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指切りの船  作者: 影津
16/23

4-2

 女社長の身体が黒い影となって目の前で落下した。女社長の悲鳴は救急車が通過したときに音が変わるように、低い音に変わった。


 連続した大きな音を立てながら大階段を転がり落ちて行く。


 さらに、上階から澪の悲鳴がした。


「お母さああああああああん」


 七階にいるイレブンと六車は六階へ駆け下りた。同じく降りてきた澪の照らす懐中電灯で女社長が横たわっているのが見えた。低く呻いている。何か様子が変だ。女社長の白いヒールは黒くぬらぬらと光っていた。白のタイトパンツも同様に、膝や裾が真っ黒に濡れている。女社長は顔をしかめて苦心していた。


「どうしよう。動かさない方がいいかな」


 イレブンにはぱっと見ただけでは、女社長の怪我の具合が分からない。


「どいて!」


 駆け下りてきた澪にイレブンと六車は突き飛ばされた。今は再会を喜ぶ間も惜しいという感じで無視された。澪は躊躇なく女社長を抱き起す。


「っつ! い、痛いわ、無理よ。立てない……」


「お母さんどこが痛むの」


 顔面蒼白の澪が今にも泣きそうな顔で問う。


「足よ」


 女社長の足首が赤くなってきた。イレブンから見ても、痛そうだ。同時に今までヒールで駆けずり回っていたのかと感心した。


「何があったんだよ」


「分からない。何かドロドロしたものが追いかけて来て」


「ほかにもいるのか?」


「ほかって何よ。でも、あれはお兄ちゃんじゃなかった」


「いや、レイはいたよ。俺、さっき会った」


 澪が白い顔を一層白くする。女社長が呻きながら片足で立ち上がった。


「……蓮寺、馬鹿言わないでちょうだい。澪が余計混乱するでしょ」


「ちょっとお母さん」


 澪が女社長を支える。イレブンは何も言えない。幽霊を見たと信じてもらえるとは思えない。だが、女社長だって何かあったから、八階から大階段を落ちてきたのではないのか。


「そうだな。名前を聞いたわけじゃないし。幽霊って呼ぶのは、あんまりはっきり見えるから、なんかちげーよな。でも、あいつがいたってことは、何か伝えたいからじゃないのか? 俺はレイから悪魔のことを聞いたんだ」


 女社長は額に癇癪筋を浮かべる。澪の懐中電灯が下の方を向いていなかったら、その鬼のような顔と対峙しなければならなかった。


「悪魔? あなたオカルトマニアだったの? それともクルーザーとフェリーの衝突事故で頭おかしくなったの?」


 イレブンは何でもクルーザーの事故と結びつけられるのは、我慢できなかった。


「あんたにクルーザーの事故のことはもう言われたくない。あんたこそレイが誰で、このあおいとりが火事になったときのこと、知ってんなら教えろよ」


 女社長のほうれい線が一層濃くなり、頬が痙攣した。


「……まずは氷を取ってきてもらえる? 早く冷やさないと。このままじゃ移動もろくにできないから」


「分かった。どこで休む?」


消炭(けしずみ)さんの部屋に寄らせてもらうわ。六車も行くわよ。どこをほっつき歩いていたのか知らないけれど、もう行方不明にならないでよ」


 女社長にイレブンは肩を貸し、澪と一緒に消炭先生の部屋に届けた。消炭先生はずっとスマホのライトだけで部屋を照らしていた。心細そうな様子はなく、とてもはっきりとした口調で出迎えてくれた。


「遅かったわね。何かあったの? あら、大変。大きな声がしたから……」


 女社長を消炭先生のベッドに寝かせる。


「八階の手すりから落ちたんです」


 イレブンが説明すると消炭先生の目の色が変わった。


「よく足首の捻挫だけで済んだわね。私が見ておくわ。氷はどこだったかしら。レストランならありそうだけど」


「俺と澪で行きます」


「ちょっと、なんであたし? お母さんの側にいてあげないと」


「お前の方が船内詳しいだろ。それに、六車はさっきまで大変なことになってたんだ」


「あたしだってそうよ」


「どうして転落することになったんだよ」


 ベッドの上の女社長が複雑な表情を浮かべている。それを見た澪が「分かった」と呟いてイレブンの手を引いた。


「あたしも氷探しに行く」


 六車と女社長を先生の元に残し、澪と二人で六階まで降りる。レストランで氷を探した。


 未だに腐ったバイキングが並んでいる。この列には氷はなさそうだ。あとは厨房だ。巨大冷蔵庫が三台ある。電源は入っていないので、氷はあっても溶けている可能性がある。だが、ないとも言い切れないので一応二人で手分けして探す。


「なんか話す気になったのか?」


「零に遭ったって言ったわよね?」


「十歳の男の子になら。あれがお前の兄貴になるなら、やっぱりあんなにはっきり見えても、幽霊ってこと? スッゲー、俺霊感あるようになったってことか」


「ふざけてる? 幽霊とかそういう言い方やめて。あれは、私のお兄ちゃんなんだから」


「いや、お前だって俺らに起こったことを説明しても、たぶん信じないだろうし」


「何かあったの?」


「レイに会ってすぐ、三本腕の悪魔に追われて、目だらけの通路に行き当たった」


 澪が絶句したようだと思ったが、呆れてものが言えないだけかもしれない。澪の懐中電灯は冷蔵庫の中を照らすのに忙しい。


「予想の斜め上だったわ。いいわ、(れい)について話さないと何もはじまらないわよね。ゼロって書いてレイね。私より一つ年上のお兄ちゃんなの。十歳のときに、このあおいとりシージャック事件で亡くなったの」


「やっぱり幽霊のレイじゃん」


「からかうのやめて。私はこの船で勝木田さんが零を目撃したときに偶然見て、そのときはじめて零がいるって分かったの。髪が長い男の子になってた。昔からちょっと長めだったけど、あれは亡くなる前に伸びたんだと思う」


「髪が伸びた?」


「順を追うわね。あおいとりは鹿児島の地元の観光業を営む男に乗っ取られたの。私とお兄ちゃんはお母さんといっしょにこの船で行われていた、内仮屋海運の納涼会に来ていた。ゲストに紛れ込んでいた鹿児島の男は、船のあちこちに放火したの。まさか、お兄ちゃんが人質にされるなんて思わなかった。私もこのレストランとアトリウムを行き来してたんだけど、炎が燃え広がって逃げるのに精いっぱいだったから」


「よく無事だったな。ここが燃えるって相当だぞ。ガソリンでもまかれたのか?」


「そう。多くの人が火傷を負ったわ。私は傷跡が残るような大きな火傷はしなかったのに、それでも火恐怖症になって。情けないよね」


「ほかの人が酷い目に遭ってるのを見ると、やっぱりそういうの、自分を責めたくなるよ」


「君もなんだ?」


「俺とソラがクルーザーの事故で助かったときも、どうしていいか分からなかったから。原因を作った俺らだけが生き残った。なんでなんだろうな」


「加害者でもサバイバーズ・ギルトになるんだ」


「なんか消炭先生もそんなこと言ってたな。生き残った人間に訪れる罪悪感だっけ。俺がPTSDなのはそれもあるって」


「なんだ。似たもの同士だったんだね。お母さんが聞いたら怒りそうだけど。加害者は償いをしようが加害者に変わらないっていつも言ってるから」


「反省しても誰も戻ってこねぇもんな。俺、事故で亡くしたのはみんな友達なんだよ」


「ねぇ、ちょっと。いきなり泣かないでよ。続きが話せないでしょ。あんたの事故もちゃんと聞いてあげるから」


「べ、別に泣いてねぇよ」


 イレブンは泣いたつもりがないものの、目の隈のあたりを腕でこする。


「まずはお兄ちゃんがどうなったのか話させて。鹿児島の男に捕まったお兄ちゃんは男が持ち出した膨張式救命筏に乗せられて、漂流したの。男の方は客を装って別の船に救助を求めたんだけどね。どういうわけか、事件現場近くに居合わせたクルーザーの持ち主が、男を無視してね。お兄ちゃんは二週間後に餓死した。タンカーが発見してくれたの」


 言いながら、澪はがっくり肩を落とす。


「男の方は一年後に遺体が漁船の網に引っかかって上がったんだけど、顔の半分がなかったそう。どこかの船のスクリューに巻き込まれたみたいだったから、餓死寸前に海で魚を捕ろうとして誤って落ちたのかもって。世間は放火犯が死んで良かったって風潮だったけど。お兄ちゃんを道連れにした犯人を私は悪魔だと思う。それに、救助要請を無視した近くを通ったクルーザーの持ち主もね」


 一般の船に海難救助の義務はない。だが、船の事故は一度起こると手に負えないことが多いので、近くの船が救助に向かうときには船の燃料費が保証される。それでも救助しない人間はいる。


「酷い人間ってのはどこにでもいるんだな」


「そうよ。だからお母さんは海難事故に敏感なの。二週間後に発見されたお兄ちゃんの亡骸は、異様に髪が伸びてたそう。お兄ちゃんの死因は餓死だったけれど、腕が焼けただれていて、生きている間も相当苦しんでたんだと思う」


 イレブンの眼前に海が浮かんだ。船尾しか見えないクルーザー。海に投げ出された仲間たち。足のつかない海でばたばたと飛沫を上げていた彼らが、一人、また一人と力尽きて音もなく夜の波間に姿を消していく。ソラが救助を呼びに、何キロ離れているのかも分からない岸に向かって泳いでから三十分以上イレブンが浮いていられたのは、父が自分にだけ投げて寄越した救命胴衣のおかげだった。自分たち家族だけが助かろうとした嫌らしい魂胆を、傍にいた仲間たちは目撃したはずだ。それが仲間たちに苦しみを倍加させていたかもしれない。


 イレブンは暗い顔をしていたかもしれないので、懐中電灯を自分の顔に当たらないようにしながら、冷蔵庫の腐った食材を取り出して奥の方まで氷を探す。


「シージャック事件のあと、鹿児島の男の名前が分かったわ。(なか)(つか)中継(なかつぐ)。六十五歳。クルーザーのクルージングで生計を立てていたらしいの。私に分かるのはそれだけ。お母さんなら詳しいかもしれないけど。今もお兄ちゃんのこと、事件のことも忘れようと必死なの」


「零はこの船でさまよってるのか」


「そうだとあたしは嬉しいんだけど。やっぱりよくないことだよね。成仏できてないってことでしょ? このあおいとりは火事のあと、修繕してから就航するまで五年かかったの。造船所でこの船を修復しているときに、人影を見たとか足音がするって報告があってね。調査をして安全が確認されるまで運行しないってことになって。結局原因不明だったわ。それでも廃船にならなかったのは、もしかしたらお母さんも零を目撃していたからなのかな。お母さん、幽霊は死んでも認めないから」


「なんだ。女社長も零のこと気づいてんのかよ」


「就航してからも、乗客の間で子供の霊が出るって都市伝説も流れたぐらいだからね。お母さんもそんなものはいないって言い張って何度も乗ったから。お客さんの間では、女の子だったり男の子だったり目撃情報に統一感はなかったけど、零は死の間際に髪が伸びてたんだもん。女の子に見えたのかも」


「ってことは、俺らは幽霊船に乗ってるのか。それに、三本腕で顔の半分ない男って。お前の言う、鹿児島の男なのか」


 イレブンは苦笑する。


「幽霊船とまでは言ってないでしょ。今まで目撃情報だけで、何度乗ってもあたしはお兄ちゃんに会えなかったぐらいだもん。ちょっと待って、君が遭遇した悪魔は三本腕でしょ? 顔が半分なかったの?」


「うん。遭遇した。年齢はよく分からないけど、たぶん六十歳ぐらいだ。零はそいつを悪魔って呼んでた」


 澪が身震いする。


「仲塚中継までいるの? 待って待って、あの男の腕は二本よ。三本なわけないじゃない」


「だから、悪魔なのかもな。遺体は見たことあるのか」


「あるわけないでしょ。そんなの見たらトラウマになっちゃう。ひょっとして、さっき遭遇したのも、そうなのかも」


 澪が考え込む。


「そっちは何を見てあんな騒ぎになったんだ」


「油人間よ」


「何それ。また別の悪魔なのか」


 澪は思慮深げに首を振る。


「ほかに表現の仕方が分からないけど、悪魔かって言われたらそうなのかもしれない。人の形をしていて、身長はお母さんぐらいあった。全身真っ黒で、顔の凹凸はあるけど、目や鼻はない。まるでコールタールか石油の原油まみれののっぺらぼうで。あたしとお母さんは八階の展望デッキにいたんだけど。油人間がいきなり現れて走ってきて。お母さんと一緒に船内に逃げ込んだんだけど、突然床が油まみれになって、私たち滑って」


「それで八階から落ちたのか。八階って。俺らと入れ違いになってたんだな。油人間に心当たりは?」

「ないわよ。あんな知り合いがいたら怖いわ」


「じゃあ、なんかそういう恐怖症みたいなのないのか?」


「え、まさか」


「心当たりがあるんだろ?」


 澪は下唇を噛む。


「お母さんはシージャックのとき混乱の中で、火から逃れそうとして船外に転落した乗客を救助するために、海に飛び込んだの。海はあおいとりから漏れ出た燃料で油まみれだったわ。仲塚中継は放火するだけじゃなく、機関室も破壊しようとしてたみたいだし。それでお母さんは泳いだときに、漂っていた燃料を飲み込んで事件後に肺炎になった。それと関係があるのかも。お母さん、事件のことは忘れようと努めてて、事件後に油を使う料理ができなくなったの。天ぷらとかからあげとかね」


「油恐怖症?」


「そんな名前の恐怖症はないけど。それにしても、氷なんてどこにもないわね」


 ふと澪が氷を探す手を止めた。レストラン奥の厨房の大型冷蔵庫は大方調べつくした。


「どうして簡単なことに気づかなかったの。氷ならほら、スイートラウンジにあるじゃない! ソフトドリンク飲み放題なんだから」


 ドリンクサーバーがあれば、普通は隣にアイスディスペンサーが置いてある。


「じゃあなんで消炭先生はレストランへ行けって言ったんだ。え、まさか」


 斧を持った犯人は別にいるとソラは言った。


 消炭先生はいつでも一人で行動できた。合流する前までどこにいたのか知る者はいない。


「急いで消炭先生の部屋へ戻ろう」


「え? 氷はどうするの?」


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