6-1
「殴れるって、じゃあソラの勝ちみたいなもんじゃん」
「いや、そもそもこっちが相手を殴れるってことは、向こうも俺らを殴れるってことだからな? 勝木田の遺体を見ただろ。悪魔は一撃でとどめを刺してくれねぇぞ。こっちは素手だしな。悪霊らしく呪い殺してくれんだったら、案外無用な争いは避けられたのかもしれねぇ」
「なぁソラ、俺思ったんだけど。俺って霊感ないんだ。でも、この船に乗ってから見えたり襲われたりしてんだよな」
「たぶん、幽霊船だからなんだろうな」
「俺らの霊感とかそういうものに左右されずに、幽霊や悪魔が出現してんだろ? じゃあその出現する元を断てばいいんじゃないかなって」
ソラは思案気に腕を組む。
「つまり? 船が霊を具現化してるってのか?」
「かも? 霊能者じゃないから分かんないけど。この船を壊すってのは、一つの手じゃないか? いっそ沈めるとか」
「正気か? まあ、それなら悪魔も出てこられないかもしれねぇけど。化けて出る場所がなかったら幽霊もクソもないわな」
イレブンは頭をかく。案を出したものの、具体性はなかった。この規模の船を沈めるなんて、爆弾でもないとできないんじゃないだろうか。
――待てよ。だから斧が。
「消防斧がいる。操舵室か機関室に入って、船をぶっ壊すのに必要だ。もしかして、犯人が斧を持ち去った理由って、船を壊されたくなかったからじゃないのか?」
「イレブン冴えてんじゃん。俺らに入られたくない場所があるんだな」
「女社長が真っ先に開けようとしてた操舵室だけど、どうにか開けられないかな」
「斧を奪うか。どうせ悪魔を殺すか、船を沈めるかだったら、いつかは斧の持ち主と戦わなきゃならねぇ。持ってる人間の見当はついてんだろ?」
「ああ、おそらく消炭先生だ。女社長も、六車もソラのいない間にやられたんだ。まさか、先生から奪うことになるなんて」
イレブンは肩を落とす。あの華奢な先生から斧を奪おうとしたら、先生に怪我をさせてしまう。
「そうか。女社長と六車もか。俺のいない間に――」
「でも、ソラが無事でいてくれてよかったよ」
「素直に喜べねぇな。天敵の女社長もいなくなると、寂しくなるもんだ」
「……だよな」
二人は八階に上がった。上から下にしらみつぶしに探す。
まず各スイートルーム。イレブンの自室は異常なし。ソラは部屋を使用していないので、部屋は最後にイレブンが施錠したままだ。
「そういや、この船のチケットは、消炭先生からもらったんだよ。先生、誰かを誘うように言っておきながら、自分も行きたがってた」
「お前の先生が、女社長組と六車組にもチケットを配ってた可能性もあるのか?」
「澪のライブのチケットが嘘臭いから、そうかもしれない」
女社長と澪の部屋に入る。散らかったままだったので、今にも持ち主が帰ってきそうだ。使えそうなものを探したが、特にない。ソラが武器になりそうなものは水筒、口紅だと指摘する。
「水筒は肩紐がついてるとありがたいんだがな。振り回せるし。なけりゃ投げてもいい」
「じゃあ口紅は?」
「こう突き出して突く。首とか狙うと効果的だな。口紅って細いから案外、いてーのよ。昔、貴子にやられてよ。おまけに安物じゃなくて、良い口紅は折れにくい。女社長の置き土産だな。まあ、当面お前はその懐中電灯で殴れよ。その二つは俺が持っとく」
次は消炭先生の部屋だ。ここにはいないとイレブンは思うのだが。自分の部屋で身を隠すのもおかしいし、中には六車と女社長の遺体が残っているのに、そんな場所に長時間居続けられるとは思えない。
ドアの前に立つ。油の焼けた臭いが漂っている。さっきは慌てて逃げたが、中の惨状は相当なものだろう。
イレブンがドアを開ける。ソラが中に向かって水筒を突き出す。だが、空を切っただけだ。黒こげの女社長の遺体がそのまま残っている。ベッドに向かって、くの字に折れ曲がって倒れていた。腸が飛び散っており、バーベキューの焦げた残飯と大便を混ぜたような臭いが部屋を満たしている。
一歩踏み込む。敷かれた絨毯が、まだ油でべたついていた。女社長の周りは燃焼したあとがくっきり残っている。
「俺はトイレとシャワー室を見る」とソラが入り口すぐ横の個室に消える。
イレブンはそのまま女社長の横を通り、ベッドで首の取れかかっている六車を見やる。
腐敗が進んでいる。首の断面から死臭が濃く部屋に沸き立っているかのような。
こんな場所に隠れられるわけがない。そう思って引き返そうと思ったとき、重いものが擦れる音がした。絨毯を押さえつけたような。
嫌な予感がしてイレブンは飛びすさった。六車の倒れているベッドの下から銀色に光るものが過った。消防斧だ。
まさか、来るか来ないかも分からない自分たちを、二人の遺体のある場所でずっと待っていたのか。まして、六車の血の染みたベッドの下に潜むなんて、神経を疑う。
斧は一瞬で引っ込む。
「どうしたイレブン!」
「いた」
イレブンは声を潜めて、入口ドアまで後退する。リーチは向こうの方がある。
ベッドの下から髪の長い女が這い出てきた。見れば手足は油の染みた絨毯に、じかについていたためか濡れて光っている。
「消炭先生」
先生の神経が壊れていたことは、顔を見れば明らかだ。目は鋭さを増し、引きつった笑みを浮かべている。いつものピンクの服装ではなく、黒のタンクトップに黒のタイトパンツ、靴はコンバットブーツに着替えていた。
先生はいつも以上に痩せて見える格好で、斧を振り上げる。身構えたイレブンだが、その斧はもう朽ち果てている女社長の身体をめった打ちにした。異常過ぎる。
「どうして先生が。そこまでしなくても」
「やめとけイレブン」
先生の瞳孔の開いた目が懐中電灯に反射する。
「どう? なかなかいいトラウマになりそうじゃない? 目の前で人が死ぬと辛いわよね? イレブン。今日まで私が先生で良かった? 私、全然カウンセラーなんかじゃないのに、臨床心理士の資格まで取ったの。偉くない? もう先生なんて呼ばないでくれる? あんたのトラウマなんか治してやろうなんて思ったこと、一度もないわ。PTSD? 笑わせないでよ。あんたのはただのうつ病。毎週、早く自殺しないかなーって思いながら観察してた」
イレブンは言葉を失う。いつもの物静かな先生と違う。適度なスピードで話す先生が、今は早口だ。
「まさか、覚王ソラと船に乗ろうとするなんて思わないでしょ。あんたはこの私といっしょにカウンセラーとクライアントとして乗って、あんたを仲塚中継に殺させる予定だったのに。何してくれてんの? 覚王ソラ!」
先生は女社長の身体から斧を引き抜く。血さえ燃え尽きてしまったはずの女社長の身体から、焦げて固まった体液がプリンを開けたときの飛沫のように飛んできた。
先生の斧がソラに向かう。先生が駆けてくるのに、わずか数歩。ソラは水筒で斧を弾き、軌道をそらした。それで、よろめいた先生の顔にすかさず突きを繰り出す。手には口紅が握られていた。
「うぶっ!」
先生の左目に口紅が刺さる。悪鬼のような声で呻く先生。だが、斧は手放さず左右に振り回す。
イレブンはまだ先生の豹変した姿を信じられない。
「先生、どうしてこんなことをするんだよ。俺、おかげで、外に出る決心もついたのに」
突然、ぴたりと動きを止めた先生は、無言になる。痛みのあまり喚いていたのではないのか。まるで麻薬か何かで痛みを別のものに置き換えたかのように無感動だ。やがて唇を舐めてにたりと笑う。左目からは口紅の赤と血が混じって流れ落ちている。
「仲塚中継はあたしを拾ってくれた。あおいとりは、名前の通りあたしに幸運を運ぶ船だった」
けたけたと笑う声が不明瞭に途切れる。先生が笑い泣きしている。
「私は昔、デブだった。だからいじめられてた。親は私を病院へやらなかった。行けばクッシング症候群って分かったのに。デブは病気のせいだったんだ。二十五歳のとき私は大阪湾に向かって流れる川の一つに、飛び込んで死のうとした。でも、死の世界からあおいとりがやってきた。あおいとりは三本腕の男を乗せて、自由に航海してるの。改修工事が完了してから、独りでに人知れずね。三本腕の男は私に望んだ美貌を授けてくれた。どんなに食べても痩せるのよ。毎日痩せて行く。これが、私の望んだ美! だから、あの人の望むものを私は捧げるの」
「狂ってるって自分で思わないわけ? ソラ、このオバサンどうしよう。たぶん、拒食症だよね」
「間違いねぇ。ただの拒食症だ」
「あの人が望むのは、あなたたちがトラウマとなった海で殺すこと!」
先生は今にも倒れそうなほどに痩せていた。特に首の周りは皮ばかりで、筋がはっきりと浮き上がっている。腕も骨ばかりで斧を振り回すと、斧の遠心力で先生が飛びそうにならないか逆に心配になるぐらいだ。だが、斧はイレブンの頭上を的確に狙ってくる。
ソラに押し飛ばされ、通路に転び出る。ソラも勢い余って上から倒れてくる。長身のソラはけっこう重い。斧は床に刺さった。こちらが態勢を立てなおすより早く、先生が斧を引き抜く。
「先生。あの悪魔が先生の命の恩人なのか? だとしても、なんで臨床心理士になって俺らを船に乗せようと? トラウマがあったからってだけなのか? 俺らの親父が悪魔を見殺しにしたからかよ」
「私は元々あんたたちみたいな、人殺しが理解できない。飲酒運転の事故だってそうでしょ。カエルの子はカエル。臨床心理士になって、あんたらみたいな無責任で、自己中心的な若者のことが少しは分かるようになるかと思ったけど、そんなことはなかった。少年だから罰せられないのはおかしい。仲塚中継様は世の理不尽には理不尽で返せと考えてるの。並みの人間は海で死んだあと、悪魔になって蘇ったりしないでしょ? まさに彼は、あらゆる海の無念を飲み込んだ憎悪の化身」
「俺らが悪いのは認めるけど、後半なんかすごいこと言ってない? そもそも日本に悪魔っているの? 普通、そこ悪霊とか怨念とか、地縛霊なんじゃ」
「黙れイレブン。特別にあなたに最期の治療をしてあげるわ。この船に紛れ込んだ部外者の覚王ソラを、目の前で殺してあげる! 最高の曝露療法じゃない?」
ソラが起き上がりしなイレブンを見つめ、いたずらっぽく笑った。手に水筒を握らせてくる。受け取ったイレブンは仰向けの姿勢のまま、先生に水筒を投げつける。
すかさず斧で弾かれる。
「安っぽい攻撃しないでくれる? 仲塚中継様はもっと、悲惨な死を望んでるのよ。どちらが勝っても、血に染まって勝利しなければならない。ここは私とあの方の幽霊船なんだから!」
水筒がなくなったことで、逆に素早く起き上がれるようになったソラが、起き上がるなり、先生の斧に取りすがった。斧の刃に近い部分を持ち、全体重をかけている。先生の細い腕では取り落とすしかないだろう。イレブンも立ち上り、懐中電灯で一発殴ろうとする。
先生は機敏にソラを蹴りつけ距離を離す。ソラが倒れてきたので、イレブンは殴るどころではなくなる。
再びソラの下敷きになるイレブン。
「いってぇ」
持っていた懐中電灯が通路の奥へ転がっていく。
鼻歌がした。こんなときに、あいつが来たようだ。
ソラもよほど強く蹴られたのか、身悶えている。
「も、もっと広いところへ行くぞ」
ソラが横に転がってどいてくれた。促されて立とうとしたとき、遠くに転がった懐中電灯が白いものを照らし出した。無数の白い虫のようなものが廊下を駆けずり回ってくる。連結した小指でできたムカデの群れだ。
「おい!」
ソラが呼んでいるのに気づけなかった。鈍い音が頭上でして、イレブンははじめてムカデから目を反らす。
ソラが転がった。その頭に斧が刺さっている。
「へ? ソ……ラ?」
ソラは目を見開いたまま倒れた。ソラならどんな状態になってもやり返すはずだ。だが、動かない。暗くて出血の具合は分からないが、それでももうソラが笑わないことは分かった。分かっているが、イレブンはどうしても納得できない。身体が震える。
先生が隙を突いて殴りかかってきた。まさか女性に顔を殴られると思っていなかったので、イレブンは危うく転倒しかける。
――アッパーで顎を狙うか、鼻を打つ。脳を揺らす、とソラの喧嘩講座は言っていた。イレブンは頬から顎にかけて感じた痛みに慟哭する。
自分はまだいい。ソラはもっと痛かったはずだ。ソラがいるから、今この船に自分はいられる。ソラがいつか必ず出所すると分かっていたから、一年近くも再会を待っていた。
先生がソラを殺した。先生はもう、先生ではない。
ソラに突き刺さった斧を引く。抜けない。ソラなら許してくれると信じ、ソラの背を足蹴にして踏ん張り、引き抜いた。
先生は通路の先を見つめている。床を無数の指ムカデが行進してくる。
「仲塚中継様!」
ファンクラブのような黄色い声を上げる。
「シカトしてんじゃねぇよ」
イレブンは容赦なく先生の脳天に斧を叩きつけた。
三人の血を吸った斧は、切れ味悪く、先生の頭頂部を滑り、側頭部を削ぎ落した。頭蓋骨と髪の残った頭皮がべろりとめくれる。
先生の喜びの奇声が悲痛な叫びに変わる。手で顔を覆う先生に向かって、イレブンはなおも斧を振り下ろす。かばった先生の右腕がぼろっと落ちる。再度叩きつける。先生の額に刃が刺さり、頭蓋の砕ける音がした。再三打ちつけると、脳漿の飛び散る粘着質な音に変わる。
イレブンは斧を固く握りしめ、通路の奥を睨んだ。
指ムカデが一匹も見当たらない。エリーゼのためにの鼻歌もしなくなっている。悪魔が去ったのか。
ソラに向きなおると、そこにソラの遺体はなかった。
「ソラ?」
小声で尋ねる。ソラなら、今のは冗談だと言ってくれるかもしれない。そんな馬鹿げた期待をして周囲を見回したのがいけなかった。
目と鼻の先に顔の半分ない男が立っていた。驚く間もなく、三本の腕がつかみかかってきた。二本の腕が首を絞めてきて、一本がバールで木魚を叩くようにイレブンの頭を、ぽくぽく叩いた。
「ふ……ふざけんな……かっ」
息ができない。
「お経でもあげてやろうと思ってな。でも生憎、俺は坊さんじゃねぇ。お前の親父に借りがあるんだが、どうやらお前が殺しちまったらしい」
三本腕の悪魔は、唇のない方の口内から、剥き出しの歯茎に向かって舌をちろちろ伸ばした。
イレブンの顔は膨張して破裂しそうなほど赤くなった。頭に血液が行かず、逆に首から下にも行かず、顔が熱くなる。吸えない空気をなんとか吸おうと、横隔膜が痙攣したように動く。視界が霞み、イレブンは意識を失った。




