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また一つ

 蒼く凍りついた最奥の手前の空間。温かな焔に照らされて仮眠を取る者たち。

 何を考えるわけでもなく。何かを待つように。シュウナはじっと運命が待つ部屋の扉を見上げ続けた。


 まるで少女の時間だけ止められている。どんな常識も通用しないこの状況で、そんな錯覚に陥った。複数人の静かな寝息の中に、赤髪の戦女王の吐息が混ざる。

 小さく、細く、しかし不思議な力強さを感じさせる背中に誰かがそっと近づいた。


「……来たか。待ちくたびれた」


 背中まで長く伸ばされた絹のような銀髪。アメジストの色が織り交ぜられた髪を高く結い上げたルキアが、憑き物が落ちたような顔で立っていた。

 白磁の肌は惜しげもなく晒され、冷たい空気に触れている。白い息を一つ吐いた獣人の青年はシュウナに、滅多に浮かべることのない笑みを向けた。


「これしか方法がないと分かれば、もう迷う必要はない。……レウスの描いた世界を見てみたかったが、その役割はお前……いや、あなたに譲るとしよう」


「……ある日、血と白雪の中に埋もれる銀の子馬を拾った。ある日、土と泥に汚れることのない気高き竜の子を拾った。竜の子が育つまでのたった数日の間だけじゃったが……家族というものをわしに思い出させてくれた」


 眠りを妨げない小さな声は扉に跳ね返り僅かに反響する。まるで天から降り注いでいるように聞こえる声に、ルキアはそっと目を閉じた。


「『幻馬』は忘却を知らない。三百年、俺は俺を拾い数日抱いてくれた腕を忘れたことは無かった」


 シュウナも目を閉じ、思い出すのは遠き過去の日々。昨日の事のように思い描ける、脆き数日の瞬き。

 恩人を失い、家族を失い、希望を失い。絶望と怒りと復讐に囚われ、滅ぼす相手もいなくなった。途方に暮れたシュウナは、短く小さな旅に出る。

 そして見つけたのだ。東の大陸で、死にかけの幻馬と、生まれたての神の終滅装置である黒紫の小竜を。


 一週間にも満たない時間で小竜はすぐに成長し、青年の姿をするようになった。慌ただしくも穏やかな日々を過ごし、忘れてしまった平穏の温かさを思い出した。

 成長した竜と話をつけて、シュウナは国へ戻った。運命の時が来ることをじっと待ち続けようと、言葉を交わし合った。


「レウスはあなたに素直になれなかったが、アイツの想いも請け負って俺が伝えよう」


 四つの瞳が同時に開く。真正面から向き合った少女と青年は、どちらからということも無く微笑み合う。


「俺たちを救ってくれて、ありがとう。竜は勝手に成長しただろうが、この命はあなたに拾われた。深い絶望の淵にいてなお、他者を見捨てなかったあなたに」


「自分でも理解できぬただの気まぐれじゃったが……。そう言ってもらえるなら、人助けも獣拾いも悪くないものじゃな」


 哀愁漂う会話はそこで終わり。表情を引き締めたルキアはすれ違うようにして扉へ向かう。

 その手には、飾り気のない細く鋭い槍が握られていた。否、それは槍ではなく角であった。

 幻馬……ユニコーンの象徴であり力の大きな源である一角を、ルキアは自分でへし折り武器として握り締めていた。

 目的は一つ。絶対貫通の一撃を以て、神への道を切り開くため。


 ルキアが握る手に力を込める。空気を揺るがすプレッシャーが放たれ、眠っていた者たちが驚きながら身を起こした。

 そして者共は聞く。命を代償に神の氷を破らんとする青年の願いを。


「どうか、頼む。神がいない世界の実現を成し遂げてくれ」


 グルグルと渦を描く光の奔流が角を覆う。

 見上げるほど巨大な扉と比べれば、ちっぽけな大きさの命の武器が全力を込めて氷刻の壁へと突き立てられた。


 何かが悲鳴を上げる。それは無茶な硬さに相対する一角か。守りを破りかねない一撃に対する神の制止か。

 甲高い音に掻き消されないように、シュウナは声を張り上げた。


「往くがいい!!その身命を賭して、新たな世界への道を拓け!!!」


「オオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!」


 命の恩人の激励に。幼き日に見た母の叫びに。儚き幻の馬は雄叫びを轟かせる。

 永遠にも思える拮抗だった。一瞬のように感じられる衝突だった。

 孤独を忘れさせてくれた少女と竜に恩を返したい青年が。

 忘却と消滅を恐れ少年と青年を遠ざけたい少女が。


 分厚い扉越しに思いの丈をぶつけ合う。

 優劣のつかない勝負。故に『引き分け』という結果は必然だった。


 命の槍が半ばから折れ、力を失って砕け散る。

 拒絶の蒼に罅が走り、冷たい結晶の雨を降らせる。


 視界を覆い尽くす氷の雨に、一人を除いて誰もが顔を隠した。

 頭に氷が当たり血が出てもシュウナは決して目を逸らさなかった。弱り果て死まで秒を刻んでいた、手のひらサイズの子供が偉業を成した瞬間から。


 ルキアの体が体幹を失い胸から倒れる。冷たい床に叩きつけられる直前で、シュウナは身体を支え膝に青年の頭を乗せていた。


「よくぞ成し遂げた。ルキア、わしが名付け癒しわしを癒した幻の子よ。わしが知らぬ間に、おぬしは本当に大きくなったのだな」


 声はもう届いていないかもしれない。こんな呼び掛けに意味は無いのかもしれない。

 シュウナは光を失ったルキアの瞳をそっと閉じる。血の気を失った瞼に落ちた涙を拭うように、優しく口づけをした。


「ゆっくり眠り見届けるが良い。わしが、こやつらが、神を神の座から引きずり落とすところを。もしも叶うのなら、その先の世界を見守り続けて」


 数えることをやめた長い人生の中で、たった数日だけ時間を共にした子。いつもシュウナより先に去っていく大切な人々。

 死別を受け入れたくなくて怒りに身を燃やしてきた。前神の怨みに心を支配されてきた。


「まったく……わしは愚かじゃな。怨む神もいない今になってようやく、離別が悲しいだけではないことに気づくとは」


 遺体を優しく横たえる。ゆっくりと立ち上がり、涙も拭かずにシュウナは面々に視線を向ける。

 ルキアの勇姿、そして願いを聞いた少年たちは、個々の感情を顔に浮かべている。

 迷っている暇などない。扉が再び閉じられる前に、百階層に行かなければならない。


「行くぞ。新たな神を椅子から落としてやるのじゃ。リーシェの説得……これを成功させて神討伐は達成される」


 そう。リーシェを殺す必要はない。少女を説得し、神自ら役割を放棄させればいい。神のいない世界の実現はそれで成功する。

 未来も希望もある結果を見据えて、メンバーは横一列に足先を揃える。

 歩幅は違くとも想いは同じ。ようやく辿り着くダンジョンの最下層に、シュウナたちはそれぞれの感情を抱き歩き出した。



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