第三十二話 船の中で
それからどれほど歩いただろうか。
空が白み始めた頃、俺の目にようやく、スールカの町の灯りが映った。
休みなしに歩き通したため、さすがに俺も疲れている。
だが、もう少しの辛抱だ。
あとは船に乗ってしまえば、このソルガリア大陸から逃れられる。
「おい、ミリアルド」
背負う少年の体を揺らし、目覚めを促す。
「ん……」
もぞもぞと体を動かして、ミリアルドは覚醒した。
「着いたぞ」
「あ……は、はい……」
しゃがみ、背から下ろしてやる。
まだ眠たいのか、ミリアルドは袖でごしごしと目をこすった。
こういうところは、やはりまだ子供だな。
「ありがとうございました、クロームさん」
「いや、構わないさ。……だが」
もうスールカは目の前だ。しかし、その前にやらなければならないことがある。
「ミリアルド、服を脱ぐんだ」
「……えっ」
半分寝ぼけたままだったミリアルドの目が見開かれる。
頬を染め、驚いた目つきで俺を見上げた。
……うん、これは俺が悪い。さすがに省略しすぎた。
「着替えた方がいいってことさ。今のままじゃあ、見る人が見たらお前が神官・ミリアルドだってわかってしまう」
せっかくセントジオへと逃げるのなら、足跡は可能な限り消しておきたい。
この後騎士がスールカへやってきた時、ミリアルド一行が船でセントジオに向かった、という情報を手に入れる確率を、少しでも下げておきたかった。
「とにかくその法衣だな。それは脱いで……もったいないが、捨ててしまおう」
「そうですね……。これ、ひどく目立ちますから」
金の刺繍や藍染めは、町中においては人の目を引く。
ミリアルドと確信は持たれなくとも、目撃例としては十分だ。
ミリアルドが法衣を脱ぎ、内着だけになる。
しかし、それだけでは寒そうだ。セントジオはここよりも気温が低い。
「私の上着を貸そう」
念のためにと持ってきておいた、寒さしのぎの長袖の上着を荷物から出し、手渡す。
体格差があってかなりぶかぶかだが、ないよりはマシだろう。
「ありがとうございます。何から何まで」
「なかなか似合うぞ」
「はい。ロシュアの染め物は肌触りがいいので、心地いいですね」
故郷の自慢の一品だからな。
「よし、行こう」
法衣を捨て、最低限の偽装を施してからスールカに入った。
港町で、漁も行われているスールカは、こんな早朝でもにぎやかだった。
獲れたての魚や貝をそのまま売り出す朝市を横目に、俺たちは船着き場を目指す。
船は三隻止まっていた。そのどれかが、セントジオに行く船のはずだ。
「あの、すいません」
船の前に立っていた船乗り風の男に話しかける。
「セントジオ港への連絡船に乗りたいのですが」
「それなら昨日出港したよ。次に出るのは……三日後だったかな」
だが、一足遅かったようだ。
三日なんて待っていられない。早ければ、数時間後には騎士たちも到着してしまうだろう。
「それじゃあ、大陸のどこでもいいので、セントジオに向かう船はありませんか」
「それなら、あっちの三番船があと一時間で出港だ。貨物船なんだが、多少は人も乗せてくれる」
船の種類を選ぶ余裕はない。
貨物船でもなんでもいいから、乗せてくれるなら乗るべきだ。
「……ところで」
船乗りが言う。その視線は下、ミリアルドに向いている。
「その子……いや、その人はもしかして……教団の神官様ですかい?」
まずい。やはり、着替えたところでバレてしまうのか。
いや――まだ、誤魔化せるはずだ。
「ああ、違いますよ。よく似てるって言われるんですけど」
言って、ミリアルドの頭をぽんと叩く。
「この子、女の子ですから。なあ、ミリア?」
えっ、と目だけで驚きを伝えてくる。
同じく目だけで、合わせろと訴えた。
「えと……は、はい。そ、そうですわ、おじ様」
……まあ、悪くはない。
とっさにしてはまあまあだよ、ミリアちゃん。
「なんだ、そうかい。……それじゃあ、船賃は二人で……1500ガルってところだな」
「はい、ありがとうございます」
財布から金を取り出し、手渡す。
代わりに、乗船許可証を受け取った。
ここまでは一切使わずに済んでいたから、初めての出費だ。
「改めて言うが、一時間後に出港だ。乗り遅れても金は返せないから、気をつけてな」
「ありがとうございました」
ミリアちゃん……もとい、ミリアルドが礼を言う。
「おう。嬢ちゃん、お姉ちゃんと仲良くな」
「は……はい」
……しかし、やはり女の子扱いは微妙な気分のようで、笑顔はひきつっていた。
「さて、さっさと乗ってしまおう」
早速、三番船が止まる波止場へと向かう。
船の中に入ってしまえば多少は安全だろう。
それに、出港さえしてしまえば、もはや逃げ切れたも同然だ。
「……はい」
若干だが、返事はむすっとしている。
いやまあ、罪悪感がないわけでもないのだが。
「……何が嫌なのかというとですね」
俺が聞く前に、ミリアルドは一人で話し始める。
「自分では無理があるなあと思った一言で、だませちゃったというのが……」
「あー……」
それは、そうだな。
意図せず、自分が何もせずとも女の子に見えてしまうと証明したようなものだ。
「いや、まあ、あれだ。ほら、今着てる服も女物だし、な?」
「……気休めなら、結構です」
大きくため息をつくミリアルドに、胸の内の罪悪感を少し強くしながら、俺たちは船に乗り込んだ。
船内にいる船乗りに許可証を見せると、客室について説明を受けた。
曰く、他の客と相部屋になるようで、男女の区分けもしていないから、それは我慢してくれ、とのことだった。
貨物船の少ないスペースに飛び込んだんだ。それぐらい我慢できる。
……まあ、そもそも俺とミリアルドの時点で女と男なのだが。
「202号室……ここか」
許可証に書かれた番号の扉を開く。
狭い、正方形の部屋だ。両脇に簡単なベッドが一つずつあり、中央には共同で使う机が一つ。
本当に最低限の生活が出来るだけの部屋だ。
「……なんだ、他の客が来たのか」
向かい合うベッドのうち、向かって左の方に寝そべっていた人間が、体を起こしつつそう言った。
日焼けだろうか、浅黒い肌に、色素の薄い栗毛の頭髪。
俺よりも数歳は上ぐらいの男だ。投げ出された足が長く、背丈が高いとわかる。
「ああ。悪いが、しばらく厄介になる」
「女か。それと……んん?」
俺のうしろにいたミリアルドを見て、男は怪訝そうに目を細めた。
「あんた……教団の?」
……やはり、ソルガリアの人間にはバレてしまうか。
ここはさっきと同じ方法でやり過ごそう。
「いや、この子は女の子で、名前は――」
「おっと、嘘はつくもんじゃあないぜ」
「なに……?」
俺の言葉を遮って、男はそう言った。
ひくひくと鼻を動かす。まさか、この男……。
「こんなに強い神霊術の"匂い"……忘れるわけがねえ」
「匂い……?」
不可解な発言に、ミリアルドが首を傾げた。
しかし俺は、その発言で確信を得ていた。
「お前……『イグラ族』か」
俺の言葉に、男はにっ、と口角を上げて笑った。
綺麗に並んだ歯の中で、牙のような八重歯がきらりと光った。
「ご名答。俺はイグラ族のローガ。ローガ・キリサキだ。よろしくな、お二人さん」
長く続く海上の旅。
俺たちの船上生活は、この男との出会いで幕を開けたのだった。




