黒染まれ
悪は許さない。そう言ってこちらに魔杖を向けてくるリーシェを、ベルゼバブは喉の奥で笑った。
あまりにも身勝手な人間だと嘲笑った。
なんて愚かな人間だと見下した。
どうしようもなく矛盾した人間だと哀れに思った。
一体どの口が言っているのか、あの正義感に満ちた顔を見て小首を傾げる。
ベルゼバブからすればむしろ彼女の方が絶対悪だ。都合の良い言い訳や状況を用意して正義という名の、偽りのヒーローを気取っている。
リーシェの過去をベルゼバブは知っている。眷属たちは皆、赤髪の少女を『候補』として監視していたのだから。
その人生の道のりのほとんどが、恐怖に塗り潰されてきたこと知っている。
大きな矛盾を抱えたアスモデウス……スティの心の葛藤の受け皿にされたことを知っている。
体の傷は癒えようと、心に深い傷を負っていることを知っている。
そして同時に、平穏を願いながら自らの意思で戦場に身を置いている矛盾を抱えていることを知っている。
あぁ笑えると、ベルゼバブは笑い声を高らかに上げた。
壊れたように肩を上下させる暴食の眷属に、リーシェは表情を険しくさせた。その視線は、何がおかしいのかと雄弁に語っている。
本当に馬鹿な娘だ。聞く必要などないのに聞こうとするその姿勢。自分から首を絞めに行くその愚行。そしてそれを繰り返す頭蓋。
全部が全部、全くもって馬鹿馬鹿しい。
言葉など交わさず、本性を曝け出してしまえばこんな戦いすぐに終わるだろう。
どんな眷属よりも。どんな敵よりも。どんな人間よりも、魔人よりも、戦人よりも、獣人よりも。
何よりも誰よりも、荒々しく残酷な獣性を秘めているのは、あの愚かな少女なのだから。
「何か、文句がありそうだね」
相手に隙があるのなら存分に利用する。戦闘における実力では、相手の方が上だから仕方がない。
『焔刻』のリングの中で言葉を促すベルゼバブの思惑に、愚直すぎるほどにリーシェは乗っかった。
「文句、というより苛立ちを覚えます。仲間を殺しておいて、なぜ笑っていられるのか私には理解ができません」
「おかしなことを言うのだな。ワタシはオマエの方がよっぽど歪で理解し難い存在だと思うけど」
こう言えばこの少女は必ず問い返す。リーシェは自分自身のことを未だに理解しきれていない。だからこそ、知ることに対して意欲を見せる。それが赤髪の娘の習性だ。
「どういうことですか?」
案の定返された質問に、飄々とベルゼバブは答えてやった。
「オマエだって、これまで何人も殺してきたはずだ。どんな理由があろうと殺しは殺し。どれだけ相手に罪があり、どれほどの事情があろうとたった一つの命を吹き消したのはオマエだ」
ベルゼバブの言葉にリーシェは唇を噛んだ。予想通りの反応に思わず笑みを深めてしまう。
「その命に対してオマエはどんな決意をしたんだっけっか。確か、"背負う"だった?ククッ、愚かしいにも程がある」
両手に装備した鉤爪の刃に炎の揺らめきを反射させながら、ベルゼバブは言葉を切ることなくリーシェの心を追い詰めていく。
「命を背負う資格などオマエにはない。どうして神が、"命は一つだけ"という絶対のルールを作ったか分かるかい?かけがえのないものだからさ。失ったらそこでお終い。背負うだとか、忘れないだとか、ちゃんちゃらおかしい話だよね。もう無い命を背負って罪滅ぼしになるとでも?」
「……!だけどあなたも!あなただって!」
「ワタシが何をしたって?ベルゼバブは虫の息だけど生きている。ワタシは誰も殺してない。それに、ワタシはオマエの敵なのに、ワタシが仲間を殺したという偽りの罪に救いを求めるの?」
「ち、違います!」
「何も違わないよ。そろそろ真っ直ぐ見たらどう?オマエの手と歩いてきた道を。正しいことなんて数える程しかないよ。間違いだらけの罪だらけ。オマエの都合で殺された人。オマエの無知で殺された眷属。あぁ、皆可哀想だね。"背負う"とか言った当の本人は、本当の意味で向き合いもせず馬鹿みたいに笑ってる。悪は一体誰?」
「……っ!」
「オマエだよ!オマエがアスモデウスを殺したんだ!ワタシ達を裏切り、神にすら反抗して、自分自身の存在意義すら捻じ曲げて、不器用なりにオマエを守ろうとしたスティを!オマエは随分と身勝手な理由と正義で、首を切り落とした!」
苦しそうに息を吐き、痛そうに頭を抑えて俯くリーシェにベルゼバブは少しずつ距離を詰めていく。
固く閉じた瞳の奥で何と対峙しているのか、間近できたリーシェは小さく震えていた。その耳元でベルゼバブは囁く。
「オマエがレリヤを殺したのだ。革命の正義に乗っ取って、見出す楽しさを間違えてしまっただけの少女を、無惨にも雷で焼き貫いた。別の方法はいくらでもあったよね。無力化して幽閉してしまえば良かったのに、オマエはその場の雰囲気でたった一つの命を奪った。可哀想なレリヤ。平和になっていく国を目にすれば、別の楽しみを見つけて、普通の少女として生きていたかもしれない。飢えと暴力の環境で育ったオマエが、平穏に生きることを望んだように」
ビクリと肩を揺らすリーシェに鉤爪を振りかざして、ベルゼバブは声高々に叫んだ。
「キージスを殺したのもオマエだ!あの出来損ないを殺すのは別にいいけど、その殺し方はあまりに残酷で、あまりに命を軽視した行為だった!あの時、オマエは心の底から楽しそうにキージスの体を解体していったね!首を切り心臓を刺し貫けば、弱っていたキージスは簡単に死んだ!それなのにオマエは、憎しみという感情を当然の正義だと言って!殺すことが当たり前の報復だと思って!痛めつけることが与えるべき罰だと掲げて!ワタシも思わず身震いするほどの殺し方で命を奪った!」
リーシェの心臓に向かって振り下ろした爪は、薄い障壁に阻まれる。本人の意思に関係なく自動で発動する『斬守』の絶対の防御壁だ。
激しい衝突音と火花を気に止めず、ベルゼバブは鉤爪に加える力を強くした。
鉤爪が淡い光を放つ。
暮れる日の光に似た橙色の輝きと同時に権能を発動させる。
「我が名は『貪食』のベルゼバブ!世界の真理へ命ず!唯一絶対神へと願う!我が爪を阻みしこの障壁を食らうことを許し給え!『我が牙 汝を喰らう』!!」
輝きが強くなり、火花が激しく散る。
そして、絶対の守りを有していた『斬守』の防御壁に罅が入った。
この壁を壊せば戦いは終わる。少女がいない敵陣など『セブンスロード』の敵ではない。
勝利を確信したベルゼバブの目の前が、次の瞬間真っ暗になった。ブツッと音を立てて回復した視界の先には、首のない胴体があった。
その胴体はベルゼバブと同じ骨格をしていた。同じ服を着て、同じポーズを取っていた。
その胴体は……ベルゼバブの物だった。
「なっ……!?な、なにが……?」
なぜ自分が自分の体を見上げているのか、ベルゼバブはすぐに理解できなかった。
唯一動く目で状況を確認する。真っ赤な瞳に映し出された視界には、先程までと様子が違う赤い髪の少女が斧を片手に立っていた。
「……首を落としても死なないのですね」
「……!?」
「だけど、動くこともできない様子。その状態から、胴体を動かすことは可能ですか?」
「何、言って……」
「あぁ、できないのですね。分かりました」
目の前で黒雷がベルゼバブの胴体を跡形もなく消し飛ばした。灰すら残さず消えた己の体にベルゼバブは歯を鳴らすことしかできない。
斧を稲光に分散させたリーシェは、恐ろしく凍えそうな瞳を首だけのベルゼバブに向けた。
「ヒッ……!」
「あなたとの戦いは終わりました。後は、そこで静かに戦いの終わりを待っていてください」
魔杖が一振されて周囲と隔絶させていた炎の輪が消失する。
状況が動くのをひたすら待っていたラピスたちが、無傷で立っているリーシェを見て安堵の笑みを浮かべ……首だけで生かされているベルゼバブを見て顔を青ざめさせた。
そんな面々に感情の窺えない仮面のような笑顔でリーシェは歩いていく。
「さぁ、時間がありません。次の部屋に行きましょう」
手も足もなく地面に転がされるベルゼバブにはもう目もくれず、虫の息で動けないゼバブにすら言葉をかけず、リーシェは真っ直ぐとレヴィアタンが消えた扉の方へ向かっていく。
まるで見世物のように、ラピスたちから視線を注がれた。その屈辱にベルゼバブは唇を噛み締める。睨むことしかできないなりに、精一杯の殺気をリーシェの背中に向けた。
その視線はルシャの剣に遮られる。
見上げた先で、青い髪の青年は同情に似た眼差しを生首に注いだ。
「……その状態は辛いだろう。せめて、楽にしてやる」
その言葉を最期に……ベルゼバブの意識は完全に刈り取られた。





