第百十二話 悪夢
ここは、どこだ。
俺は今、暗黒の中にいた。
光などない。音もない。
自分が目を開けているのか閉じているのか――生きているのかさえもわからない。
ただ――痛い。
身体のどこかが痛い。どことはわからない。
頭ではない、腕ではない、足ではない。
わからない。何も。
「クロ」
声がする。懐かしい声。二度と聞くことはないと思った声。
「マー――」
その名前を呼ぼうとして、しかし俺の目の前には突如――彼女ではない彼女の姿があった。
出会ってから一度も見たことがない冷たい目。
常に笑んでいたはずの口元は真一文字に結ばれ、その顔に表情はない。
銀に覆われた左腕で弓を引き、俺を狙う。
やめてくれ、俺だ――私だ!
幼なじみのクロームだ! クローム・ヴェンディゴだ!
マーティ……! マーティ!
「マーティ!」
手を伸ばしたその先は――白い、天井。
……夢、か。
伸び切った手をぱたりと下ろす。柔らかなベッドに受け止められた。
ここは……どこだ?
とにかくベッドから起きようと身体に力を入れる。
「ッ……」
だが、その時右足に激痛が走った。
「そうか……確か……」
俺は……足を矢で貫かれたんだった。
あの……マーティによく似た狙撃手に。
いや、違う。よく似たのではない。
あれは……紛れもなくマーティだった。
信じられない、信じたくない。
でも……幼なじみとしての直感が告げている。
あれは、マーティだ。
「クロームさん?」
扉が開く音。
声で部屋の中に入ってきたのはミリアルドだったと知る。
首だけを起こし、俺は返事をする。
「ああ。……どうなった?」
バランを取り逃がして、気絶して――その後のことは何もわからない。
どれくらいの時間が経っているのか。
その後の経過を問う。
ミリアルドはベッドの横の椅子に座って、落ち着いた笑顔で答えてくれた。
「教団は無事、取り戻せました。もう各所に通達が行って、僕達の手配書も順次回収されるそうです」
バラン本人こそ逃したが、悪行を暴くという目的自体は果たした。
きっと……喜ぶべきことなのだろう。
マーティのことはあくまでも俺個人の問題だ。
だが……割り切れない。
「そちらこそ、一体何がどうなっていたんですか? 追い付いてきたローガさんに連れられてバルコニーに出たら、足を矢で射られたあなたがいて……」
……話すべきだろう。ごく短い時間ではあったが、ミリアルドもマーティとは顔見知りだ。
いや、というよりもこの事態を俺の心のなかに留めておくことなど出来やしない。
吐き出したいほど、重い。
「実は――」
話をしようと口を開いた瞬間、ドアがノックされた。
「あ……」
「大丈夫だ」
「はい。どうぞ」
出鼻をくじかれたが、問題はない。……焦っても仕方がないことだ。
「ほ、ほひてはは」
扉を開き、謎の言語とともに入ってきたのはパンを口に咥えたローガだった。
両手に料理の載ったお盆を持って……どうやって扉を開けたんだ?
「お目覚めですわね、クロームさん」
その後ろからはサトリナ。……ああ、彼女に開けてもらったのか。
二人共治療の跡がある。だが大した傷ではなさそうだ。よかった。
「ほあ、ほほのひほははほはっへ……」
「通じませんわよ。……教団の方からお食事を頂いてきました。起きられたのならちょうどよかったですわね」
パンを咥えたまま話そうとするローガに代わりサトリナが言い出す。
ベッドの脇の小机にお盆を一つ置いて、もう一つをミリアルドに手渡す。
ようやく両手が空いて、ローガはパンを噛みちぎって咀嚼し始めた。
「……ぅん。で、何があったって?」
飲み込んでからそう言う。
「バランにやられたのですか?」
二人共俺の身に起きたことが気になるのだろう。
ならばちょうどいい。このことはどうせなら、みんなに聞いてもらいたい。
とすると……。
「イルガは?」
「まだケガの治療中。あいつ、外でかなり術受け止めてたみたいでさ。申し訳ないからって無理矢理連れてかれてたよ」
「“己れは平気だ”って、逃げようとしてましたけどね」
その状況をミリアルドも知っているのか、少々楽しげに苦笑する。
俺にもその様子は容易に想像できた。
……落ち着いたからか、腹が空いてきた。
せっかく持ってきてくれた食事を少しずつつまみ、口に入れる。
……と、外からかつかつと足音が聞こえてきた。
噂をすれば、ということか。
ノックもなく、扉が開かれる。
「……ん、目覚めてたのか」
ローガの言うとおり、他の二人よりも包帯が多めに巻かれている。
少々機嫌の悪そうに、腕組みをして壁にもたれかかった。
「傷は平気か?」
「お前が言う台詞じゃない」
それもそうだ。
たぶん、この中で一番の重傷は俺なのだろう。
とにかく、これで全員が揃った。
「食べながらでいいので、話してくれますか?」
ミリアルドの言葉に頷いて、改めて、さっき俺が見たものを話すことにした。
「リハルトを倒した俺は、逃げたバランを追ってバルコニーに出たんだ」
「ああ、そこまではミル坊に聞いたよ」
ここまではミリアルドも承知の内容だ。
だがここからは、俺しか知らない。
「バルコニーに出たら……急に、魔物が出てきたんだ。テンペストだ」
「魔物が?……そんな、周辺ならともかく、この本部には神聖力が満たされているのに……」
ティムレリア教団の総本山ということもあって、ここは神の力が集う地となっている。
そこに魔物の発生源たる瘴気が溜まる余地はなく、魔物の発生は有り得ない――そう、ミリアルドは説明する。
「そうなのか?……だが、確かに魔物は現れたんだ。しかも、突然」
確かに魔物は突然発生するものだ。だが、あそこまで何の予兆もなく現れるはずがない。
この神聖な地に現れたことと言い、不自然な点がある。
だが……今重要なのは、そこではない。
「そして、そのテンペストの上に……人が乗っていた」
「人?……魔物の、上に?」
そんなはずは、とサトリナが怪訝な表情になる。
魔物と人が馴れ合うことは出来ない。
だから俺も驚いた。……だが、それ以上の事態に、俺は気付いてしまった。
「その上に乗っていたのは……マーティだったんだ」




