第九十四話 下山、そして
登るのに苦労した山を、帰りはイルガの背に乗って悠々と降っていく。
人間数人を乗せるに余裕しゃくしゃくの大きさがある飛竜の背で、風を感じながらグレンカムの大地を見下ろしていた。
「イルガ、一ついいか?」
「どうした」
地上に降りる前に一つ、イルガには言っておかなければいけないことがある。
「みんなの前では、俺のことを勇者って呼ばないでくれ」
「何?……まさか、話していないのか」
ああ、と俺は頷いた。
「今の俺……私の名前はクローム・ヴェンディゴだ。勇者クロードの生まれ変わりだとは伝えていない」
「なぜ教えない? 隠すようなことでもないだろう」
まあ、それはそうなんだが。
隠すと言うより、言っても信じてくれないだろうというのが大きい。
実は勇者の生まれ変わりです、なんて言い分、下手をせずとも子供の戯れ言だ。
頭のおかしい奴だと思われたくはない。
それに、大きな理由としてはもう一つ。
「君と違って、私がクロードだという根拠が見せられないからな。言葉だけでは信用し切れないだろう」
「まあ、な。……わかった。注意しよう」
「悪い、頼むよ」
いずれは話したいとは思っている。
しかし、それは今じゃない。
いつか……やがて、いつかだ。
天空を駆け、あっと言う間に麓にまでたどり着く。
空を覆う巨大な飛竜の姿を見つけ、住民たちがぞろぞろと麓まで集まってきた。
皆一様に笑顔だ。
イルガが試練を達成したということを喜んでくれているのだろう。
「着地するぞ」
「ああ」
衝撃に備え、イルガの背を掴んで身を固める。
竜の巨足が地面を踏みつける。
砂埃が舞い、軽く地面を揺らす。
俺の方もなんとか揺れに耐えて、背から飛び降りた。
「ありがとう、イルガ」
ここまで運んでくれたことに礼を言うと、イルガは大きく頷いて、その後その身を元の人間大へと戻した。
見慣れた人型になって、イルガはふうと一息着いた。
「どうだ、竜の姿は?」
「悪くない」
さっきまでの剣呑とした態度ではなく、柔らかな受け答えをしてくれる。
こちらが本来のイルガなのだろう。
視線だけで殺されそうな剣幕を味わわずに済むと思うと、ちょっとだけほっとした。
「イルガよ」
長老が声をかけてくる。
ほかの住民も集まってきて、俺たちを囲んだ。
「長老。……父さんの記しを、見つけました」
「……そうか」
言葉少なに長老は目を伏せる。
これまで黙っていたことを謝罪しているようにも見えた。
だが……それもイルガを思ってのことだ。彼女自身もそれを責めるような気はないようだ。
「父さんのおかげで、己れは竜の血を目覚めさせることができました。この力、今後は父さんの意志を受け継いで使っていきたいと思います」
「ああ、それがいい。……バラグノも喜ぶ」
長老は満足げに微笑んで、ひとつ頷いた。
長老も、父と娘の確執を嘆いていたものの一人だ。
この解決も喜ばしいのだろう。
「クロームさん!」
俺の名前を呼ぶものがいる。
振り返ると、嬉々とした表情で走り寄ってくるミリアルドがいた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
さらにうしろからは、気だるそうに歩いてくるローガと、ミリアルドに負けず劣らず目を輝かせるサトリナが歩いてきていた。
みんな、飛翔するイルガに気付いてやってきたのだろう。
「見ましたよ! すごいですね、さっきの竜!」
「ああ、あれがイルガの新たな力だ」
本で何度も読んでいても、実際に竜の姿を見るのは初めてなのだろう。
年相応の純粋さを持つ瞳で、ミリアルドはイルガを見つめている。
「あれが飛竜ってやつか?」
ローガが問う。
俺はひとつ頷いて話し始める。
「ああ。どうだ、すごいだろう?」
「ええ。……でも、なんであなたが得意げですの?」
「え?……はは。ああ、そうだな」
サトリナに言われて、確かに変な言い方だったと自覚する。
イルガは大事な仲間の一人娘。幼いときに会ったこともある彼女が、こうして大きな力を得たのだ。
自分のことのように誇らしく、うれしいのだ。
「クローム」
名を呼んで、イルガも歩み寄ってくる。
集落の住人たちに囲まれていろいろと話しているようだったが……。
「もういいのか?」
「ああ。村の人たちとはまたいつでも話せるからな。……それよりも」
と、イルガはミリアルドたちを順繰りに見回した。
そして突然、その頭を下げた。
「すまない、挨拶が遅れた。イルガ・ザバ・シュルシャグナだ」
いきなりの言葉に、皆一様に呆然とした。
今朝までの殊勝な態度が一気に形を潜めたのだ。
だが、数秒もすると、みんなその顔に笑顔を浮かべ、
「はい。ミリアルド・イム・ティムレリアです。よろしくお願いしますね」
「ローガ・キリサキだ」
「サトリナ・ミラ……ではなく、サトリナ・テグネシアです。以後お見知り置きを」
それぞれ、挨拶を返す。
さっきまでの態度などどうでもいい。
今、こうしてみんながイルガを受け入れてくれたことが、俺もうれしかった。
「イルガは旅に同行してくれる。これで……ようやく、バラン・シュナイゼルに手が届く!」
イルガの飛竜の力があれば、港や次元の門を使わずにソルガリア大陸に入り込める。
それならば教団の目をかいくぐり、奴の懐まで進入することも不可能ではないはずだ。
ここまでさんざ苦労させられたが、それもここまでだ。
「魔王が復活しつつあるそうだな。それを止めるための旅だ。父の代わりに協力する」
「残念ながら、今はまだ遠回りの段階ですけど……それでもありがとうございます、イルガさん」
ミリアルドが言う。
友好の証と差し出した手を握り返されて、笑顔を浮かべ強く握手し合う。
「なんか雰囲気変わったな、あんた」
「む……それは、すまなかった」
ローガの言葉にイルガは渋い顔をして、しかしそれをローガは苦笑で飛ばす。
「いやいや。そっちの方がこっちも楽でいいさ」
「ええ。まるで世の中のすべてを憎んでいるようでしたわ」
「……実際、近い状態ではあった。だが、それももうおしまいだ。誇り高き竜の血を引くものとして、ふさわしい態度であろうと決めた」
父の愛を確認できて、イルガもようやく素直になれたということだ。
「さて。どうするよ、これから」
いいところで話を切り上げて、ローガが俺を見て尋ねた。
「いろいろと準備もあるだろうし、とりあえず今日はもう休もう。今後のことは、明日以降にまた考える」
降りは楽々だったとは言え、山登りの疲労がかなり体に来ている。
夕方に差し掛かったという時間帯だが、とにかくどこかで落ち着きたいところだ。
「じゃあイルガ、また明日」
「ああ。明日、話を聞きに行く」
イルガと別れ、俺たちも昨晩泊めてもらった宿へと戻った。
山の上でのことをみんなに――特に、興味津々なミリアルドとサトリナに話しつつ、俺は早い時間に眠りについた。
そして翌日の昼。
風の流れで珍しく青空の見えるこの良き日に、俺たちはグレンカムを発つことになった。




