第29話 砦
走り続けてどのくらいになっただろう。……地上と違って駆ける音がよく響く。俺たちは湿った土の匂いの狭い地下通路を進んでいた。
あれから、俺とラナは教会の裏にある古い井戸に連れて行かれた。砦まで近道があるのだと説明されて、フィロンとレーシュに続いて井戸の中に入った。井戸の中に慎重に降りると、薄暗い地下通路が広がっていた。
ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。入った井戸から離れるほど、暗くてほとんど何も見えなくなっていった。フィロンが先導し、その後に従ってなんとか進めていた。
ヴェルデとユリアナは教会に残った。暗殺部隊に所属していない二人は砦に姿を現すわけにはいかず、ヴェルデが俺とラナを連れてきたことで中断された作戦会議の続きをするのだそうだ。
ふとフィロンが立ち止まる。
「ここだよ。この井戸で上がれば、すぐに砦だ」
「もう砦に着いたのか?」
井戸の中の地下通路をしばらく走ると、フィロンが振り返って俺たちに声を掛ける。声が狭い通路に飽和した。俺たちは昼に砦を出てから、まっすぐに走っていたつもりだったが、案外そうでもなかったようだった。まだ日が沈むころだ。
フィロンは縄梯子を使ってレーシュから登らせた。それに俺とラナが続き、最後にフィロン自身が登った。
「こんなにも早く、砦に戻ってくることになるとはな」
昼間に見たときは、背の高い木々から溢れる木漏れ日に包まれていた砦。どこか暖かい印象すら与えられた暗殺部隊の訓練場だが、今は暗い森の中で月灯りすら遮る木々に囲まれていてかなり不気味だ。
「本当に大丈夫なのかな?」
不安に震えた声でラナが言う。
「暗殺部隊が人手不足、というか人材不足なのは事実なんだよ」
「それに、あたしとフィロンが全力でサリィを説得すれば二人が殺されることはないと思うの」
フィロンとレーシュが俺たちの疑問に答える。今さら逃げ出されてはたまらないのだろう。
レーシュが続けた説明によれば、俺が剣を使うこともサリィが俺を暗殺部隊に役立ち得ると判断する要素となるらしい。レーシュは最後に「あ、でもラキ君はミラクに似ているからサリィに嫌われちゃうかも……」と言ったが、すぐに慌てたように取り繕っていた。……ミラクと似ていると言われて良い気はしない。
フィロンが砦の門を開く。
「……やけに人気がないね」
フィロンは三日月のようなかたちを作っていた目を開く。静まり返った砦を見渡した。
「訓練兵の子たちはなにをしているのかな?」
レーシュが柔らかい口調でぽつりと言う。心配したような眼差しでキョロキョロしているレーシュの紫の瞳は、フィロンの不機嫌そうに光る冷酷な双眸とは正反対だった。
「何者かの襲撃を受けた……?」
俺は頭に浮かんだ予想を何気なく零す。砦の奥から漂ってくる淀んだ空気は昼間よりも血生臭く、俺は胸騒ぎがした。
「何者かなんて惚けないでよ。暗殺部隊に奇襲を仕掛ける人間なんて、あの馬鹿以外は存在しないさ」
フィロンが振り向いて言う。フィロンは今度は不機嫌というよりも、呆れたような表情をしていた。
「ミラクのことか?」
……言ってはみたものの、奴が戻ったとは考え難い。俺が不服だという主張を込めて考え込んでいた顔を上げると、フィロンが首を振っていた。
「そんなわけないだろう?」
フィロンは否定の言葉を口にする。
「サリィがいるんだから、尻尾を巻いて逃げたミラクがこんな真似できるわけがない。……人気がないのは襲撃や奇襲だなんていう理由ではないよ」
勿体ぶるフィロンからは、先ほどの不機嫌さは消えている。砦に人が見当たらないわけを理解して、受け入れたように見えた。
「……じゃあ誰の仕業なんだよ?」
「サリィその人さ」
「なっ……」
フィロンの答えに、俺は思わず絶句した。サリィは初めて会ったときに暗殺部隊を「私の部隊」と呼称していた。ソニアはサリィは暗殺部隊の面々の親代わりのようなものだと言っていたが、サリィは暗殺部隊で随分と好き勝手にやっているらしい。
「ほんっと、仕方がない人だよね。僕たちはもう慣れているんだけど……。とりあえず、訓練場と懲罰房を見てみようか」
フィロンは歩き出す。俺たちも砦の奥に続いた。建物に進むと、何故か奥から風が吹く。
風が纏っていたのは、より一層濃くなった血の匂いに掻き消された、どこかで嗅いだことのある誰かの匂いだった。フィロンとレーシュは鼻が効かないからわからないのだろうか。あまりの匂いに酔いそうだ。
「訓練場にだれかいるみたい……」
レーシュが言う。嫌な胸騒ぎに鼓動は高鳴るばかりだった。それなのに、目まぐるしく変化する状況のせいか、夜に薄暗く血の匂いの充満する砦を歩いている今が現実であるという実感がどこか薄い。
ラナも俺と同じなのだろうか。獣族の血を引くため俺と同じく鼻が効くラナは、いつもなら既に泣き出していてもおかしくない。しかし、ラナは俺の服を掴みながらも泣かずに歩き続けていた。
「サリィ」
フィロンが名を呼び、その匂いの主を思い出す。その名前がサキの名前に似ていたからか、一瞬背筋がゾッとした。そこにあったのは、砦の中央にある吹き抜けの広場に立ち尽くして月を見上げているサリィの後ろ姿だった。月には雲がかかっており、ぼんやりとしか姿は見えない。
「フィロンか。それに……ああ、レーシュも外に出していたんだったな」
フィロンが呼びかけると、サリィは低く重々しい声で育てた二人の名前を呼び返した。サリィは俺たちに背を向けたままだ。
「ようやく帰ったのか? ……だが、ミラクは連れてきていないようだね」
ミラクを連れ帰っていないというサリィの言及に、俺はソニアと共にサリィに初めて会ったときのことを思い出す。サリィはソニアにも同じように詰問していた。
そんなことを考えていると、サリィはいつのまにか俺たちを見据えていた。サリィと目が合う。
「うっ……」
その瞬間、嗚咽が漏れる。月を覆っていた雲がゆっくりと散り始めた。闇を切り裂く刃のように妖しく光って砦の中央の吹き抜けの訓練場に月灯りが差し込む。光に照らされるのは、赤色。俺とラナよりは淡い、陽のようなサリィの赤い瞳。そして……サリィの足元に広がる濁った赤色の血溜まりだ。
「ひと月以上も任務に出ていたくせに、成果無いどころか面倒を抱えて帰還したソニアとテツといい……お前達が裏切り者であるミラクと手を組んで何か企んでいるのかと疑ってしまうな」
「怖い勘繰りはよしてよ?」
地下通路を走っていたときよりも空気を重く淀んで感じた。息苦しい。しかし暗殺者共には大したことはない光景らしく、ただ呼吸を荒くする俺を意にも介さずにフィロンとサリィは互いに仮面を被った会話を続けていた。
「あ、あぁ……」
ずりっと石畳を擦る音が聞こえる。振り向くと、崩れ落ちたラナをレーシュが支えていた。俺はそれを見て微かに正気を取り戻した。
「おい……サキは、どうしたんだ?」
絞り出した言葉だった。
その血溜まりを満たす血液が、誰のものなのかは聞けなかった。心臓が跳ね上がり、息が詰まるような感覚に襲われる。サリィは俺の問いに、鮮やかなほど赤い唇で小さく弧を描いて笑った。
「ふっ……知りたいかい? あの餓鬼の生死が」
サリィは一音一音ゆっくりと発音する。その眼差しは、汗を滝のように流して溺れるように呼吸する俺を面白がっているようだった。
……死ぬわけがない。死んでいるわけがない。……だが、それは俺の希望でしかない。俺は、最善の選択をしたはず……サキを尊重して、ラナを守るために……何より、ソニアとテツが相手ならば血液操作を使って負けるはずがなかった……その後、上手く逃げられさえすれば……。……俺は、現実から目を背けていただけ、だったのか……?
視界が揺れていた。揺れているのは世界か、俺の方なのか判別がつかなかった。
「妙な気は起こさないでよ」
フィロンが俺の腕を掴む。俺は無意識のうちに双剣に手を伸ばしていたことに気がついた。強制的に現実に連れ戻され、嫌でも思考は明瞭になっていく。澄み渡っていく現実から目を背けるように、心臓が壊れそうなほど激しく脈打っていた。
避けようとすればするほど輪郭がはっきりとしていく現実。
「なに、殺してはいないさ」
それを掻き消したのは、サリィだった。サリィは俺の眼前に立っていた。笑みを浮かべたまま、俺を見下ろしている。
「私はフィロンとレーシュがどういうつもりで被り物の餓鬼どもを連れ帰ったのか知らない。だが、私がサキに下した判断とそう違わないだろう」
サリィは言葉を続けた。
俺は、あまりの衝撃に崩れ落ちそうになった。しかしフィロンが腕を掴んだままだったため、腕を強く引かれて立たされた。
「……まさか、サリィがまだあの半吸血鬼の餓鬼を生かしていたとは思わなかったよ」
フィロンが不満と疑問を含んだ声で言った。
「ああ、私たちは協力することにしたんだ。だが、あまりにも生意気だったんでね……今は……ちょっとした荒療治中さ」
そう言って笑うサリィを、フィロンはあからさまに面倒くさそうに見据えて、レーシュは縋るように見上げる。俺とラナは、血の匂いと罪の意識が充満する夢現なこの空間でまともに意識を保っているだけでやっとだった。




