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行ってきます

 記憶にあるスティは中年女性だったり死神の姿をしていたが、美少女であった記憶はリーシェにはなかった。


 しかし、忘れるはずもない彼女特有の意地悪げな笑みを見て本能的に確信する。

 信じられない気持ちで小さく呼んだ名前に、リーシェの心の奥が戦慄いた。


 あの日々の記憶が脳裏に鮮明に蘇る。避けられない拳。鈍い痛みと治らない生傷。投げ飛ばされる恐怖と、何度も覚悟した終わり。

 スティと呼んだ少女が白い手を振り上げる。


 叩かれる、と目を閉じた直後甘い香りに優しく包まれた。

 抱きしめられたのだと遅れて理解して、リーシェは目を白黒させた。


「え?スティさん、ですよね?」


 もしや人違いだったかと狼狽していると顔を至近距離から覗き込まれた。木漏れ日のような瞳が視界いっぱいに広がって、身を硬くさせる。


『間違えてない。私は正真正銘、あんたが知ってるスティさ』


「何を、しているんですか……?」


『うっさいね。親が子の顔見て何が悪いのさ』


 リーシェが抱擁から解放されたのは体感三分ほど後のことだった。そっと離れていく温もりを少しだけ寂しく感じながら、リーシェは怒られないようにスティの顔色を窺う。


 臆病な猫のようになっている赤髪の少女の様子にスティは苦笑した。


『取って食ったりしないから安心していい。私はもう、あんたに害を加えることはしないしする意味もないからね』


 ゆっくりと床に腰を下ろしたスティはポンポンと自分の横を叩いた。どうやら隣に座れということらしい。

 おずおずと相席する。差程長くない沈黙はスティが最初に終わらせた。


『すまなかったね』


 驚いて横を見る。申し訳なさそうな顔をしたスティの横顔を目にして、リーシェは愕然とした。何について謝っているのかは分かる。しかし、まさかここまで来て本人から謝罪されるとは思っていなかった。

 そんな言葉じゃ足りないほど辛い目に遭わされた。リーシェという人物が歩むはずだった道から、大きく外されたと言っても過言ではない。スティがあんなことをしなければ、リーシェの人格がここまで複雑になることはなかっただろう。もしかしたら今も、あの家でスティと暮らしていたかもしれない。


 納得できないはずの謝罪は、不思議なほど自然と胸にストンと落ちて収まった。


『言い訳は腐るほど思い浮かぶけど、そんなの理由にしちゃいけないことをあんたにした』


「……まさか死んでから、そんなことを言われるとは思いませんでした」


 思わず零れた笑みにスティも柔らかく笑い返す。

 初めて見るはずなのにどこか懐かしい。そんな微笑にリーシェの心が僅かに温かくなった。


「スティさんは私を守ろうとしていたと聞きました」


『あぁ。方法は不器用すぎたけどね』


「フフ。不器用にも程がありますよ。私じゃなければとっくに死んでましたからね」


『本当にすまなかったね』


 生前では考えられなかった軽口を叩く。スティに怯えるだけだった自分も強くなったようだと実感した。


「……スティさん、あなたはなぜここに現れたのですか?」


『あんたに伝えたいことがあったんだ。ダンジョンでは言えなかったことがあってね』


 ダンジョン十五階層でスティに言われた重要なことは、『伝説の存在』と神の関係性だ。

 世界の調律者として強大な力を授けられて生まれる『伝説の存在』は、誕生時に世界の現象を全て反転させる。

 太陽は夜に昇り、月は青空に大きく浮かび上がる。全ての事象は正反対になり、大きすぎる影響は言い伝えとなって語り継がれてきた。


 曰く、『太陽が夜空に輝き、月が青空を照らすとき、神の申し子が世界のどこかに降り立つだろう』と。


 事象が反転するのはほんの一瞬という話だが、それでも影響は絶大だ。耄碌した神が再び調律者を生み出し、反転現象を起こす前に討伐する必要がある。


 スティとダンジョンで話した内容を脳内で反芻したリーシェは、言葉の続きを目線で促した。

 一呼吸おいてスティは虚空を見つめて話し始める。


『『伝説の存在』は世界を調律する存在。それは前に言った通りさ。あたしが伝え損ねたのは、絶対神が反転現象を起こしてまで『伝説の存在』を作り出す理由と目的だよ』


「理由と目的……。調律は本来の目的の隠れ蓑ですか?」


 漠然とした予想にスティは肯定を示した。


『そうさ。絶対神が『伝説の存在』に求めているもの。それは自身の後継だ』


「なっ……!?つまり、私とラピスとシュウナは絶対神の後釜となる可能性がある存在として生み出されたということですか?」


『正確には三人のうち一人だけが神になるんだろう。『伝説の存在』に神性があるのだって、最終的に最も神に近づいた者が絶対神の後継者になるのさ。今世の『伝説の存在』がどうして二人に分かれたのかは知らないがね』


 とても重大過ぎることを聞いた。よりによって今、命を落とした後に。

 口を開閉することしたできなくなったリーシェの額を、スティが笑いながらつつく。軽い衝撃で我に返った。


「なんでもっと早く教えてくれないんですかっ!」


『どう考えたって言える雰囲気じゃなかったよ。反転現象云々を言ったら、あんたが目の色変えて殺しに来たんだからね』


 半分はあんたの責任さ、と言われて言葉に詰まる。スティは基本的に理不尽だが正論を言う時もある。こういう時は大抵リーシェも素直に白旗を上げるのだ。


 とんでもないことを知ったがどうせリーシェは死んでいる。神を討伐すれば絶対神の思惑も外れて神がいない世界ができあがるだろう。

 強い人々がたくさんいるのだからきっと大丈夫だ。

 そう言い聞かせてリーシェはついぞ気になっていたことを聞いた。


「キージスは普通の眷属と何が違うのですか?」


『あぁ〜、あいつねぇ。キージスは云わば実験台さ』


 ロクなことがなさそうな単語に少女の眉間に皺がよる。


『私たち正規の眷属を間違いなく造るための試行錯誤の過程で生み出された、何者でもない眷属。それがキージスだ。無意識に生まれ出たフェンリルとは、少しだけ構造が異なる』


「そう聞くと、少しだけ可哀想ですね」


『そうかい〜?あんたは相変わらずお人好しだね』


 なんの目的もなく生まれた青髪の眷属に、本当に微々たる同情を抱く。

 あれほど激しく憎んでいた男にも憐憫の感情を向ける少女に、スティは呆れたように顔を歪めた。

 一頻り呆れた後、彼女は真剣な顔でリーシェを見つめる。横顔に突き刺さる物言いたげな視線に首を傾げた。


「あの、何か?」


『あんた、本当にこのままでいるつもりかい?』


 死人に何を言っているのだろう。四の五の言ったところで、命は一つだけなのだからどうにもできない。リーシェはここでおしまい。ここが人生の幕引きだったのだ。

 そう伝えようとした言葉は告げる前にスティが遮る。


『あんたは死にたかったのか?』


 なぜだろう。どこかで聞いた気がする問いだ。確か前回が「平穏に生きたかった」と答えた気がする。


「……はい。奪った命への罪悪感に押し潰されそうになって、私は死にたいと思いました。正しいと信じてたことは、決して正しいだけではなかったんです」


 正義は正しく、悪は間違い。物事を単純に考え裁定したリーシェは死ぬ事で償おうとした。大切な者を守って死ねるなら、少しはこの命にも意味があったのだと思った。


 続けた言葉にスティは勢いよくリーシェの後頭部を叩いた。バシッという良い音が響く。


「あいた!?」


『カッコイイこと言ってるつもりだろうけど、あんたのそれは償いじゃない。ただ逃げているだけだ。命を掛け合って、相手の犠牲の上に掬いあげた人生をあんたは自分勝手なエゴで捨てたのさ』


「……私に殺されたスティさんがそれを言いますか」


『あんたに殺された私だからこそ言うんだ。リーシェ、私はあの時あんたに生きて欲しくて潔く死んだんだよ。あの時だけじゃない。神に造られた権能を変質させるほど強く、あんたを生かしたいと思った』


 痛む後頭部よりも重い衝撃が胸にのしかかった。


『あんたの少しの甘えが、私の命も無駄にした。これを踏まえてもう一度言うよ。リーシェは死にたかったのかい?』


 死にたかったか。分からない。だけど、リーシェはもう何も奪いたくなかった。リーシェはもう醜い自分を見たくなかった。たったそれだけのことだった。

 あぁ、結局自分のためだった。


 償いだなんて高尚なものじゃない。リーシェは逃げるために、リーシェを未来に繋いでくれた全ての者の努力を投げ捨ててしまったのだ。


「死にたいんじゃなくて、逃げたかった。あなたが言う通り、これはただの甘え。だけれど、その上で私は思います。私に平穏に生きる資格はないと」


 これだけは譲れないと口にした想いは、スティの鼻で笑う声が簡単に吹き飛ばした。


『生きることを誰が否定できる?平穏を望むことを一体誰が馬鹿にできる?資格なんていらない。生物は生まれた瞬間から平穏に生きる権利がある』


 膝を抱え込む少女の隣でスティが立ち上がる。手を引っ張られてリーシェも腰を上げた。


『あんたは奪ったことを気にしているみたいだね。醜い本性から目を逸らしたいみたいだね。だけど、そんなことを思い煩う必要はないんだ。奪うことが悪だというなら、生き物に善なる者は存在しないのさ。何かを傷つけることが醜いというのなら、生き物に尊い者は存在しないだろう。誰もが何かを奪っている。誰もが誰かを傷つけている。あんたは何も間違っちゃいないんだよ』


「!」


『リーシェ。あんたは胸を張って生きていいんだ。世界に善も悪も存在しない。ただ誰もがそこにいるだけだ。生きているだけだ。あんたも生きな。生きて生きて生きて生き抜いて……納得できない部分を時間をかけて認めていくんだ』


「……ですが!だけど私は……もう」


 たった一つの命は既に失われた。リーシェの命はもうどこにもないのだ。

 神が設けた絶対のルールに縛られるリーシェに、スティは穏やかな笑顔を向けた。陽だまりのような笑顔は母親の顔そのものだった。


『討伐する神のルールを守らなくたって良いじゃないか。だから、あたしの命を使いな』


「スティさんだってもう……」


『あんたがあの時殺したのは、アスモデウスの命さ。今リーシェと話しているのはアスモデウスが依代にした命だよ。こっちなら、まだ辛うじて生きている』


 知らされた内容と、思い至る方法にリーシェは激しく頭を振った。

 リーシェが使うということはスティが完全に死ぬということだ。辛うじて生きている依代になった少女を……リーシェを守ってくれた女性を殺すということ。


 あまりにも悲しすぎる方法に涙を溢れさせる。

 嗚咽を堪える少女をスティはもう一度抱き締めた。


『大丈夫。あんたは私を殺すんじゃない。未来へ繋ぐんだ』


「未来……」


『私の親友も逝った。もうこの世界にあんた以外の未練はない。それに、突然転生して眷属に憑依されてから今まで……生きるにも少し疲れた。あんたと一緒に未来を繋げられるなら、これほど嬉しいことはないよ』


 だからどうか生きて、とスティは言った。

 細い体をリーシェは抱き返す。甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、溢れ出る涙でスティの肩を湿らせた。


「スティさん……!!」


 まるであの日々のような嗚咽混じりの呼び声だ。しかしそこに負の感情は一切込められていない。

 深い安心感と愛情、そして感謝が滲み出ていた。


「守ってくれてありがとうございました……!怖かったですけど!痛かったですけど!強く、なりましたよ……!もしも来世があるなら、もう少し器用になって生まれてください!」


『ハハッ!余計なお世話さ!』


「スティさん。あんな生活でも懐かしいです。きっと私はあなたのこと大好きでした。大好きだったから仲良くなれなかったことが悲しかったんです。愛していたからあなたの元を離れられなかった」


『……あぁ。リーシェ。可愛い私の娘。私もあんたのこと愛していたよ』


「私、生きます。あなたが守ってくれたことを今度こそ無駄にしないように。あなたが繋いでくれたことに恥じないように。まっすぐ前を向いて生きていきます」


 暗い海が明るくなる。海だと思っていた場所は、あの懐かしい日々を過ごした家の傍を流れる小川の底だった。

 また、歩き出す。今度こそ強く、自分自身を信じて。


『リーシェ、行ってらっしゃい』


「行ってきます。……お母さん」


 スティの体が光になって消えていく。

 比例してリーシェの意識は水面へ浮上する。


 そしてリーシェは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。





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