贋作と醜い人間
憤怒。憎悪。自己防衛。
そういった感情が著しく失ったのは確か六歳の時だった気がする。
暗闇の中に浮かび上がる幼い日の日常は、どれも昏く澱んでいた。
棒のように細い小さな体に刻みつけられる痛みと恐怖。
感情の成長を大きく妨げる過酷な暮らし。弱い心の悲鳴を忘れるために幼いリーシェは心を閉ざすようになった。
息を潜めて、いつでも笑っていよう。恐怖しかない前だけを向いて異常な日々を日常にしよう。殴られても殴り返すな。暴言を吐かれても笑い続けろ。丁寧な言葉遣いを心がけ、未熟な心を壁で覆え。
そうしているうちに正常な感覚や感情は確実に失われていった。
体も心も総じて痛覚は鈍く、状況によった正しい感情の操作ができなくなった。
だけど、四歳までの感覚を頼りに漠然とした想像はできた。あの状況ならこの感情を抱くだろう、というマニュアルに沿ってリーシェは喜怒哀楽を表した。
まるで感情を持っているようで持っていない機械人形のように生き続けた。
凪のようだった心に転機が訪れたのは十三歳の頃。
ちょうど、思春期と呼ばれる時期に差し掛かった時だ。
いつものように殴られながら過酷な働きをしていると、慣れない感情が静かだった心を荒らした。
それは『怒り』と『憎しみ』だった。
四歳まで平穏な日々を過ごしていたせいで、心の奥底では状況の異常さをひしひしと感じ取っていたのだ。
だから、日常と思おうにも思い切れなかった部分が心に波を立てた。
なぜ自分はこんな目に遇わなければならない。
理不尽に暴力を奮ってくる義親の笑顔が腹立たしい。
見て見ぬふりをする村の住民が苛立たしい。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
ダメだ。こんなんじゃダメだ。
溢れ出す感情で割れた仮面を付け直す。笑っている表情を崩さない仮面は、泣いているかのように罅が入っているように見えた。
リーシェはより一層、感情の抑制を徹底させた。
やがて心は元の落ち着きを取り戻したが、砕けそうになった心は治らなかった。
そして十四歳。
ついに氷のように張っていた強かで薄い心が割れた。
窓から投げられる何気ない仕打ち。それがなぜだか酷く悲しく思えて、圧倒的な虚無感がリーシェを満たした。
訳もわからず溢れてくる涙を拭こうにも、服はボロボロでまったく水分を吸い取ってくれない。
いつものように傷を治療しているだけなのに、それはなぜだか酷く無意味に思えた。
なぜ生きているのか分からない。
どうして死んでいないのか分からない。
心がある理由が思いつかない。
感情なんていらないのに。涙なんて不要なのに。
リーシェは心を持った『人間』だから、苦痛を感じてしまう。感情を抑えきれなくなってしまう。
もう生きたくないと体が泣くのに、まだ死にたくないと心が泣くのだ。
だからリーシェは川へ身を任せることにした。
川はいつだってリーシェを助けてくれた。
荒れそうになった心を落ち着けてくれたこともある。晴れた部分を冷やしてくれたり、血で汚れた体を綺麗にしてくれたこともある。
自然は信頼出来る。
自然は何も喋らない。何も語らない。ただあるがままにリーシェを受け入れてくれる。
結果、リーシェは生き残った。
何だか不思議な夢を見ていたような気がする。その夢が、割れた心を普通を演じることが出来る程度に治してくれた気がする。
そう……。演じる程度には治った。
『じゃあ、本当の心は?』
忘れた記憶をすべて掘り起こされたリーシェの目の前に幼い少女が現れた。
薄汚れたボサボサの赤髪。生気が感じられないのになぜか生きていることを雄弁に語る翡翠の目。血と泥に汚れた顔は極端に痩せている。
六歳頃のリーシェが無表情で立っていた。
『マニュアル道理に生きてきた。普通にできる程度には心も回復した。じゃあ、本当にあなたはどこにいるの?』
幼い子供が言うには違和感のある問いかけにリーシェは漠然と考える。
答えは最初から決まっていた。
「分かりません」
そう、分からない。
リーシェ自身が抱く感情をリーシェは知らない。
もしかしたらこれまで抱いてきたリーシェの怒りは、すべて偽物なのかもしれない。
大切な親を殺されたら誰だって悲しむもの。
殺した人に怒りを抱くもの。
悲しければ泣くでしょ?
悔しかったら立ち上がるでしょ?
悪は許されないこと。
善は褒められること。
暴力はしてはいけないもの。
泣いている人がいたら慰めるもの。
怒っている人がいたら理由を聞くもの。
感謝を告げられたら謙遜すれば好感が持てるもの。
友達が苦しんでいたら隣にいるべき。
全部、マニュアルだ。
「こうするべき」「そうあるはず」、そんな常識でリーシェは感情を無意識に操作する。
云わばすべて作り笑顔のようなもの。
マニュアル通りに喜怒哀楽を示すリーシェと。
抑え込んで忘れてしまった本当のリーシェ。
十五歳になったリーシェは間違いなく前者だ。であれば、隠した本当の自分がどんな感情を抱いているかなんて知るはずもない。知りたくもない。
『私はね』
無表情のリーシェに薄ら笑みを浮かべて幼いリーシェは言った。
『あなたが隠して忘れたあなたよ』
「……せっかく消したのに、戻ってきたの……」
リーシェの喉から冷えきった低い声が出る。常に穏やかだった顔からは表情が抜け落ち、まるで仇を見るように少女を睥睨する。
『ねぇ。教科書通りに笑って泣くのは大変でしょ?』
「そんなことない。これが私だから」
『本当にそう言える?心のズレは治しておいた方が良いよ』
「何も問題はなかった。あなたさえ現れなければ私はこれからもこのまま生きていく」
『ラピスはどうする?』
幼い自分の口から出た言葉に指がピクリと動く。
マニュアル道理にしていたのに意思の疎通ができなかったことを思い出して、知らないうちに顔が青ざめた。
『恋って不思議なの。教科書があるようでそんなものはどこにもない。言ってしまえば、本人たちが教科書。あなたは恋に落ちた。普通の感情がないあなたが恋に落ちた時、私思わず笑っちゃった。あなたに恋ができるの?マニュアルに載ってない事が、あなたに出来るわけないでしょ』
「うるさい……」
『そろそろ交代時だと思わない?教科書通りにしか生きられないあなたの出番は終わったの。皮肉にもあなたが終わらせた!』
「うるさい」
『見ていて恥ずかしくなってくる。マニュアルがないものは本当に何も出来ないんだもの。恥ずかしいと思わない?大切な人を傷つけて、それでもまだ自分は正しいと言い張れるの?』
「……やめて」
耳を塞いでも聞こえてくる本当の自分の声。
隠していたはずの自分はリーシェよりはるかに人間らしい。
人を少しだけ馬鹿にする様子も。人の悩みに笑ってしまうところも。
醜い人間の姿だ。だけどそれが人間だ。それが生き物だ。それが……私が歩むはずだった道で構成するはずだった人格だ。
普通に生きることができていたら。
両親と穏やかに過ごせていたら。
優しいけど少し意地悪な……普通の少女に育っていたのだろう。
過去は振り切った。義親との因縁も断ち切った。
なら、感情が分からない今のリーシェは用済みなのではないだろうか。
なぜなら、感情を抑制する必要がもうどこにもない。
リーシェの周囲は大きく変わった。
理不尽な暴力なんてない。過酷な労働もない。自由なのだ。
教科書はもう必要ないと……そう思ってしまった。
『疲れたね』
「……私はどうなりますか?」
『心配しないで。あなたと私は二人で一人。当たり前の人格や感情があなたに戻るだけ。ただ、教科書が無くなるだけ』
「……そうですか。ねぇ?」
『ん〜?』
暗闇が足を飲み込んでいく。
これまでの仮初の感情が走馬灯のように心を駆け巡る。
お手本のように生きてきた偽善者は、本来の自分へ戻る前に少しの救済を求めた。
「私……上手くできましたか?」
『頑張ったと思うよ。けど少し……出しゃばりすぎだったかな』
過去との因縁を消し去っても席を譲ることのなかったリーシェに、人間らしいリーシェは意地悪く言った。
十五歳の姿へ成長していく本当の自分は優しく頭を撫でた。
『お疲れ様。守ってくれてありがとう』





