第八十四話 失われた竜
「う……」
すぐにわかる、生暖かい空気の感触。
久々に来るが……さっきまで雪の中にいた分、これはなかなか堪える。
「わあ、暑いですね」
そんな暑ささえも楽しみに変えられるミリアルドが羨ましい。
「これは……相当ですわね」
さらに続いてやってきたサトリナが言う。
「俺は全然平気だぜ」
「鈍いだけでしょう」
「んだとぉ?」
口を開けば喧嘩を始める犬猿二人は放っておいて、俺は前を歩いて石室を出た。
「……!」
すると、目の前にいきなり、彼らはいた。
「……久々の来客が次元の門からとは、驚きですな」
しわがれた声を発するのは、集団の先頭で杖をつく老人だった。
長い白髪を腰まで伸ばし、猛暑だからか露出度の高い服を着て、杖など必要なさそうなほどに鍛えられた肉体はやや赤みがかっている。
一番の特徴は、その背中で畳まれた翼だ。
コウモリのものにも似たそれこそが彼らの――ティガ族の誇り、竜の翼だ。
この老人だけではない、そのうしろに立つ人々すべてが、赤みがかった肌をして、翼を生やしている。
「突然の来訪、失礼いたしました。私はクローム・ベンディゴ。セントジオ王より書状を預かっております」
クリスから預かっていた手紙をその老人へ手渡した。
この人こそが、このティガ族の族長だ。
以前にも会ったことがあるが、向こうからすれば初対面だ。
「ふむ……」
族長は書状に一通り目を通すと、その鋭い視線――文字通り、爬虫類のような縦に細く、鋭い瞳でぐるりと俺たちを見回した。
「なるほど、陛下の仰るとおりの四人ですな」
「……え」
クリスの言うとおりの四人……?
ということはもしや、サトリナが着いてくることをクリスは読んでいたのか……。
まあとにかく、これで身分は証明された。
「それで、ご用件は?」
「ティガ族の英雄、バラグノ・ザバ・シュルシャグナ殿にお目通し願いたい」
「バラグノ、ですか」
長老の太い眉がわずかに顰められる。
その表情を見て、俺はなぜだか無性に不安な気分になった。
なんだ、なぜ、そんな顔をした……?
「残念ですが、それは不可能です」
「な……なぜですか?」
心の中で何かが焼き切られるような気分のまま、俺は長老と話を続ける。
「バラグノは――」
長老がそれを告げようとした、その時。
「死んだ」
「っ!」
衝撃的な言葉を口にしたのは、長老ではない。
背後の民衆の中から歩み出てくる一人のティガ族。
鱗を編んだような衣装で局部のみを隠す、赤赤とした肌を惜しげもなく晒す女性の竜人。
炭のような真っ黒い髪は短く、金の瞳はともすれば萎縮してしまうほど力強い。
彼女は、いったい……。
いや、それに今、彼女は……。
「バラグノは死んだ。この世のどこにもいない。……残念だったな、人間」
「……バラグノが、死んだ……?」
やはり、聞き違いなどではなかった。
人間……ティガ族以外の人間の、この地域の古い呼称――もっぱら侮蔑的な意味で――で呼ぶ彼女は、確かにそう言った。
バラグノは、かつて勇者と……俺とともに戦った勇敢な戦士は……もう、いない。
心臓が鷲掴みにされるように痛んだ。
かつての仲間と死に別れた。その辛さが、初めて俺の心を蝕んだ。
「な、なぜ……?」
胸を抑えながら、俺は疑問をなげかけた。
答えたのは女ではなく長老だった。
「二年前に、病で。偉大な竜の士も、病には勝てませんでした」
「病気……」
「そういうことだ。何のようでバラグノに会いに来たかは知らないが、無駄足だったな」
ティガ族の女は俺たちを毛嫌いするような視線を送る。
強い憎しみを感じた。
「言葉が過ぎるぞ、イルガ」
「ふん」
「……!」
長老にたしなめられても堪えた様子はなく、イルガと呼ばれた女は去っていく。
……イルガ、その名前に俺は再び驚いていた。
まさか、彼女は……。
「失礼いたしました、御客人。しかし、彼女の言うとおり竜士バラグノがすでに死したのは事実。あなたがたの目的は、果たせませぬ」
「……はい」
バラグノが死んでしまっていた。
クリスがそれを知っていたとも思えない。知っていたなら、わざわざ俺たちをグレンカムには行かせないはずだ。
かつての仲間にもその死を告げていなかったということか……。
「次元の門を渡り、お疲れでしょう。宿を用意させます故、一晩お休みくだされ」
灰に覆われた空は薄暗い。午前中にセントジオガルズを発ったというのに、もはや日が沈みかけているのだ。
「……わかりました」
身体の疲労よりも今は、バラグノが死んでいたというショックの方が大きかった。
目的を果たせないということよりも、仲間の死一つがここまで重たいものだとは知らなかった。
……こんな思いを、俺はみんなに味わわせていたのか。
帰ったら……クリスに謝らないといけないな。
俺たちは長老の案内の下、ティガ族の集落の宿に連れてこられた。
四人部屋に荷物を置いて、俺たちは身を焦がす熱気に包まれながら向かい合った。
「……で、どうするよこれから」
ローガが言う。
バラグノに力を借りるつもりで俺たちはここグレンカムへやってきた。
そのバラグノがすでに死んでいたとなれば、無駄足だったということになる。
「どうするもなにも……帰るしかありませんわ」
「帰ってどうするんだってんだよ。他にソルガリアに渡る手だてはあんのかよ」
「……ないでしょうね」
ミリアルドも静かに告げる。
グレンカム到着直後にはしゃいでいた姿とはまったく異なり、どこか落ち込み気味で、静かだ。
ミリアルドにとってもバラグノは、書物の中の憧れの英雄の一人だ。
その死がショックなのだろう。
「その、バラグノって人以外に力を借りられないのか?」
「……私もそれは考えていました。かの英雄でなくとも、力を貸してくれる御仁はいるのでは?」
それぞれローガとサトリナが言う。
普通はそう考えるだろう。
だが、今回ばかりはそういうわけにもいかなかったのだ。
「お二人はティガ族の方と会ったことはおありですか?」
ミリアルドの質問には、二人ともいいやと首を振る。
「会ったことないな」
「幼い頃、お兄様に会いに来た方を一度遠目に見たきりですわ」
その程度では、ティガ族のことを詳しくは知らないのも無理ないだろう。
そもそも、ティガ族が他の人間と交流を持ち出したのもここ十数年のことだ。
十五年前、グレンカムに来た時も相当警戒された。
今はあれほどではなくなったが、それでも珍しい種族であることに変わりはない。
「ティガ族は翼を持つ種族だ。当然飛行も可能だが……かと言って、人間複数人を一気に運べるほどの力はない」
「しかし……確か、勇者戦紀では勇者一行を乗せて飛翔していましたわよね?」
一度しか読んだことのないローガはともかく、サトリナも知らないというのは意外だった。
あまり読み込まないタイプなのだろう。
説明はミリアルドが始めた。
「バラグノさんは、ティガ族の中でも有数の、竜の血を色濃く残す部族の方だったんです。なので、彼は自身の体を巨大な飛竜へと変化させる能力を持っていたのです」
「体を……竜に?」
ローガが怪訝そうに聞く。
実際に見聞きしなければ信じ難いが、事実だ。
「それに乗ることで勇者たちは空の旅を行っていた。だから、私たちにはバラグノが必要だったんだ……」
竜の血を引く者は少ない。体を変化させられる者はさらに。
俺の知る中では、それが出来るのはバラグノだけだった。
万事休す、か。




