4-1
イレブンは船内に戻るに戻れない。たった一つしかない通路に、悪魔がいるはずだ。バールを持った顔の半分ない、三本腕のタキーシード姿の殺人鬼が。
イレブンはソラと違って殴り合いは得意な方ではない。ソラグループでは、ソラが頭一つ抜けていたのが実情だ。こちらには武器らしいものといえば、懐中電灯一つだけ。
レイとレイが悪魔と呼ぶ殺人鬼はグルではないのかと、意を決して通路を覗く。暗闇が広がるだけだ。懐中電灯で殴る準備をする。光りが天井を向くが仕方がない。まずは、レイがどちらの味方なのか確かめなければ。
「レイ? ちゃんと話してなかったよな。君の家族が探してたよ」
澪の年齢的に、澪がレイの妹とは考えにくかったが。
――待てよ。霊が年を取らなかったら? 澪は小学生ぐらいのときに兄貴を失ったのか。
「なあ、レイ! 聞こえてんだろ」
化け物と対峙するぐらいなら、幽霊と会話する方がまだマシだ。通路に入った。両サイドに部屋がある。乗客がいないとはいえ、用心しながら進む。
ぽとり。
天井から何かが降ってきた。イレブンの前髪をかすめて。生暖かい湿気を鼻先に感じた。こういうときは、上も下も見ない方がいいに決まっているが、確かめたくなる。
指。小指が落ちている。
不思議なことにそれが赤の他人の指かもしれないとは思わないもので、イレブンにはそれが自分の失った左手小指に見える。
小指が痙攣している。水揚げされた魚みたいにびちびちと。
――幻覚だ。
ぽとりぽとり。
三つに増えたが、三つとも小指だった。今度は何やら左右に指をくねらせてのたうっている。
「見るな見るな」
イレブンは自分の小指を跨いで走る。なお天井から指は降ってくる。天井には何もないはず。ふと見上げてしまう。
タキシードの男が天井に張りついていた。イレブンの走る速度に合わせて、ムカデのように三本の腕と二本の足を大きく展開し、わしわしと天井を圧迫しながら進んでいる。
「う、うわあああ」
「噛みつきゃしねぇよ。ちょっとダンスを見せてやるだけだ。指のダンスをな」
ぶははと歯茎が半分ないので、舌を頬から飛び出させて笑っている。
通路に落ちた小指たちが、イレブンのジーパンに指を引っかけた。転倒こそしなかったものの、半狂乱になったイレブンの足はもつれた。小指たちがズボンの上で集まり始め、細長く連なり、膝まで這ってくる。
小指だけでできたムカデだ。白いムカデを彷彿させるそれを視界に入れたときには、もう胸まで上がって来た。懐中電灯で自分の身体ごと殴った。胸が痛んだが気持ち悪い指ムカデをどこかに追っ払うのが先だ。
天井から高笑いが聞こえる。イレブンはしゃがみ込んで這うようにして通路を突っ切る。ズボンに絡む指の感触はいつまでも残った。ぽとりぽとりと音が続く。
通路を抜けきった。あとはアトリウムの大階段を使って八階まで上がるだけだ。もう少しでアトリウムに出るというとき、近くのトイレから腕が伸びてきてつかまれた。思わず絶叫するイレブン。もう指で触られるのは懲り懲りだった。懐中電灯でつかんできた手を殴る。
「落ち着け俺だ」
ソラと六車がいた。六車が意識を取り戻しており、スマホのライトで照らしてくれていた。
「ソラ! それに六車! 良かった。目ぇ覚めたんだな」
「ありがとう。でも、ひとまず静かにした方が」
六車にイレブンは引っ張られて、トイレの中に入る。
まだ天井を悪魔が這っているのかどうか、これでは分からない。
「あいつを見たかお前らは」
ソラが頷く。
「ああ。なんかやべぇ」
「ここじゃ逃げられないだろ」
「ほかにもいるんだよ。俺は平気だが、せっかく意識を取り戻した六車が無理なんだ」
「どういうことだよ」
ソラがトイレから顔を出して、アトリウムへと続く通路の先に六車のスマホのライトを当てる。通路の床に光るものが散らばっている。壁にも、天井にも。黒い宝石か何かだと思ったイレブンだが、正体を知って慄然とする。目だ。通路一面に人間の目がある。眼球が転がっているというのではなく、ちゃんと眼球は床や壁に埋まっており、その無機物が瞼の代わりをしている。目がスマホのライトで反射するということは、そのすべてがこちらを見ているということだ。
「あれ何だよ!」
「俺だって分かんねぇよ。全部踏んづけてやるって言ってんのに、六車がパニック障害らしんだ」
「パニック障害って、人混みとか人前に立つと死にそうになる病気だろ? じゃあ、発作を起こしてたのか。今は大丈夫なのか?」
六車はもうソラの支えなしで立っているが、あいまいな返事をした。
「またいつ起こるかは分かりません。停電でパニックになるとは自分でも思わなくて。学校で演奏の授業や文化祭の練習も平気だったので、人前でパニックになる症状もしばらくは出なかったんです。今回船の旅行ももう発作はないと思って決行したんですけど。やっぱり駄目でしたね。視線恐怖症の症状もあって。どうして初対面のイレブン君と普通に話せたんだろうって不思議になるぐらいだ」
「視線恐怖症なのか。不特定多数の視線。だから目か」とソラが納得する。
イレブンは嫌な予感がした。指が降ってくる天井、目に覆われた通路。それが、自分一人の幻覚だったら、自分の事故の後遺症だから仕方がないと卑屈にもなれるのに、ここにいる三人が同じ幻覚を見ていることになる。
「あのさ、ソラ。俺さっき澪の兄貴にあったんだけど」
「あいつの兄貴?」
「ほら、澪と女社長が霊がどうとか言ってただろ。あれって、レイって名前の兄貴みたいで」
「この船には俺たちしかいないんじゃないのか?」
「なんていうか、上手く説明はできないんだけど。その兄貴ってのがまだガキで」
「はぁ? もっと分かりやすく話せよ」
「澪より年下なんだ。まだ小学生ぐらいだった。でも、そのガキ、髪が長くて、手は焼けただれてたし、なんだか本当に幽霊みたいで」
「お前幽霊信じないんじゃなかったけ?」
ソラは面白そうに言う。まるで肝試しに参加している気分なのだろう。
「まじめに聞いてくれよ」
「ああ聞いてるよ。目もあっちにあるしな。で、その兄貴ってのは役に立つのか?」
「それは分からないけど」
恨みがましく睨んできたあの目を思い出すと、安らかな状態にあるとは思えなかった。
「兄貴は焼けてたんだよな。焼死したのか?」
「そこまでは分からないけど」
「そういえば、この船って一代目あおいとりを改装したんだったよな。原因は火事だぞ。死人って出てたか? 十年ぐらい前の事件だよな」
十年と聞いて、イレブンはレイが澪の兄貴だと確信する。
「新聞記事でも読まねぇと、分からねぇか。とりあえず今の問題だ。俺はあんな目なんて踏みつぶしてやるけどな」
「グロくね?」
「どっちみち俺はもう一度六車を運ぶ」
六車はさすがに恥ずかしいのか大げさに手を振る。
「歩けるよ。ただ、目を合わせなかったらいいんだ」
イレブンは閃いた。
「じゃあ、こうしよ。俺、懐中電灯消すわ。真っ暗にすれば目を見なくてすむだろ」
「イレブンはそれで歩けんのか?」
「ソラこそずっと懐中電灯なしで歩いてるのすごくね?」
「俺は夜型だから」
いつ悪魔がやってくるとも知れない。イレブンは懐中電灯を消し、六車もスマホのライトを消した。トイレは闇に包まれる。
通路に出た。進行方向を三人で確認するが、互いの顔はすでに見えない。心なしか六車の息遣いが少し荒くなる。長身のソラが先頭に立つと、自然と視界は遮られる。六車が目を見る心配はなさそうだ。六車を挟んで最後尾にイレブンはついた。
「歩くぞ。やばくなったら俺をつかんでもいいし、壁に手をついてもいい。もし壁の目が気になるなら全部潰してやれ」
ソラが歩くとカエルを踏みつぶしたような、球体が弾けた音がする。六車、イレブンと続く。ぷっちんぷっちんと、音だけ聞けばプリンを皿に出したときのような間の抜けた音なのだが。イレブンは足が滑りそうになる。足首にゼリー状のものがかかって、気持ち悪い。きっと目は暗闇の中でも上を行く者を見据えている。踏みつぶされる寸前も。
真ん中の六車が足を取られて、バランスを崩した。ソラに寄りかかったのでソラといっしょに壁に寄りかかる。イレブンは前の二人がいなくなったことで、勢いよく何個か目を踏みつぶした。
「うわ、キモすぎ。六車大丈夫か? ソラも平気か?」
「壁のやつに指突っ込んだけどな」
それを聞いた六車がむせる。
「ソラやめとけよ。六車がやばい」
イレブンが六車の背をさすってやろうと踏み出したとき、ジェルのような踏み心地とは違うごろっとしたものを踏んだ。ソーセージ大のそれは、スニーカーの裏でぐびちょぐびちょと、のたうっている。
「……指だ。指が追って来た」
天井から指が降ってきている。イレブンの肩に小指が乗る。たまらずイレブンは我先に走り出した。自分でもわけの分からない悲鳴を上げていたことは分かるのだが、叫ばずにはいられない。
「待てイレブン! 六車も!」
ソラの制止も聞かずイレブンはアトリウムまで突っ切った。同じ暗闇でも開けた場所に出たことで、安心して吸える空気の量が違った。
あとから六車が来て後ろから追突された。二人で盛大に転んだ。
「やばかった」
見えないだけに余計に気持ち悪い。走ったことで振り落ちたはずの指の感触が、まだ肩に残っている。肩をこすりまくる。それから、息も絶え絶えな様子の六車のために懐中電灯を点けようとして、点かないことに気づく。揺さぶってみるとなんとか点いた。
「あれ? ソラは? なあ六車。ソラは?」
「わ、分からない」
ソラならすぐに追いつくはずなのに、ソラが来ない。確かめないといけない。かといってあんな場所には戻れない。イレブンは今になって自分がソラなしではどうしようもない野郎だと気づいた。親友を助けに行く勇気もない自分が呪わしい。
「クソ。ソラ、頼むから出てきてくれよな」
イレブンは懐中電灯で元来た道を戻る。
「六車は八階に上がれ。大階段かアトリウムにいれば、絶対誰かが通る。俺もあとから追う」
上階から誰かの走る足音がした、乱れた懐中電灯の動きが降り注ぐ。
「きゃああああああああああああああああああ」
八階からだ。イレブンと六車は手すりから上を見上げた。八階の吹き抜けから、女社長が落ちてきた。




