異空間へ
アネロが帰ってこない。ラーズにおつかいを頼まれてからもう二時間以上も経過している。市場は近くにありそこまで大きくないとのことなので、明らかな異常事態であった。
「アネロは自分の立場をよく分かってる。たまにお転婆で羽目を外す時はあるけど、買い物の後は必ずすぐに帰ってくる」
焦りを滲ませた顔で異常性を伝えるのはラーズだ。その横顔には冷や汗が流れていて、事の重大さを痛感させられた。
アネロに何かあれば姉であるアルロが黙っていない。神討伐に獣人族の力は必須だ。アルロの気を損ねるということは、リーシェの目的が一歩遠ざかるのに他ならない。
「市場に聞き込みに行きましょう」
椅子から立ち上がったリーシェの腕をラピスが掴む。振り向いた先には険しい表情の少年がいた。
「その必要はなさそうだ」
「どういうことですか?」
リーシェが問うのと家の扉がノックされるのはほぼ同時だった。このタイミングでの来客。警戒するに越したことはない。
腕を掴まれたまま動けないリーシェの代わりに、アズリカが慎重に扉を開ける。
そこには黒いマントを来た褐色の少女がいた。
「お前は……!」
「シノブ。何の用です?」
ラピスの制止を強引に振りほどいてアズリカを背中に庇う。眦を釣り上げたリーシェの気迫にもシノブは平然としていた。
「あなたへ伝言を伝えに来た。"神討伐計画の果実は奪いました。助けたければ『メヴィディア』の洞窟に来なさい"とキージスからの言伝です」
「またあの男ですか。……良いでしょう、今度こそ息の根を止めてあげます」
前回は殺し損ねてしまったが今回はあちらからのお誘いだ。何らかの罠だろうが関係ない。罠ごと叩き潰せば良い。
シノブは伝えるだけ伝えるとモヤになって消えてしまった。どうやら影武者だったらしい。本体はキージスたちと共にいるのだろう。
それにしても本当に面倒な男だ。厄介事しか起こさない。
リーシェは溜息を吐くとラーズの家から出た。
後を追ってくるラピスとアズリカと一緒にラーズもついてくる。
大切な人を奪われたのだ。じっとしていられないのも当然だ。
「ここから『メヴィディア』は遠い。どうやって行くつもりぃ?」
「異空間を利用します。市場にいたアネロを『メヴィディア』まで連れ去ったということは、敵もまた異空間を使ったということ。痕跡くらい残っているでしょう」
「できるの?」
「やるしかありません。いざとなれば、私の神格部分を拡張させます」
地下都市の出口に向かいながらリーシェは早口で説明していく。本当に最後の手段である神格の拡張とは、言葉の通りだ。今のリーシェの半分を形成している神の部分を拡張させ、より明確に気配を感じ取ることを可能にさせる。
そうなれば、半神半人となっているリーシェは七割ほど神になるだろう。人間の部分がなくなってしまえばどんな影響があるか分からない。だからこれは、本当に最後の手段だ。だが、必要になれば惜しみなく実行するつもりでいる。
地下都市を出て雨に当たりながら地上の都市を出る。アズリカとラーズのじゃれ合いの後が残る平野を、しばらく進んでからリーシェたちは立ち止まった。
「少し離れていてください」
数歩後方に下がるラピスたち。それを確認すると、リーシェは全ての亜種属性を解放させる。
『結刻』の光が大地を癒し花を芽吹かせる。
『斬守』の斬波が芽吹いた花を切り刻み宙へと巻き上げる。縦横無尽の斬波から守りの盾が少年たちを守る。
『神威』がリーシェの赤髪を揺らし、少女の足元から風を吹き上げる。
リーシェの翡翠の瞳が僅かに炎の色を宿した。
指先まで真っ直ぐ伸ばされた氷の右手が、虚空を力強く握る。
「フッ……!」
短い気合いと共にリーシェは握った虚空を勢いよく引き寄せた。
ゴムのように空気が伸びる。やがて負荷に耐えきれなくなり、弾けるようにして空間が破れた。
何かを叩いたような甲高い音と共に、空間の向こう側に別の空間が見えるようになった。
数日前に入ったばかりの異空間だ。空間の裂け目から向こう側へ足を踏み入れる。
ここに来るのは二度目のラピスとアズリカだが、果てしない真白の世界に居心地悪そうにしている。
空間自体の存在を知るのも初めてのラーズは、琥珀色の目をキラキラとさせていた。
「痕跡はあるか?」
ラピスが問う。
数秒周囲を探っていたリーシェは、微笑を浮かべて肯定した。
「はい。はっきりとアネロとキージスの気配が残っていますね。まだそう時間は経ってないので、今のままでも明確に感じ取れます」
神格部分を拡張させる必要はなさそうである。
引き出した亜種属性を身の内に収めてから、リーシェは気配の続く方へ走り出した。
痕跡が途絶えるのは遅くなかった。あちらの空間と異空間は時間の流れが違う。
アネロが買い物に出てから二時間。家を出た直後に連れ去られたとしても、異空間で移動できる距離はそう長くない。数分走っただけで痕跡は消えて、ついでに分かりやすい目印があった。
「シノブ。それにフェンリルも。二人揃って出迎えるなんて、随分歓迎してくれるんですね」
開いたままの空間の穴の両脇に、褐色の人物が二人立っている。容姿は似ているが背丈がだいぶ違う二人にリーシェは挑戦的に笑った。
「早かったな。もう少し遅れてくると思っていたが、どうやら違ったようだ」
人型のままのフェンリルが言った。隣ではシノブが無言で暗器の手入れをしている。
「そこを通して貰えますか?」
「どうしてだ?」
「私はその先に用があるのです。あなた方に構っている時間はありません」
フェンリルと睨み合っていると不意にシノブが口を開く。
「……変わられたな」
鈴を思い起こさせる涼し気な声に少女は首を傾げた。
「ラズリで見た時、あなたはどちらかと言うと受け身だったのに、今は好戦的になられた」
「そうならざるを得ない状況を作ったのは、あなたたち神の眷属でしょう?それに、私は元々の受け身ではありませんよ。最初から私は私です」
人格が交代しようとリーシェはリーシェだ。別人というわけではなく、どちらも本物のリーシェだ。
変わったと言うなら、それは戦いに対する心持ちのことだろう。何のために戦うのか。何を守りたいのか。心がはっきりした今、戦うことに迷いはない。その姿勢が、好戦的だとシノブの目には写ったのだ。
「そうか。……少し羨ましいと思ってしまった。私はただの小娘であったのだから」
意味深なことを言ってからシノブが暗器を構える。フェンリルも真剣な顔で拳を構えた。
魔杖を形成しようとしたリーシェの前にラピスとアズリカが進み出る。
「先に行け、リーシェ」
「ラピス、ですが……」
「コイツらの相手は俺たちに任せろ。お前はあの男を倒して、アネロを助けてやれ」
「アズリカまで……」
二人のことは信じている。だが相手は臨機応変に柔軟な動きをするシノブと、実力が未知数のフェンリルだ。最悪の状況は十分に考えられた。
「リーシェ、俺を信じろ。大丈夫だ、必ず生きてリーシェに会いに行くから」
「そうだぞリーシェ。俺はラーズとの修行で強くなったんだ。その力、ここで試させてくれよ」
「赤毛の子、大丈夫だと思うよぉ。オレらは先に進もう」
「……分かりました。ラピス、アズリカ。あなたたちには『斬守』の盾が張ってありますが、私と離れるので効果が弱まってしまいます。守りを過信しないようにしてください」
「あぁ、ありがとな。両親の仇、ここで取ってこい」
「はい。ご武運を!」
不安ばかり残るが、リーシェはラーズを連れて異空間を飛び出る。雨も霧もない湿った空気に肌が触れ、薄暗い洞窟に出た。
警戒するリーシェの耳にあの声が聞こえる。
「お待ちしていましたよ、リーシェさん」
暗がりから進み出てきたのはキージス。その手には縄が握られていて、縛られたアネロが引き摺られていた。膝や腕に酷い擦り傷ができ、気を失っている。
「てめぇ……覚悟はできてんだろうなぁ?」
アネロを傷つけられたラーズが、鎌を虚空から出現させる。
キージスとの決着の時が近づいていた。





