第八十六話 父の急変
「っぐ……!」
一瞬気を失って、なんとか意識を保って受け身を取った。
顔から地面に倒れ込むところだった。
だが、なぜ、いきなり……。
「な、何を……!」
「キサマには恨みがある。ぜひ、我が手で殺したいと思っていたからな……!」
振りあげた腕に炎が宿る。
それだけではない。真っ黒だった髪の毛が突如、燃え上がったかのように赤く変色したのだ。
火炎のように揺らめき立つ頭髪から、ちりちりと火の粉が吐き出される。
これは、何だ。
「待て! 俺が何をしたっていうんだ!」
彼女に恨まれる覚えなどない。
「キサマのせいで、バラグノは――父は、変わってしまった!」
炎腕が振り下ろされる。
炎が爪を象り、襲い来る。
まだ力の入りづらい体を必死に操って、なんとかそれを回避した。
地面に爪で抉られたような焦げ跡が残る。
当たれば、ただではすまなかっただろう。
だが、それよりもイルガの言葉だ。
「バラグノが変わっただと? 何の話だ!」
「キサマとの旅から帰ってきたバラグノは、以前とはすっかり変わってしまった。別人のようにな!」
髪の毛をめらめらと燃え立たせながら、イルガは言葉を紡ぐ。
先ほどよりも体感温度が上昇している。
イルガ自身が莫大な熱量を放っているようだ。
汗がじんわりと体中に滲んできた。
「バラグノが……?」
「優しかったはずの父は、この地に帰ってきてからただの一度も、己れと口を聞こうとしなかった! どころか己れを避け、遠ざけた!」
両手に炎を発生させ、それを胸の前で組み合わせた。
渦巻く火炎球が、どんどんと膨張していく。
まずい、と本能が告げていた。
「あいつは君を最愛の娘だと言っていた! そんなことするはずがない!」
魔王城に突入する前夜でさえ、バラグノはイルガのことを気にかけていた。
そんなあいつが、娘のことを遠ざけるわけがない。
言い、考えながら俺は手にした剣にわずかに回復した魔力を注ぎ込んでいた。
今イルガが放とうとしている技は、危険だ。
「純然たる事実だ! お前が、父を変えたのだ!」
炎球が放たれた。
飛翔する瞬間、まるで卵が孵化するかのように、火弾が竜へと変形した。
それに合わせ、俺も魔剣術を放った。
「『水流石火』!」
炎の竜と水の剣撃がぶつかり合う。
大量の水蒸気が放たれて視界を真白に染めた。
――が、竜はそれを突き破り、勢いを残したままに牙を剥いた。
「づっ!」
背中から倒れるように回避する。
ぢり、と髪の毛が焼け焦げる音がする。
だが間一髪、直撃は免れた。
まともに当たっていれば丸焦げだっただろう。
「しぶとい奴め……!」
イルガはもう一度同じ技を放とうと、炎弾を作り始めた。
次は魔剣術を放てない。避けれるかどうか……。
「待て! 話をさせてくれ! バラグノがどうしたっていうんだ!」
「変わったのさ! 奴は一度グレンカムへ戻ってきてからというものの、ほんのわずかな時間も家には帰っては来なかった!」
「家に……?」
愛する娘が待つ我が家へ、バラグノが帰らぬはずはない。
何かがおかしい、そんな確信があった。
「帰らずに、どうしていたんだ?」
「さあな。奴は外の世界を飛び回っていたそうだからな。他に女でも作ったのだろう!」
あり得ない。
亡くなった妻を愛し、その忘れ形見の娘を愛した男が、そんなことをするわけがない。
「だから己れは恨んでいるのだ! 私を十年も放っておいたバラグノを! そう変えた、勇者を!」
火炎竜を放つ。
魔力はまだ回復していない。
避け切れるか――わからぬまま、跳ぼうとしたその時だった。
「っ!」
余所の方向から飛んできたもう一匹の竜が、イグラのそれを飲み込んだ。
余波の熱風が、流れた冷や汗を急速に乾かしていく。
「……長老か」
竜を放ち、俺を救ったのは先ほど出会った長老だった。
老獪ながら、その術の威力は若いイルガと変わらない。
いや、熟練した長老と並ぶイルガが強いのか。
「騒々しいと見に来れば……何をしている、イルガ」
「……何でもありませんよ。ちょっとしたじゃれ合いです」
彼がいてはこれ以上暴れられないと思ったか、イルガはそう言い、最後に俺を一睨みして歩き去った。
……とりあえず、助かったか。
だが……これで希望は潰えたようなものだ。
バラン・シュナイゼルの元へと行く手段はなくなった。
「……すいませんでした。彼女と争うつもりはなかったのですが……」
とにかく、騒ぎを起こしたことを長老に謝った。
死者が安らかに眠るこの地で大変な粗相をしでかした。
「お気になさらず。……イルガは父をなくしてから気性が酷く荒くなった。恨みのある人物を前にしては、仕方ないでしょう」
「……聞いていたんですか」
騒ぎを聞きつけたと言っていたが、どうやらそれ以前から長老は俺たちの話を聞いていたようだ。
「バラグノの死を伝えたとき、あなたは酷く悲しそうでした。まるで旧知の友が死んだかのように。ならばこの墓地へとやってくるのではと思っていたのです」
そうしたら、たまたまやってきたイグラと俺が話しているのを見つけ、様子を伺っていたという。
「しかし、まさかあなたが、あの時の剣士だったとは……」
「一番驚いているのは俺自身ですよ。……それよりも、長老、バラグノのことは……」
ティガ族の長老ならば、イルガが語ったことが真実なのか知っているはずだ。
あんなにも娘を愛し、帰還を心待ちにしていたバラグノが……その当のイルガに辛く当たるなど有り得ない。
そんなこと、あるわけがない。
「……事実です」
しかし、長老はそう言った。
表情は苦々しく、辛そうだった。




