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第百五十六話 正体

「なに……!?」

「え……!?」

 垂れ幕を払ったイルガも、そミリアルドさえもが驚愕していた。

 そこには――誰も、いなかったのだ。

 普段使っているのだろうか、座椅子と肘掛けのみが置かれ、しかし当の本人の姿はどこにもない。

 先ほどまで確かに、俺たちと目の前で会話していたというのに。

「ど、どういうことですの?」

 サトリナがミリアルドに問う。

 しかし、ミリアルドもやはり当惑していた。

「ぼ、僕にも何が何だか……。大神官様は、どこに……」

 その時、背後で何かが動く気配がした。

 咄嗟に剣の柄を握り、振り向いた。――が、そこにも誰もいなかった。

 そこにいたのは――小さな、動物だった。


「聖獣ヴルペス……?」

 教団の紋章にも描かれている銀色の狐だ。

 どこからか入ってきたのだろうか。

「たまにいるよな、教団に。何度か見たことある」

 ローガが言う。

 正確に言えば、この本部周辺にヴルペスが数多く棲息しているのだ。聖獣というと個体のイメージが強いがそんなことはない。彼らだって生き物、普通に繁殖する。

「……前にも、教団の中でヴルペスを見たことがあったな」

 ふと、思い出した。

 確かあれは、バランに捕らえられて教団から脱出しようとした時だ。

 あの時、ヴルペスに誘われるように移動した先に、隠し通路を発見したのだ。

 おかげで脱出に成功したため、ヴルペスには密かに感謝していたのだが……。

 俺は再度振り向き、大神官の消えたその跡を見た。

 あれが消えて、このヴルペスが現れた。

 ――偶然だろうか。


「お前も怪しんでいるな、クローム」

 イルガが言った。俺が何か返事をする前に、その右手に火竜が纏っていた。

「イルガ……!?」

「こうするのが一番手っ取り早いだろう」

 熱気が渦巻き、汗が流れ出す。

 撃つ気だ。あのヴルペスに向かって。

「イルガさん、何を!」

「試すのさ。あの狐の正体を暴くためにな」

「聖獣ヴルペスは教団の守護獣なんですよ!? 命を奪うなんてこと、絶対に――」

「勘違いするな。己れは、ティムレリア教の信者じゃない」

 だから構わない、と。イルガはそう言って、さらに魔力を強めた。

「おいおいおいおい……!」

「か、火事になるんじゃありません……!?」

 ローガとサトリナも慌て始めた。

 あまりの熱気にイルガの姿が揺らぎ始めた。陽炎が起きているのだ。

「イルガちゃん、危ないって!」

「案ずるな。これは己れの炎だ。消し止めることは容易い。――行け!」

 火竜が放たれた。

 床を焦がし、火竜は突き進む。

 ヴルペスは動こうとしない。このままでは直撃だ。丸焼きでは済まない。骨の一片に至るまで灰となってしまう。

「……っ!」

 そして、着弾――することは、なかった。

 「……!」

 イルガが放った猛火の竜が、ヴルペスの眼前で一瞬で霧散したのだ。

 辺りにほんのわずかな残滓の火の粉を散らして、ヴルペスは平気な顔で佇んでいる。

 ゆらり、と銀色の尾が揺れた。


「いったい、何が……」

 ミリアルドが驚愕する。

 だが、イルガは冷静にそのヴルペスを見つめ、そしてその口元に笑みを浮かべていた。

「普通の狐では……ないようだな」

 思惑通り、ということだ。

 全員の目線がヴルペスに集まった。イルガの火竜を弾いたのは神霊術が作り出す障壁だ。

 いくら神霊力を持つ聖獣とはいえ、小さなヴルペスではあの威力の術は防ぎきれない。

 ならば、あれは――。

「……仕方あるまい」

 どこからか、声がした。

 いや、どこかではない。――目の前の、ヴルペスが放ったのだ。

 嗄れた男の声。先ほど垂れ幕の向こうから聞こえてきたものと同じだ。

 まさかとは思ったが、本当にそうだったとは……。

「おいおい……教団の大神官の正体は、お狐様だったってか……?」

 驚きと呆れを半々にしたような言い方でローガが言った。

「この姿は偽りのもの。今――真の姿を見せよう」

「……!?」

 突然、声が変わった。

 話しつつ、その声が徐々に変わっていったのだ。

 翁のものから、若い――いや、幼いとさえ思えるほどの女声へ。

 ヴルペスは尻尾をゆらりと揺らしたかと思うと、その場から垂直に跳躍、空中でその身をくるりと一回転させ――刹那、その姿が切り替わった。

 まるで木の葉が裏返るかのように自然に、そして瞬く間もなく。

「これが……我の、真の姿だ」

 立ち上がる。

 ミリアルドが着ているものと似たような、白地に金の刺繍が入ったマントに身を包んだ――女の子だった。

 マントの下は、服と呼べるかも怪しいような小さな布切れを纏った姿。しかし、露わになった病的なまでに白い肌には、びっしりと呪術的な赤青の入れ墨が這っていた。

 それは顔面にまで及び、鋭い吊り目と合わせてか見た目ほどの幼さを感じさせなかった。

 それでも、小さく細っこい身体はどう見ても5、6歳ほどの少女のそれだ。

 ヴルペスの体毛とよく似た銀髪を二つ結い上げて頭頂部に持ち上げているため、正面から顔を見るとちょうどそれが狐の耳に見える、不思議な髪型をしていた。

 教団の大神官が……こんな、幼い子供だったというのか。


「言っておくが、我は貴様らの数十倍の年月を生きている。魔王ディオソールにはちょいと負けるがの」

 言い、ミリアルドを睨むように見る。ディオソールは数百歳だと言っていたはずだが、あの大神官もそれぐらいだと言うことだ。

「…………」

 崇拝していた大神官がこのような姿だったからか、そのミリアルドは絶句していた。

 いや――ミリアルドだけではない。この場にいたもの、全員だ。

 無理もない。俺も……正直、理解が追いついていなかった。

 これまで様々なことを見てきたが……まだまだ、世界は未知なことで溢れているということだ。

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