5-2
六月の夜の海は冷たかった。イレブンは海面で慌てずに立ち泳ぎする。
すぐ傍に大型フェリーあおいとりがある。船は車と違ってブレーキがない。衝突後も止まることができず、のろのろとクルーザーを引きずっていた。
海面で飛沫が上がる。マリンとリボンが海面から頭を出した。涙と海水で顔が濡れている。
事故った。今さらのようにイレブンは思った。クロールで泳ぎ、クルーザーの残骸を追う。前方二十メートルほどのところで、船尾を突き出している。ということは、船首はもう水没している。ようやく、あおいとりが止まった。
「無視しないで! あだぢ泳げないの! うづき君! うづき君!」
イレブンを卯月だと思っているらしい。
罪悪感を抱えながらもイレブンはリボンをスルーする。何か捕まるものがないと、あの巨体は救えない。
「はぶっ!」
背後で水を飲んだ音が聞こえる。急に静かになった。たまらず振り返るとリボンはもうそこにはいなかった。
「嘘だろ」
後ろからついてくるのはマリンだけだ。
「え、リボン? 今の嘘だろ? なんでオレ海に落ちちゃったの?」
男勝りのマリンがかわいい声を出すなんて信じられなかった。
「事故ったんだ。つかまるものを探せ」
「何もないよ。イレブンどへ行くんだよ! オレを一人にすんな! こえーんだよ!」
ソラもテルも見当たらない。親父も、ソラの親父さんも、貴子、比米、卯月。
船尾の近くまでイレブンは泳ぐ。沈みゆく船内で、卯月、比米がいるのが見えた。傾いたキッチンで柱にしがみついている。
卯月はすぐに意を決して海に飛び込んだ。だが、比米は動こうとしない。船内に留まっていると、船が沈むときの渦に巻き込まれて浮上することが難しくなるだろう。かといって、浮具が何もない状態で、海に放り出されるのが心もとないのも分かる。
ふと、思いついたのか、比米が横倒しになった冷蔵庫を開けた。中から五百ミリリットルのペットボトルを見つける。中身をぶちまけ空みする。たった一本のペットボトルにつかまって海に飛び込んだ。
すると、イレブンの背後まで追いついてきていたマリンが、比米に向かって泳いで行く。
「オレにそれ、寄越せよ!」
いつもの乱暴なマリンに戻っている。比米からペットボトルを奪おうとする。たった五百ミリリットルのペットボトルでは、人一人が浮くのにも苦労する。比米は頑なに拒んでいるが、マリンの剣幕に負けて手放してしまう。だが、沈みかけているのは勝者のマリンの方だった。体力がもたないのだろう。授業で二十五メートルプールを泳ぐことができても、波があり、足のつかない海では簡単に溺れてしまう。
気泡がたくさん浮かんできた。貴子と親父が海面から顔を出した。
「よかった二人とも!」
貴子は大きく息継ぎして、パニックなっていた。泳ぎは得意なはずなのに、何度も頭まで沈みそうになる。
「落ち着け。慌てるな」
イレブンは貴子の手をつかんだ。海に引きずりこまれそうになる。
「死にたくない! 怖いよ! 怖いよ!」
「大丈夫だから。救助が来るよ。ぶつかった相手もこっちがどうなってるか分かってるはずだから」
貴子をなんとかなだめた。もう少しでこちらも溺れるところだった。
親父は今まさに姿を消そうとしているクルーザーを見やる。
「俺と正富の船があ! 待て待て!」
親父が船に取りすがって乗り込む。酔っているので傾いたキッチンで転倒する。
「親父何やってんだ!」
「救命胴衣を探すんだよ。どこに置いたっけなぁ」
親父は水没した船に腰まで浸かる。
貴子がヒステリックな声を上げた。
「待って。ねぇ私たちだけ? ソラとソラのお父さんは? リボンも」
「リボンはさっき……」
言いながら、イレブンの喉が詰まる。
「そんな……嫌よ! 私もそうなるのは嫌!」
「貴子ちゃん落ち着いて。リボンは元々泳げなかったんだ」
卯月が悲痛な声を上げたとき、頭上から波が押し寄せてきた。みんな頭から被り、それぞれ咳き込んだ。マリンと比米が流された。誰も助けに行けない。浮くだけで精一杯だ。
「おい、みんないるか!」
ソラが遠くから泳いできた。あおいとりの船首を迂回して泳いできたのかもしれない。
「親父さんは?」
「いっしょじゃねぇのかよ! ほかは? みんないるか?」
「リボンはもう……俺のせいで」
イレブンが最後まで言い終わるまでに、ソラがやみくもに泳ぎだす。
「クソ! 親父どこだ!」
「駄目だソラ!」
無謀にも行ってしまった。そのとき、イレブンを呼ぶ声があった。頭上からオレンジのライフジャケットが降ってきた。慌てて受け取る。
「親父?」
クルーザーはキッチン部分も沈み、浮いているのは残すところ垂直になってしまったトランサム(船尾部分の平らな面)だけだ。
親父の顔はもう見えない。沈む船にしがみつく、よく日焼けした腕だけが見えた。それが最後だった。クルーザーが沈んだことで、大きな波が起きた。遠くで悲鳴がした。マリンと比米がさらに離れていた。三十メートルほどか。まだ声は届く。
「しっかりペットボトルを持て! 比米もマリンに捕まれ!」
「比米に貸せるか! これはオレのペットボトルなんだよ!」
マリンが半狂乱になって叫ぶ。ペットボトルを抱えた身体が、自分の意志に反してラッコのように回転しているようだった。
ソラが戻ってきた。一番体力も泳力もあるので当然だ。
「親父はどこにもいなかった。救命胴衣があったか。お前の親父は?」
イレブンは救命胴衣を握る手に力が入った。
「それが……。船と沈んだ」
ソラが蒼い顔で、残骸も見当たらない海を見渡す。
「こんなことって。いいか、お前はぜってぇにそれを離すなよ。あおいとりは何やってんだ! ぶつかったって分かんだろ!」
こちらから見上げても、あおいとりの動きは分からない。船の照明が逆光となっている。
「マリンは?」
ソラの指摘に戦慄する。マリンがいない。遠くでペットボトルが浮き沈みしているだけだ。
それに、比米はもう五十メートルほど離れている。これ以上離れると夜の闇で見失う。
「比米! 比米!」
イレブンは声を限りに叫ぶ。
「どっちが早いか……だな。今ごろ後進かよ」
ソラが悪態をつく。あおいとりが後ろに下がる。船のブレーキに代わるものがバックだ。
「あおいとりの対応が遅すぎる。俺は救助を呼んでくる」
「は? ソラ何言ってんだ。目の前にあおいとりがいるだろ」
「比米が流されてんだろ。それに、親父も……待ってられるか! テル? テル!」
うつぶせで音もなくテルが浮かんできていた。ライトグリーンの目立つシャツを着ていてくれてよかった。
ソラがテルを仰向けにする。テルは金縁メガネを失い、目をつぶっている。
「起きろ起きろ!」
水上で救命措置は難しい。ソラがテルの胸のあたりを突くが、そうするとテルが沈みそうになる。テルが浮いているのは、救命胴衣を着ているおかげだ。だが、息はない。
「この野郎。ちゃっかり救命胴衣しやがって」
ソラが涙目に言う。
イレブンはテルの急速に白くなった顔に戦慄する。デッキから身を乗り出していたから、一番先に海に落ちたのかもしれない。そのあと、沈んで来た船に海の中から侵入し、救命胴衣を発見したが、船内で装着したために、逆に天井部分などに引っかかって溺死したのかもしれない。
ソラがテルから救命胴衣を剥がして装着する。
「テル悪かったな。俺のせいだ」
ソラが手を離すと、テルがあおむけのまま沈んでいく。
「テル!」
思わずイレブンも叫んだ。
「うおい!」
ずっと静かに浮いていた卯月が、溺れそうになりながら怒っている。
「救命胴衣はほかにないのか!」
ソラも怒ったような顔をするが、怒ってはいない。
「沈んだ船の中だ。どっちみち人数分はなかったと思う」
「寄越せよ」
「俺は岸まで泳いで救助を呼ぶ」
「は? 馬鹿かよ」
「ああ。俺なりのけじめだ。何も行動を起こさないなんて、俺にはできない」
卯月も救命胴衣を寄越せとは言えなくなる。
「自殺行為だな。いいよ、死ねよ。死んでこい」
「ソラ、卯月の言う通りに死ぬ必要なんかない」
イレブンはソラの間違いを正そうとした。もっと、早くに一言、言えばよかった。酒をやめろとか、運転は駄目だろとか。そういう簡単なことが、今の楽しさと秤にかけて言えなかった。
ソラの目は悲しそうだった。
「あれ? 貴子は?」
言いながらイレブンは、みんなの残り時間が少ないことに戦慄する。足のつかない場所で音もなく沈んだのだ。
ソラは固く唇を結んでいたが、決意を滾らせて叫んだ。
「時間がねぇ。あおいとりの救助が早ければそれでよし。俺のことは心配せずに、救命ボートに乗れ。あおいとりじゃなくてもいい。漁船でも、ほかのクルーザーでも。生き残ることだけ考えろ。俺は行く。何があっても戻ってくる!」
海の闇は広がり続けている。岸まで何キロあるのか。イレブンの失った指のつけ根に、脈打つたびにハンマーで叩かれているような強烈な痛みが走る。
「こうなったのは俺のせいだ。だから、岸まで泳いで助けを呼んでくる。絶対助け呼んでくるからな! イレブン。待てるだろ? 一年でも二年でも待てるだろ?」
イレブンは自分の口角が引きつるのを感じた。笑えない冗談だ。
「待てる」
海水が目に入って泣いた。
「じゃあ指切りだ」
「俺、指が見つからねぇんだよ」
「笑えねぇな」
ソラは小指を立て苦々しく笑うと、岸も見えない海をクロールでかき分けて行った。




