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私の最後の弱音

 気まぐれに紫色に染まる長い黒髪。しなやかな手足と、程よく筋肉が乗った体を覆う風をはらむ羽織。

 空の下で燦然と輝く黒紫の硬質な鱗。どんな風も難なく掴む力強い翼。獲物を噛み砕くための真珠色の牙。


 涙の雨。霧の吐息。ぬかるむ大地。終わらない悲劇。

 神より先に大陸の基盤を作り上げた古の竜。その伝承に登場する人と竜の子によく似た特徴を持った獣の王。


 傘も差さず、涙に身を湿らせて獣の王と私は向き合います。

 短く、長い沈黙の後に私は言いました。


「お願いがあります」と。


 しかし言葉の続きを聞くより先に、獣の王は頭を振りました。男らしい、大きな口が寂しそうに笑みを形づくります。


「その願いには答えられない」と言った後、縦に開いた瞳孔をそっと瞼の裏に隠しました。


「もう同じ願いを聞き届けているから」。私はただ一言「そうですか」と返しました。


 私と彼の会話らしい会話はこれで最後。きっともう、こんな風に穏やかに話すことは二度と訪れないでしょう。


 お互いに背を向けます。少しだけ残念な気持ちを抱えた私に対して、獣の王は何事もなかったかのように飛び去っていきました。


 あぁ、胸が痛い。罅が入った胸骨が必死に痛みを訴えます。けれど私は気にすることなく、意味もなく歩を進めます。


 これからどこに行こうか。時間はあまりありません。こういう時、いつも両隣には言い合いをしながらも私もために知識を分けてくれる少年たちがいました。彼らの傷は大丈夫か心配です。あぁ、だけれど私は戻る訳にはいかないのです。だって……「怖い」のですから。


 一人考えて、ふと思い至りました。「そうだ、シルビアに行こう」と。そっと目を閉じて、ありえないくらい鮮明に瞼に浮かび上がるのは盤面として表された世界。人は駒のように表現され、知ってる人、知らない人、無数の人々の現在地が手に取るように分かります。あぁ、本当に怖い。嫌になります。


 痛む胸に押し寄せる不快感を飲み下し、私は意識をシルビア一点に集中させました。たったそれだけで、雨に打たれることも高い湿度もなくなります。鼻腔をくすぐるのは、乾いた土の匂い。華やかな草花の香り。穏やかな風に乗って鼓膜を揺らす、賑やかな復興の奏で。

 もう既に懐かしく感じるあの緑の草原にやって来ました。初めての来訪のきっかけを作ってくれたあの金髪の少年は、元気にしているでしょうか。


 そっと足を前へ出します。

 脳裏に思い出されるのは、南の大陸での初めての戦闘。今はもういない黒髪の少女は、鮮烈なまでに記憶に焼き付いています。

 革命戦最後の犠牲者となったあの少女には見えているのでしょうか。立ち上がった女王の元、目まぐるしく発展していく活気づいているシルビアが。


 瓦屋根が並ぶ通りを、遅くもなく早くもないペースで進みます。多くの人々が、ようやく訪れた平和な生活に表情を明るくさせていました。疾病や暴力に怯える必要のない当たり前の日常が、ようやく送れつつあるのです。

 元気な子供たちが頬を上気させて走り回ります。その中に、見覚えのある栗色の髪の小さな少女を見つけました。金髪の少年二人が大切に守り育てている子です。

 すぐ目の前を通り過ぎた少女は、遊びに夢中でこちらに気づくことなく角の向こうへと消えてしまいました。


 周りを見れば、作業を進める顔ぶれの中に志を共にした革命の同志がいました。生き生きと槌を振るい、本来の職業である刀鍛冶の肩書きを返上して家を建てています。今度は一瞬目が合いました。話しかけようとした手前、忙しそうに部下に指示を出していたのでそっと場を離れます。


 あぁ、また胸が痛い。さすがにそろそろ治療しなければなりません。変色した胸部に手を当てて、部位の時間を巻き戻します。楽になった呼吸を確認するように、深呼吸を二回しました。


 賑やかな復興区を抜けて、足は自然と女王の城へ。

 目つきの悪い少年が斬り飛ばした門は綺麗に直されていました。

 女王と酷似したこの外見ゆえか、誰にも見咎められることなく城内へ入ります。


 入城してすぐに会いたかった背中を発見しました。青い着物を羽織った少年も何かを感じ取って私の方を振り向きました。


 忙しく奔走しつつも充実した毎日を送っている。それが人目で分かる顔が、みるみるうちに花を咲かせました。


 少年が私の名前を敬称をつけて呼びます。

 私も少年の名前を敬称はつけずに呼びます。


「久しぶりですね、キリヤ」という挨拶に、少年キリヤは照れたように笑いました。その笑顔を見て私の心は安堵を覚え肩の力を抜きます。


 どうしてここへ来たのか、という少年の問いにフワリと微笑みます。深い理由はありません。ただ少し、様子を見たくなっただけ。

 少年は自慢げに胸を張りました。順調すぎる程に進む復興の歩みが嬉しくて堪らないのでしょう。


「シュウナ……女王殿下に会いますか?」という問いには首を横に振って答えました。女王も補佐(見張り)をしているつり目の少年も忙しいでしょう。わざわざ時間を割いて私に会う必要はないと思いました。


 久々の再会にしては短すぎる会話を終えて、私は白の外へと足を向けました。名残惜しそうに呼び止めようとしたキリヤは、通りかがった役員に会議へと連れていかれたようです。


 あぁ、怖かった。けれど大丈夫。まだ大丈夫。


 確認を終えて、私はまた別の大陸へと向かいました。

 当然のようにテレポートを行い、着いた先は地下国家ベリア。その上に位置する、地上に展開された野菜畑のど真ん中です。


 私監督で耕し野菜を植えた畑は、一年で見違えるほどに面積を大きくしていました。育っている葉物野菜もほとんどがよく育っています。ところどころ日照不足による病気がありますが、成功している量に比べれば些細な数です。

 水を撒いている人たちは、赤髪の私を見ると完璧なまでの礼をしました。気にしないで作業を続けて、と軽く手を上げると彼らは水やりへと意識を戻します。気になることでもあったのか、野菜を見ながら首をしきりに傾げていました。


 あぁ、胸がまた痛みます。傷は治したはずなのにおかしいですね。

 地下へと降りる階段を見つけ、ひたすら降り続けます。『蒼穹石』の輝きが美しい地下へ到着すると、多くの魔人族が私に頭を下げました。一年前よりだいぶ伸びた赤い髪に風を絡ませて、母の実家へと足を踏み入れます。


 突然現れた私を見て、兵士は驚きつつも王の元へ案内してくれました。

 睨み合いばかりした記憶がある『王の間』には、あの日と同じように玉座に祖父が腰掛けていました。政務をしていないのはおサボりでしょうか。


「お久しぶりです、おじい様」と掛けた声はやけに響いて、半分寝ていた祖父イグレットは目を勢いよく瞬かせた。


 その顔が分かりやすく言っている。「生きてる……」と。魔人族は親族の生死を離れていても感知できます。グレイスが私の死を感知したのなら、当然イグレットも、祖母であり女王であるレイラも感知したでしょう。私の安否確認を任せていたグレイスの報告より先に私が現れてば、驚くのも当然です。


 驚き呆ける祖父を置き去りにし、私は地下国家に来た目的である祖母の元へと向かいます。

 それなりに歳を取っているのに、まだまだ綺麗な女王は残念ながら留守にしていました。


 であればもうベリアに確認することはありません。王が元気だったのです。女王も問題なく過ごしているでしょう。あぁ、とても安心しました。あまり深い関係を築けなかった血縁ですが、息災ぶりにホッと胸を撫で下ろします。


 またテレポートしました。

 心の底から懐かしい気配を感じ取りました。ラズリの兵士に襲われ、多くの怪我人が治療を進めるセルタに帰ってきたのです。


 降り立ったのは私が身を投げた川の近く。少し離れたところに、生活区の入口を示す簡素な木の門が見えます。どうしてもその門を潜って町に行く気にはなれず、回り道をして自宅へと向かいます。


 以前は留守中も綺麗に保たれていた自宅も、町の状況のせいで蜘蛛の巣が少しだけ張っていました。玄関を潜り、部屋を一つずつ回っていきます。


 ラピスを招いた客間。栽培した野菜を調理した台所。アズリカのために寝室に作り替えた衣装部屋。冬に三人でハーバリウムを作ったリビング。

 胸が痛くなるほど懐かしく愛おしい思い出が次々と蘇ります。庭に出れば、鎌倉や雪だるまを作った銀世界も光景がまざまざと目に浮かびました。


 不意に背中から声が掛かりました。

 力強く、優しい声音はアンのもの。振り向いて笑いかけます。


「アンさん、お久しぶりです」


 一児の母でもあるアンは突然の帰宅の理由と、姿が見えない少年と青年について問いかけました。私は多くは語らずただ一言、「忘れ物を取りに来たのです」と告げます。

 あぁ、怖い。この短い一人旅の中で一番の恐怖を私は感じています。足が震え、笑顔は消えそうになる。それでも私は自慢の根性で表情を保ちました。


 どうやら森に木の実を取りに行っていたらしい彼女は、これから夕飯の支度だ何だと忙しいようで短い会話の後に町へと降りていきました。彼女の息子にも会いたいですが、邪魔をするといけないので諦めます。一児の母が慌ただしいのはいつもの事なので、日常が少しずつ戻っているのでしょう。


 そっと息を吐いて、思い出が詰まった家と畑を黒い大穴で跡形もなく吸い込みます。このために私はセルタに来たのです。


 寂しくなった更地にはもう目を向けず、進む方角は森がある方。両親の墓前です。

 父の墓の前で膝をつき、腰に差していた刀をそっと供えます。これが墓前に来た目的。


 時間はもうありません。両親との別れを惜しみつつ、もう一度、おそらく最後になるであろうテレポートを実行します。


 魔境谷のダンジョン。全ての階層をすっ飛ばして、降り立つのは神がいる最下層です。

 さぁ、これが最後の目的。今までのは……そう、身辺整理とよく似た何か。


 神の討伐は私が一人で行います。眷属との戦いであれほど消耗した彼らが、絶対的存在である神を討伐できるはずがありません。ならば私が一人で挑み、勝つまで戦い続ければ良い話。この命、どんな状況になろうと散らす気は全くなく、どんな手を使ってでも神を打ち倒す。


 あぁ。胸が痛む。ひどくズキズキと痛い。どうして、どうして。

 馬鹿な私。そんなこととっくに分かりきっているじゃありませんか。


 神が定めた掟を破り、死に戻ったこの体。この魂。秒を重ねる毎に増え続ける『亜種属性』は、この身に神性が溢れている何よりの証拠。世界を盤面として見下ろせるのだって、好きなところに一瞬で跳べるのだって、この身はもう人ではないから。

 神性が溢れる人ではない存在に名前をつけるなら、それは『神』でしょう。


 世界のシステムから外れることでようやく至ることができた、絶対神と同じステージ。


 あぁ、胸が痛い。

 このステージに立った瞬間、私は『神』という存在と世界の在り方の全てを知りました。


 唯一の神に必要なのは絶対的な存在感と信仰。人の子として生まれた『リーシェ』という少女の記憶は、どこにも必要ありません。だってそうでしょう?

 神が元は万人と同じ存在だったなんて事実はゴミ以外の何物でもないのですから。超常の存在だからこそ、人々は祈り信仰するのですから。


 だから私はもうすぐ世界から忘れ去られる。『リーシェ』という名前の少女が歩んだ軌跡は、システムによって抹消される。システムは私に干渉できない。だけれど記憶を消す者は全員システムの管理下にある。


 実際、さっきまでの短い旅で既に私を覚えていない人がいました。

 何事も無かったように飛び去った獣の王。彼はあの瞬間すでに私の記憶を消されていたでしょう。

 元気に遊んでいた栗色の髪の少女。私に気づかなかったのではなく、私を知らなかったから気にも止めなかったのです。頑固な鍛治職人だって同じ。

 野菜を世話していた人が首を傾げたのだって、私という王族に心当たりがないから。あれほどの影響を及ぼした私のことを記憶ごと抜き取られているから。


 あぁ、胸が痛い。あぁ、怖い。

 ついさっきまで覚えていた人も今では忘れているかもしれない。悲しい。寂しい。怖い。辛い。


 だから私は一人を選びました。もうこれ以上誰にも会わなければ、悲劇を目の当たりにすることも無いから。


 ダンジョンの最下層のくせに、どこまでも高い天井に向かって私は叫びました。


「出てきなさい、唯一の絶対神!」


 空気が歪みます。大気が震え、虚空が唸ります。大層な演出をさせて、世界の支配者は顕現しました。


 気まぐれに紫色に染まる長い黒髪。しなやかな手足と、程よく筋肉が乗った体。それを覆うのは風をはらむ羽織ではなく、黒紫の鱗。男らしい大きな口が弧を描きました。


「やっと来た」


 そう。あの者こそが、何万年も世界を影から支配し続けた絶対の存在。

 獣の王と酷似している、古の竜の子そのもの。

 そして、獣の王を生み出した者。


 ようやく天高くに姿を見せた神と対峙します。

 一対一の神同士の戦いは静かに、しかし大地を揺るがす一撃と共に幕を開けました。


 ☆*☆*☆*


 あぁ、胸が痛い。

 怖いよ。だけど、私はもう後には引けない。だけど、消えたくもない。


 どうしよう。あなたに忘れられてしまったら。あなたから私が消されてしまったら。


 その金の瞳に私が映らなくなったら。

 その緑の髪が隣から離れてしまったら。


 やめて。やめてやめてやめて。

 お願いします。かみさま、誰でもないかみさま。どうか彼らからだけは、私を消さないで。


 忘れないで。忘れないで。私を見失わないで。


 この弱音を私はもう二度と口には出さない。迷いは弱さになる。弱さは敗北になる。敗北はあなたたちの本来の計画を始動させてしまう。あなたたちはあの神に殺されてしまう。


 まもりたいの。しんでほしくないの。ただそれだけの、けれどとても大きいな願いなの。


 だから胸の痛みもこれで最後。

 これは誰にも告げない、誰にも気づかせない、小さな小さな私のひとりごと。



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