ラピスの失われた記憶
ラピスは母親というものを知らなかった。
聞いた話だが、ラピスが助産師によって腹から取り上げられたのを確認するなり力尽きたそうだ。
元々、体力の少ない人だったらしい。出産の危険度は一般的な危険度より遥かに高かった。産んだら死ぬ可能性が高いだろうと、医師にも再三言われていたらしい。
体が弱い妃にようやくできた儚い命。
王族としてその命は絶対に誕生させなければならなかった。
父は母を愛していたと思う。
命日には必ず喪に伏しているのを見ればきっと深く愛していたのだろう。
物心ついた頃、ラピスは父に問うたことがある。
『なぜ自分に母はいないのか、と』。
その時は重い事情があることなんて知らなかった。しかし父からしてみれば何とも無神経な質問だったと思う。
父は愛する女の命を奪って産まれてきた息子に問い返した。
『なぜだと思う?』と。
たったそれだけの言葉なのにラピスは気圧されて何も答えることができなかった。
父の静かに怒る瞳が恐ろしくて。『知の力』で何となく悟ってしまった結論が恐ろしくて。
ラピスは母に関する記憶を全てを忘れることにした。
忘れるために勉学に励んだ。
そしていつしか本当に忘れていた。
暗闇の中をゆっくりと歩いていたラピスはふと我に返った。
目の前に幼き日の自分が立っていたからだ。
真ん丸の黄金を輝かせる幼い自分はさながら猫のようだった。
幼い少年は声変わりを迎える前の声でラピスに言葉を投げる。
『僕が生まれて母上は死んだ』
あぁそうだよ。ラピスが生まれたから母が死んだ。
ラピスは生まれてすぐに人殺しになったのだ。
『だけど生まれたのが僕じゃなくても、きっと母上は死んでいただろう』
幼い声が冷淡に告げる。
『母から生まれたのがたまたま僕だったってだけ。だから僕に、お前に何も罪はない』
確かにそうかもしれない。出産自体が危ういものだったなら、どんなに体の小さい胎児でも母はきっと命を落としただろう。
『父上だって最初から分かっていたはずだ。体が弱いということは、色々な問題があることを。だけど父は母を愛していたから諦めることが出来なかった』
そうだ。そして結局は跡継ぎのために母を捨てた。命を失うと言われていた出産を実行させ、母は死んだのだ。
それなのに父はラピスを憎んでいた。
『なぜだと思う?』
鮮明に思い出してしまったあの日の問いを幼い声が反芻する。
ラピスは迷いなく答えた。
「父上が母を捨てたからだろう」
自分でも驚くほど冷めた声だった。
幼い自分は暗闇の中に浮かび上がる光景を指差す。
そこには母か跡継ぎかを選択する父の姿があった。
『これは母の記憶。母はこの父の目を何よりも強く覚えていた』
まるで品定めするような目だった。
『理不尽で勝手な父上のせいで僕たちは無駄な苦しみを感じることになった。腹立たしいね。苛立たしいね。こんな大人、死んじゃえばいいのに……』
この言葉はどこかで聞き覚えがある。
かつて何度も考えて封じ込めたラピスの本音だ。
間違いなく昔のラピスの考え方であった言葉だが、今のラピスはそうは思わなかった。
「誰だって心には限界がある。父が母を殺す選択をしたことは父が一番よく分かっていると思う。その罪悪感と悲しみを自分だけで抱え込むことはできなかったんだろう」
『僕たちは悪くないのに父上は僕たちの罪の意識を植え付けた』
「そうじゃないんだ、小さい俺」
むくれる少年に歩み寄り膝を着く。同じ目線から真っ直ぐ視線を交した。
「誰も何も悪くない。確かに父上は君をたくさん傷つけた。だけど、父上の心はそうでもしないと王としての重積に耐えられなかっただろう。いつだって隙のない父は弱い姿を俺にだけ見せてくれた」
『だから?』
「傷つけたくて傷つけたわけじゃない。母を失った悲しみを一緒に感じて欲しかっただけなんだ。だって俺たちは家族だろう?」
『苦しかったでしょ』
「あぁ」
『辛かったでしょ。怖かったでしょ』
「そうだな。たくさん泣いた気がする」
『それでも父上を憎まないの?』
「憎んでどうするんだ。そんな必要どこにもない」
『僕を捨てていくの?』
趣旨の変わった質問にラピスは軽く目を見開く。
かつての自分を否定することは、幼いながらも苦悩したこの少年を捨てることだと直感する。
しばらく考えてからラピスは大きくなった手のひらで幼い自分の頭を撫でた。
「捨てたりしいない。お前がいたから、俺はこうやって前を向けているんだ」
『……母上が僕を産んだ瞬間こう言ってたよ』
小さな手がラピスの肩を掴んで耳元に口を寄せる。
小声で告げられた言葉にラピスは少しだけ目尻を赤くさせる。
『じゃあね』
「あぁ。じゃあな」
幼い自分がモヤになって消えていく。
ラピスは最後に教えてもらった言葉を小さな声で噛み締めるように呟いた。
「"愛しているわ。生きて"か……。できることならあなたに生きていて欲しかったよ、母上……」





