第30話 届かない声
冷たい夜風は頬を撫でて、吹き抜けに差し込む月灯りは場を照らし続けている。俺は不敵に笑うサリィを見据えて立ち尽くしていた。
「荒療治だと?」
サリィの口から出た不可解な言葉を反復する。サリィはサキを「殺してはいない」と言っていた。それならば、俺は努めて冷静に振る舞いサキの所在を聞き出すべきだった。
「そうだ。あの子はミラクを追いたいと言っていた。そして……そのために暗殺部隊で働くことを望んだからね」
サリィは俺に視線を向けながら淡々と告げる。分かってはいたものの、サキの気持ちがミラクへ向いているという事実が改めて心に重苦しい影を落とした。
俺は思わず黙り込んでいた。すると、フィロンはサリィの言葉をどう受け取ったのかなぜかケタケタと笑い始めた。
「それで餓鬼を殺さずに部隊に迎えたっていうの?」
フィロンの顔の笑みはいつもの通りだ。だが、その声音は普段よりも若干高く、まるでサリィを煽っているかのようにも見えた。
「僕達にはミラクを殺すように命令しておきながらその言い草かい? まるで僕達がミラクを連れ帰らないことが分かっていたみたいじゃないか」
「ああ、分かっていたとも。お前達が私の命令に従うことを期待してはいたが、フィロンがミラクを簡単に殺してしまうとは考えていなかった」
サリィがフィロンをまっすぐと見つめ返して返答すると、フィロンは弧を描いていた目をすっと細めた。サリィに見透かされていたことが面白くないようだった。真顔になったフィロンだが、すぐにいつもの薄ら笑みを貼り付けた。
「ふぅん……。でも、それは餓鬼を部隊に入れる理由にはならないよね。サリィは半亜種族も半端者も嫌いじゃないか。それなのに一体どういう風の吹き回しなの?」
けしかけるフィロンをサリィは鋭い眼光で睨みつける。フィロンの冗長な問いが気に食わないらしく、黙らせようと威圧していた。
「何が言いたいんだ? 思惑が一致しただけのことさ」
「……それだけではないよねっ?」
「いいや? それだけだ」
土の匂いが漂う砦の夜闇の中、サリィとフィロン両者の視線が激しく交錯して、くだらない押し問答が途切れる。俺はその隙に間髪入れずに疑念をぶつけようと口を開いた。
「……その血溜まりは何なんだ?」
自分のものとは思えないような低く唸る声が出る。サリィの足元に広がる血を指摘した。血の匂いは強烈で、血が誰のものであるかは判別がつかなかったが、複数人のものが混じっている気がした。
「先刻から殺してはいないと言っている。……よく見ろ、吸血鬼族の回復力をもってすれば死にはしない程度の出血量だろう?」
「……ッ!」
俺は息を呑む。そのため息混じりの言葉は、サリィの足元に広がる血がサキのものに相違ないと暗に示していた。
「……サキは今どこにいるんだ!?」
「不満そうだね。だが、サキのこともお前ら姉弟のことも、生かしてやっているだけで寛大だと思いなよ」
声を荒げて問い詰めると、サリィは大袈裟に驚きを演出するように抑揚をつけた声で答えた。荒療治とやらだけで済ませてサキを部隊に引き入れたことは寛大な処置であるとの主張らしい。
「……サキはどうしているんだ?」
サリィの威圧感に押されつつも、答えを得ようと必死に言葉を絞り出す。だが、サリィは答えずに舌を打って露骨に不機嫌な態度を示すだけだった。
「……ねぇ、サリィ……荒療治ってなんのこと……なの?」
サリィがいつまでも荒療治とやらの説明をしないことに痺れを切らしたのか、レーシュが口を挟む。
「地下に特級の危険種に指定されている殲獣共を飼っている部屋……処刑部屋と呼ばれている部屋があるだろう? そこに閉じ込めたのさ」
その答えにレーシュは目を見開く。フィロンは「あの部屋か。最近妖蛇竜を生捕りにして加えたような気がするね」とさらりと言った。
「え……あ、あの部屋って……」
レーシュがしどろもどろに言葉を紡いでいく。レーシュによれば、その部屋は蠱毒のような仕組みになっており、飼われている獣共は滅多に餌を与えられないらしい。部屋では血に飢えた危険種たちが互いに殺し合う。部屋にいる数百匹の殲獣は、特に凶暴で強力な個体が生き残ったものだという。
「部隊の子達は姿が見えないけど……それは……どうしたの……?」
レーシュは恐る恐る続けて尋ねる。
「あの子達は独断で訓練を中断して、さらに私の命令も聞かずに勝手にサキを殺そうとした。だから、罰として一緒に閉じ込めた」
当然のことだと言うようにサリィは答える。
「殺そうとしただと?」
聞き逃せず、俺は反射的にレーシュとサリィの話に割り込む。
「そうさ。まあ……主戦力不在だったとはいえ、単体で暗殺部隊を相手にあの程度の負傷で無力化しきったら上出来だね」
サリィは足元を見ながら「この血溜まりは、部隊の子達とサキがやり合ったときにできたものだ」と付け加える。俺は起こり得たであろう最悪の結果がぐるぐると胸中で渦巻いているだけだった。
――いつかの雨の日みたいだ。あいつに一人で抱え込ませて、真相を見抜いたつもりで、ただ追い詰めて……。
「あ、そういえばテツとソニアはどうしたの?」
重たい空気の中、フィロンは急に思いついたようなあっけらかんとした調子で声を出す。そのとき、俺の中で燻っていた苛立ちが爆発した。
「そんなことはどうでもいい! サキは本当にそれだけの血を流しておきながら無事でいるのか!? 殲獣を飼っているとかいう部屋はどこだッ!?」
「死にはしないと言っているのに……」
俺は背後のフィロンを振り切って詰め寄る。すると、サリィは呆れたように無造作に下ろしてある長い緑髪を気怠そうに掻き上げた。次の瞬間、視界に映ったのは波紋の広がる血溜まりだった。
「な!?」
サリィが常人の目では捉えられない速度で移動したのだと悟る。しかし、それを理解したときにはもはや手遅れだった。
「ぐっ――!?」
鋭い衝撃が首筋に走る。視界が揺らぎ、膝が崩れる。抗う間もなく、俺の意識は闇に呑まれていった。
「……っ……ラキ!」
微かに俺の名を呼ぶ声が聞こえる。最後に俺は傍らにいる双子の姉の名を呼び返そうとした。だが、その声は音にならぬまま、静かに消えていった。
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危険種の殲滅を飼っている部屋。それは砦の地下にある部屋だ。その部屋は懲罰房の一つとしても指定されている。しかし、その部屋に入った者は翌朝には骨も残っていないことがほとんどであるため、もはや処刑部屋として扱われているといっても過言ではない部屋だ。実際に最近の訓練兵達の間では“処刑部屋”と通称されて恐れられている。
「連れてきておいてなんだけど、半獣族の姉弟を部隊に入れること、結構あっさり認めてくれたね」
処刑部屋に向かうのは、三つの影。砦――暗殺部隊訓練場の主であるサリィ、長きに渡りランク 1 の座を守り続けているフィロン、そして年長者の一人でありながら砦に籠ったままで碌な任務も与えられずに魔術の研究を行い続けているレーシュだ。
「私も半吸血鬼を受け入れることにしたしな。それに……暗殺部隊に人手が必要だというのは、本当のことなんだ」
サリィは前を見たまま歩みを止めることなく告げる。フィロンは不可解そうに眉を顰めた。
「なんで? ソニアとテツも帰ってきたんだよ? 反乱軍と全面的に戦争でもしない限りは、部隊の運用はこれまで通り可能なはず……」
フィロンは自分で口に出していてサリィの発言の意図に気がつく。はっとした様子のフィロンを横目にサリィは低い声でくつくつと笑う。
「お前達にはまだ伝えていなかったが、上層部が先に反乱軍の討伐作戦を計画している」
フィロンはサリィの言葉に目を見開いた。
「反乱軍の討伐作戦だと?」
驚きつつも、フィロンは冷静さを失っていなかった。フィロンはいつも通りに動揺を気取られぬように笑みの仮面を貼り付ける。そして、協力者に情報を流して迅速に対策を打たなくてはと思索を巡らせた。
「ちなみにさ……さっきはラキに遮られちゃったけど、ソニアとテツは本当にどうしたの?」
「ああ、面倒だったからまとめて殲獣の部屋に放っておいた。ソニアとテツは意識があったから……死にはしないだろう」
「だから僕達も連れて部屋に向かっているのか……」
恐らくサリィは事情の説明をフィロンとレーシュに押し付けるつもりなのだろうとフィロンは呆れて笑いつつも納得する。サリィを怒らせて気絶させられたラキはともかく、そのラキに付き添って訓練場の吹き抜けの広場に残ると言ったラナを置いてきたことを悔やむ。同行させれば、この早急に対応すべき事態を共有できたというのに――。
――まぁ無理やり協力させている奴につけ込まれる可能性のある弱みを晒す必要はないか。
フィロンは考えを改めると、再び黙って歩みを進めた。
処刑部屋と恐れられる地下室に気絶させて閉じ込めておきながら、死んではいないとサリィが主張していた理由。それが「意識のあったソニアとテツも一緒に入れているから」ということだと理解したレーシュはため息を長く吐く。
「あたし……この前あの部屋に珍しい猛毒を吐くヒュドラを何十匹も捨てちゃった……かも……。どうしよう……」
レーシュは青ざめてぽつりと呟くと口を閉ざす。レーシュはサリィの希望的観測に基づく判断を嘆き、同胞二人――ソニアとテツの無事を祈っていた。




