第十三話 私を忘れないでください
死にたくないと傷が熱を持つ。
死にたくないと体が震える。
死にたくないと唇が戦慄いて、生きたいと言葉を紡いだ。
たった一つの感情に支配される頭はろくな思考力もなく、冷気が染み込んだように働かない脳はずっと昔の記憶を無意味にフラッシュバックさせた。
それは、リーシェにとって覚えのない光景。しかし、絶対にあったことだとなぜか確信できる悲しい光景。
声が、表情が、感情が。断片的に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。
『西の大陸の王都で王子が生まれたそうよ。この子と同じ日に』
泣きたくなるほど懐かしい女性の声に覚えはない。でも狂おしいほど乞い焦がれていた福音の調べだった。
『やはり、伝説は娘だけではなかったか。道理で力が偏り過ぎだと思ったのだ』
心にスッと落ちてくる男性の声にも覚えはない。それでもやはり、どこかでずっと思い望んでいた優しい声だった。
『もし、この子が王子に見つかってしまえば能力を奪取するために殺されてしまうかも』
『「知の力」を持つのだ。いずれ、この谷にもやって来るだろう』
『この子が何もかも忘れてしまえば、逃げ延びられるかしら?』
『難しい。だが、不可能ではないはずだ。能力のことも……我々のことも忘れれば、もうこの子には何も残らない』
『何も残らなければ、王子に見つかっても無知を演じることができる』
『……我々は、忘れられてしまうのか……』
『仕方ないわ。愛する娘のためだもの。この子には、宿命なんて忘れて……いいえ。宿命なんてものがあっても、末長く生きて欲しいわ』
『あぁ。愛するリーシェ。どうか、強く生きてくれ』
『あぁ。愛するリーシェ。どうか、幸福に生きてちょうだい』
フラッシュバックしていた記憶はそこでプツリと途切れる。
ひどく長い夢の名残のような感覚が、指一本動かせないリーシェを包んだ。
赤毛の女性と緑目の男性の顔をぼんやりと思い出した瞬間、「生きたい」しか紡げなかった口が初めて別の動きをした。
「おかあさん……おとうさん……。お願い……捨てないで……私を、置いていかないで……」
四歳のころ、ビーグリッド近くの獣道に捨てられたとき。遠ざかっていく両親の背中に、必死に小さい手を伸ばしたとき。その間にも、両親の記憶を失くしている途中だったとき。
リーシェはずっと泣いて、泣いて、泣き続けて、全てを忘却した。
どうしてと子供ながらに疑問を抱いて。
どうしてと子供ながらに怒りを抱いて。
どうしてと子供ながらに悲しみを抱いて。
それらを含めた何もかもを忘れてしまう直前まで少女は叫び続けた。
「一人にしないで」
と。
結局、全部忘れて。
拾われた先で虐待されて。死ぬことすら安眠の場所だと考えて川に飛び込んで。幸運に助けられて優しい人々に出会って。王子と巡り会って殺されそうになって。リーシェを愛していながら、リーシェを捨てる苦渋の決断をした両親の選択に助けられた。
覚えていたら、確実に殺されていた。
そうだ。あぁ、思い出してしまった。
(私は伝説の少女。「知の力」と対照であり、同質である「技の力」を授かって生まれた)
思い出した。生まれたとき、星空に太陽が浮かんでいた。青空に月が昇っていた。
『太陽が夜空に輝き、月が青空を照らすとき。神の申し子が世界のどこかに降り立つだろう』。
短いたった一節の伝説。
その現象が起きた一日間。新たな命は伝説の子供以外に生まれない。
リーシェとラピス。この二人の誕生をもって、伝説は証明された。
本来、「知の力」と「技の力」はたった一人にしか宿らない。
だけど、力は二つに分断されてそれぞれ少女と少年のもとへ宿った。
伝説はまだ不完全だ。
どちらかがどちらかに殺されて、能力を譲らない限り神の申し子は生まれない。
(それでも……私は生きます)
意識ははっきりしている。
生きる、と。この願いさえあれば。想いさえあれば、少女はいくらでも立てるのだから。
動かなかった体に熱が灯る。
動く。思考が動く。手足が動く。ならば立ち上がろう。セルタへ帰ろう。リーシェの居場所はあの町だけだ。
「生きたい」という代わりになる呪文を唇は刻んだ。
「赤く 紅く 朱く 燃ゆれ
古よりこの身に焼き付いた 精霊の焔よ」
体から溢れ出す紅蓮の炎。
少女が邪魔だと思うものだけを焼き、焦がし、消す神秘の炎。
それがゴウゴウと奏でられる言葉は……。
「焔刻」
封じられていた記憶を解放し、伝説の証明をした少女は、氷の楔を壊していく。
その行動が全て、手のひらで踊らされているのだとも知らずに。





