていて、目は若干潤んでいるように見えた。……とても正気とは思えない。


「だからっ、壊した先に何があると思っているんだ!? ……いや、まず本当にそんなことが可能だと――」


「思っているよ」


 俺はつい声を荒げたが、フィロンはやはり即答する。


「そのためなら僕は……何だって犠牲にする」


 フィロンの口元がにぃっと笑みに歪む。俺は言葉を失った。ただ、その異様な熱量に圧倒され、呆気に取られるしかなかった。


「……俺にはとても賛同できないな。もし本当に……帝国を滅亡させたとしても……その先にあるのもまた地獄だ」


 ようやく言葉を絞り出したが、それは自分でも驚くほど乾いた声だった。


「……うん。君は亜種族との混血だし、人族が多数を占める西部出身だから亜種族に直接害されたことは少ないだろう。……君にとってはむしろ、西部で亜種族を迫害する人族こそ憎むべき相手なのかもしれないね。それは仕方がない。でも……君、自分の立場を理解しているのかな?」


 フィロンは首をかしげながら言った。その仕草はとぼけているのに、言葉の端々に突き刺すような鋭さがあった。


 ――ぞくり。


 ふと嫌な予感が背筋を這い上がる。次の瞬間、背後から冷たい金属が首筋に触れた。フィロン以外にも誰かいたのか。


「っ……!」


 反射的に飛び退こうとするが、突きつけられた刃の感触が鋭くなり、動きを封じられる。


 剣だ。間違いなく。……気をつけていたのに!

 首元に静かに添えられている。薄皮一枚で血は流れておらず、殺気はない。ただ、逃げれば容赦なく喉を裂かれるという無言の脅しがあった。


「レーシュか……!」


「……正解。よく、分かるね。さすがは獣族の混血」


 振り向くことはできない。だが、嗅ぎ覚えのある匂いだった。血生臭いこの砦では周囲の人の匂いを嗅ぎ分けるのが困難だが、背後に密着されると判別が付いた。


「残念だけど……歪な帝国にすべてを奪われて、空虚な心の中でずっと鳴り止まない木霊を消すために……あたし達は、こうするしかないんだよ……」


 レーシュの声は掠れていた。まるで長年抑えていた感情が、ひび割れた器から零れ落ちるようだった。俺はわずかに息を呑んだ。

 

 レーシュの言葉は単なる脅しではない。彼女たちは本気で亜種族に支配される帝国を壊そうとしているのだ。フィロンやレーシュが帯びている狂気からは紛れもない信念を感じた。


「……お前らの境遇には、確かに同情の余地はある。だが……」


 首には冷たい剣の感触。……下手なことを言うわけにはいかずに、俺は言い淀んだ。

 澄んだ夜に沈黙が流れる。


 俺の視線はいつの間にか泥のように眠り続けるサキとラナの方を向いていた。


「……おしゃべりをするには間が悪かったみたいだねっ」


 俺ははっとしてフィロンに目を戻す。


「背後にその二人がいたんじゃ、どうやら君は慎重になりすぎるらしい。……もう、終わろうか」


 唐突に、フィロンが俺の背後へ回り込んだ。


「なっ……!」


 次の瞬間、首に回された腕ががっちりと俺を捕らえた。レーシュはフィロンの動きに合わせて俺に剣を向け続けている。


「無駄な抵抗はしないでよ」


 もがこうとするが、腹部にフィロンの鋭い膝蹴りがめり込む。衝撃に息が詰まり、肺が空気を求めて悲鳴を上げる。その隙に、口の中へ無理やり流し込まれる生温かい液体。


 苦い。どろりとした舌触り。喉を通るたびに吐き気を催す。


「んぐっ……! ……お、い! サキ、起き……てくれ!」


 頭を振って抵抗する。こんな状況でも寝続けるサキに助けを求めるが、レーシュの腕がすかさず後頭部の髪を掴んだ。


「……おとなしく……飲み込んでね?」


 哀れみと決意が入り混じる声は、いつにも増して辿々しい。だが、俺を拘束するレーシュの動きに隙はなかった。


 流し込まれていく液体の臭い……。これは……殲獣の体液か?

 おそらくは複数の殲獣の体液を調合したものだ。帝国軍や冒険者の一部が好んで服用するような一般的な強化薬とは違う。これはもっと、異質な……。


 視界がぐにゃりと歪み、色彩がじわじわと剥がれ落ちていく。

 足元が頼りなく揺れ、膝が折れた。手足の感覚が遠のいていく。


「ラ、ナ……。……サ……」


 ――舌が回らない。……くそっ……。もう……意識……も……。

 倒れ込む寸前、フィロンの顔がぼんやりと視界の端に映った。


「次に起きたときには、もう少し話がしやすくなっているはずだよ……君たち三人ともね」


 最後に聞こえたのは、愉快そうな声だった。


 

 **

 


 暗い地下室。湿気を帯びた空気が肌に纏わりつく。灯された一本の燭台が、揺れる影を壁に映し出していた。


 フィロンは淡い赤の瞳を細めて壁際に立つソニアを見下ろしていた。鋭い視線は獲物をじわじわと追い詰める蛇のようにソニアを絡め取っていた。

 

「反乱軍の討伐作戦ですって?」


 ソニアの声は低く、微かに震えていた。


「そうだよ。……知らなかった? おかしいな。司令部からの情報を流すのは君の仕事のはずだろう……?」


 対照的にフィロンの口ぶりは鋭利で冴えている。明確な非難と嘲りが混じっていた。


 ソニアは口を引き結んだまま何も言えなかった。だが、その沈黙はかえってソニアの立場を苦しくするだけだった。


「フィロン。俺はすべてをサリィにバラしても構わないんだ。……そう言ったのを忘れたか?」


 沈黙を破ったのはテツだった。

 テツはソニアの前に立ちはだかり、フィロンの視線を真っ向から受け止めていた。守るように、庇うように。


「……そういえばそうだったね」


 フィロンはふっと口元を歪めた。だが、笑みというよりは噛み殺した苛立ちのように見えた。


「ああ。反乱軍の作戦が失敗するくらいなら、俺とソニアにとってはフィロンの暴走として反乱軍を突き出したほうがマシな結果だからな」


 テツの言葉は淡々としていたが、その静けさの中には鋭い覚悟が滲んでいた。


「……自分勝手だね」


 フィロンは瞼を閉じて淡赤の瞳を覆う。長い沈黙が落ちた。次の一手を見極めるために思索を巡らせているようだった。


「……やはり、こうなった以上、利用できるものは利用し尽くすしかないか」


 フィロンがそう言って目を見開いた瞬間、場の空気が揺れる。フィロンの歪な笑みは、ただでさえ暗い夜の地下室の闇を深めていた。


「……狐の涙を飲ませよう。()()を毎日飲ませて僕が(しご)き続ければ、五日も経たずに操り人形が完成するだろう。……僕が椅子になれと言えば迷わず四つん這いになるような従順な奴隷になっているはずだ。……雑魚には、お似合いだね」


 その言葉にソニアの背筋が強張る。アレとは開発されたばかりの強力な新薬――孤魅丹(こみたん)ことだと思い至ったからだ。

 殲獣の幻獣種である天狐の涙を主成分に作られたという狐魅丹。

 それは、強い暗示を受けやすくなり現実と幻想の区別がつかなくなるため、司令部が暗殺部隊訓練部への投与を中止したほどの劇薬だった。


「狐の涙って……まさか孤魅丹のことですの? ……フィロン。……あなたって、本当に……」


 ソニアの声が震えた。その続きを言おうとしたが、どうしても言葉にならなかった。


「ん? 本当に……何、かな?」


 フィロンはソニアを見据えるが、ソニアは唇が小さく震えるだけだった。フィロンの視線の中にある狂気がソニアの喉を凍りつかせていた。


「ねぇ、ソニア?」


 フィロンが一歩、また一歩と近づいていく。

 そのたびに、ソニアの背が壁へと押し付けられる。心臓の鼓動が速くなり、手は汗ばむ。


「君、これ以上僕を失望させたら……どうなるか、分かっているよね?」


 囁くような声。しかし、その静かさがかえって恐ろしかった。

 テツはその光景に歯軋りをする。フィロンの手を掴もうとした。だが、ソニアはそれを目で制す。


「ええ……分かっていますわ。近いうちに挽回します」


 ソニアはようやくそう答えた。その声は弱々しかったが、かろうじて震えを押し殺していた。


「いい返事だ」


 フィロンは満足げに微笑んだ。

 だが、その笑みの裏にある残酷さは決して消えなかった。


「じゃあ、僕はラキに用事があるから。訓練兵の子達と殲獣の処理、後はよろしくね。あ、レーシュは僕について来て」


「え、あたし……? なんで……」


 我関せずとばかりに殲獣の死肉を弄っていたレーシュだが、唐突にフィロンに名指しされて手を止める。恍惚としていた表情には影が差していた。


「レーシュは開発者の一人なんだから持ってるでしょ? ……孤魅丹」


 その言葉にレーシュはため息をつき立ち上がった。こうしてフィロンとレーシュは地下室を後にしてラキ達のところへ向かったのだった。

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