第百六十七話 歪な平和
「さすが神子殿。ご明察です」
戦争。――かつて、俺たちが住むこの世界に起きていたこと。
つまり……人と人とが傷つけ合い、命を奪い合う愚かな行為が……この世界には蔓延していたのだ。
「戦争って……何十年も前のことでしょう? わたくしもその歴史は学びましたが、しかし……!」
サトリナの言うとおりだ。
戦争は、今から七十年ほど前のことだ。この中にいる人間に、そのことを知っている者はいないはずだ。
――ミリアルドの中の、ディオソールの記憶を除いては。
「戦争が始まったのは七十二年前――我が輩が、未だ幼い頃だ」
「幼い……って、生まれてたのか、あいつ……!」
ローガが驚愕の表情を見せる。驚いているのは俺もだった。
七十年前に幼いということは……少なくとも八十弱の年齢ということにある。
バランは、そんな年にはまったく見えなかった。
「彼は今、八十一歳ですよ。……僕も、初めは信じられませんでしたが」
ミリアルドが答えた。
馬鹿な……。六十歳と言われても下手をすれば信じない風貌だと言うのに。
バランは俺たちの驚きを余所に、続ける。
「悲惨だった。凄惨だった。何人もの友が死に、その家族が死に、我が兄弟も、親も――その悉くが戦争によって息絶えた。あれは……地上の地獄だ」
戦争の原因は明らかになっていない。
だが、理由はわかっている。侵略だ。
今でこそ世界は四つの大国によって四分されているが、当時は大小様々な国々が、己の土地を育み、守っていたという。
その数は百とも、二百とも聞いている。――そしてそのすべてが、戦争の対象だったとも。
「ソルガリア大陸、セントジオ大陸、リウガレット大陸――三大陸すべてが、一斉に争いを始めた。世界中に血の雨が降った。我ら庶民に、逃げる場所はなかったのだ」
「……グレンカムは、その時はまだ他の大陸とは隔絶されていたと長老から聞いたことがあるな」
イルガの言うとおりだ。グレンカムと各大陸が連絡し合うようになったのは、三十年ほど前のことだ。戦争があった時期、ティガ族の存在自体が、ほとんど認知されていなかったという。
「戦争は五年続いた。そのうちに各種大陸はその全土のほとんどを統治し終えた。そして、次の狙いを海の向こうへと定め出したその時――“奴ら”が現れたのだ」
「奴ら……」
その指し示す存在は、つまり。
「そう、魔物だ。我ら人間の前に、魔物が初めて姿を現したのだ。……そして、そのおかげで、戦争は中断されたのだ」
「なぜだ」
問うと、バランはすぐに答えた。
「他国にかまけている暇がなくなったからだ。魔物は断続的に現れ国土を荒らす。初めは兵士一人でも倒せる程度だったようだが、徐々に強大になった魔物を倒すにはは、軍隊を導入せねばならぬようになった」
「当時は、今ほど魔術や神霊術が発展していませんでしたから、魔物一匹を倒すにも相当な苦労と犠牲が必要でした」
ミリアルドが答える。
「その時から、ディオソールは魔物をこの世界に送り込んでいたんです。目的は僕の記憶には残っていませんが」
ディオソールも虎視眈々と侵略を考えていたのだろう。戦争で疲弊した人類に魔物をけしかけようとしたのかもしれない。
「どの大陸も、魔物の相手で手一杯になった。いくら戦争の準備を進めても、その戦備を魔物に奪われる日々が続き――最終的に三国は停戦協定を結ぶことになり、今に至る。戦争なき平和な世の中にな」
バランは薄気味悪い笑みを浮かべた。
「わかっただろう? 魔物が現れたことでこの世から戦争がなくなったのだ。魔物が現れてから、この世で戦争が起きたことはない! なんとすばらしい! 私は、あの奇跡を再び起こそうというのだよ!」
目をぎらぎらと輝かせている。
まるで自分こそが英雄だと思っていそうな面だ。
……恐らく、今バランが語ったことは真実なのだろう。
魔物が発生したことで戦争は終わった。それ自体は理解した。
しかし、だからなんだというのだ。
「……お前の言いたいことはわかった。だが、それと魔物を再発生させることに何の関係がある! 今、この世に止めるべき戦争は起きていない!」
魔王ディオソールを倒し、魔物は消滅した。
その後の十五年間、戦争は起きてはいない。起きてもいない戦争は止められもしない。
止める手段である魔物の再発生も、意味がないはずだ。
「そうだ。だが、今後起きないとは言えんだろう」
「ありえませんわ! 我がセントジオが――お兄様が、他国に戦争をしかけることなど!」
「だが、不意に襲われることはあろう? なすがまま国土を奪われるつもりか?」
「それは……」
兄を誇るサトリナに、バランは鋭く返す。
クリスもそこまで愚かじゃない。もしも他国から襲われれば防衛する。しかし……それはつまり、戦争の始まりだ。
「今まで戦争が起こらなかったのは、魔物による被害の復興に努めていたからだ。しかし、それも終わりつつある。目の前にある脅威が去ったならば――人は必ず、争い始める! ならば、その前に再び魔物を蔓延させればいい! それこそが我が計画! 我が輩が目指す平和だ!」
魔物が発生したから戦争が終わった。
魔物がいたから戦争が始まらなかった。
魔物がいなくなった今――戦争が始まる。
それがバランの論だ。だから、戦争を起こさないために、人間同士が争わないために魔物を再び増やす。
……なるほど、理に叶っている。
再び地上に魔物が溢れれば、確かに人々はまたも手を取り合うだろう。戦争など起ころうはずもない。
だが――そんな正義、認めてたまるものか。




