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指切りの船  作者: 影津
13/23

3-5

 七階にある展望大浴場は、窓から海を一望できるあおいとりの名物だ。男性用が左舷に、女性用が右舷にある。


 懐中電灯を持たないソラが先頭で、のれんを押しのけあとから女社長とイレブンがソラの進む先を照らす。


「なんか磯の香がしないか?」


 イレブンが尋ねると、女社長が忌々し気に言う。


「それ、今何か関係あるの?」


「なんか。海っぽいなって」


「分かったわよ、おかしなことって思ってるんでしょ。認めるわ。でもね、磯の匂いが風呂場からするってだけで、怪奇現象だとか思わないからね。今日の清掃員がきちんと仕事をしていないってだけなんだから。あとで報告書に書いてやるわ」


「死人が傍にいたら線香の香りがするっていうだろ?」


蓮寺(はすでら)、あなた覚王と大して変わらないわね」


「そんなこと言い合ってないで。お二人さん。心の準備はできたかー?」


 ソラから惨状を聞かされていたので、イレブンも女社長も二の足を踏んでいた。


 更衣室から浴室への扉を開くと、湯気とともに血腥(ちなまぐさ)さが鼻を突きイレブンは顔をしかめる。女社長もむせた。


 浴槽の周りからすでに血まみれだった。湯は真っ赤に染まっている。湯船の中央に青い尻が浮かんでいた。くせ毛だ。勝木田だ。その背も真っ赤に染まっている。


 鈍器で滅多打ちにされたようで、肩甲骨やわき腹あたりの肉が陥没して、えぐれた皮膚が反り返ってひだ状になっている。ぽこんと何かピンポン玉みたいなものが、湯に浮かんできた。目玉だ。温泉の熱で半熟卵のように白濁しているが――。


「引き上げるぞ」


 ソラが靴だけ脱ぎ、服のまま血の風呂に飛び込む。勝木田を抱えて仰向けにする。その丸い顔には両目がなかった。眼窩から、目玉を固定する筋繊維が血の涙となってこぼれ出ている。


 一瞬ひるんだソラだったが、なんとか勝木田の亡骸を湯船から運び出した。イレブンも勝木田の腕を取る。


「うわああ」


 亡くなった人に対して失礼だが、イレブンはどうしても我慢できなくなって、せっかく取った手を放してしまう。女社長がイレブンの代わりに勝木田を受け止めた。流石の女社長も血塗れの風呂場の遺体に戦慄しているのか、言葉少なに「酷すぎるわ」と小声でつぶやいた。


 勝木田の遺体を更衣室まで運ぶことになり、イレブンはついて行った。勝木田一人の血とは思えない量の血液が、浴槽の外まで溢れていた。


 暗闇の更衣室は、懐中電灯の灯りだけが鏡に反射して不気味だ。おかげで勝木田の惨状が詳しく分かるのだが。勝木田の主な外傷は腕に集中していた。


「これは防御創ね」


 刑事ドラマとか、ニュースで聞いたことがある。凶器による攻撃を防御したときにできる傷だ。ということは、勝木田は相手と向かい合っていたことになり、襲われた後、または死後になお執拗に背後からも殴られ続けたことになる。裸とはいえ、あまりにも無防備で悲惨な状態だ。ほかに出血が酷い場所は太ももの傷だ。


「見ろ。右手の人差し指についてるのは、目玉じゃねぇか」


 ソラの指摘に女社長がふぅうと、恐怖を押し殺したようなため息を吐く。一刻も早くこの場から逃げ出したいのだろう。


 イレブンも疑問を口にする。


「ソラ、勝木田は自分で目を抉り出したのか?」


「可能性はあるな。左手の人差し指にも、何か白いゼリー状のものが付着してるしな」


「それって、おかしいよな。敵が来て、一度は防御姿勢を取ったけど、自分で目玉を抉り出して、そのあと後ろからも襲われたってことだろ?」


「おかしいことだらけだぜ、まったく。だいたいこれだけ勝木田をめった打ちにした殺意のある奴が、頭をほとんど狙ってねぇんだよな。俺だったら喧嘩するときは、まっ先に相手の意識を奪うためにアッパーで顎を狙うか、鼻を打つ。とにかく脳を揺らせば人間の意識なんて簡単に飛ぶからな。そもそも、防御されないためには、不意打ちで後頭部をがつんとやれば済む。まるで、あえて急所は外してやってるぜみたいな、嫌な殺し方なんだよなぁ」


「凶器は何かしら。まだ犯人がこの船にいるってことよね」


 女社長の指摘にイレブンはぎょっとする。


 あるはずの斧がないこと。消えた乗客。なくなった膨張式救命筏。


「これって、ミステリーのクローズドサークルなのか?」


「イレブン、お前、本読むのか? 意味ちゃんと分かってんのかよ」


「分かんねぇ」


「だろうな。ちょっと来い」


 ソラに引き寄せられる。耳元でささやかれた。


「これは斧を持った人間の犯行じゃねぇ。凶器はバールだ」


 喧嘩が強いソラの言うことだ。傷痕から分かったのだろう。


「だから、斧を持った人間は別にいるし、殺人鬼もいるってことを頭に入れとけ」


 警戒することが増えただけではないか。


「ねぇ、二人で何をこそこそ話しているの」


「凶器はバールだ」とソラが堂々と言うので女社長は面食らう。


「見て分かるの? あなたがやったんじゃないの?」


 女社長が嫌味っぽく言う。どこまで本気で言っているのかイレブンには分からない。ソラは何故かへらへら笑う。


 ――煽ってどうする。


「もういいから、早くここから出ましょうよ。流石に血腥(ちなまぐさ)すぎるわ」


「そうだな。一度戻るか。ほかの奴らにも、この船に殺人鬼がいるってこと伝えた方がいいしな。しかも、その殺人鬼は勝木田の血液恐怖症を利用して殺した、性格の悪い奴だってこともな」


 七階から八階へ向かった。


 ソラを先頭に、女社長を挟んでイレブンが最後尾で歩くのが暗黙のルールになっている。一列にぞろぞろ歩くとRPGゲームのキャラみたいで、暗闇を歩く怖さが少し紛れる。


 澪と消炭先生はスイートルームで待ちくたびれていた。


 澪が、何かあったとイレブンらの表情から悟り、駆け寄ってきた。臭いで分かったのだろう、いぶかし気な表情でソラを睨んだ。


 ソラの顔や手には血が付着していた。幸いソラは赤のパーカーと黒のスキニーパンツだったので、服の変色までは誰も指摘しなかったが。着ているソラはずぶ濡れのままだし相当気持ち悪いはずだ。それにも関わらずソラは殺人鬼がいることを伝えるのが先決と考え、勝木田が大浴場で何者かに殺害されたことを伝えた。


「死因は何かしら」


 質問したのは消炭先生だ。


 イレブンは消炭先生が臨床心理士なら、医者としての知識もあるんじゃないかと期待した。


「そういや、あんた誰」


 ソラは消炭先生を知らなかった。


「俺のカウンセラーの消炭先生だよ」


「マジかよ。イレブン、本格的に医者の世話になってたとはな」


「勝木田の遺体だけど、先生に見てもらったらどうかな」


 女社長が割って入ってくる。


「駄目よ。現場は保存するのが基本って刑事ドラマで言うじゃない。それにあんな場所二度と行けないわ」


 イレブンもあの血の海を思い出すと、今日何度目かの吐き気に襲われる。消炭先生も何故か消極的だ。


「私も血は苦手で。それに現場を見ても死因は分からないわ。あくまで私は心理学を専門としているから。凶器はそう、あなたがバールだと予測してくれたのね? ソラ君かしら? いつもイレブン君が自慢の友達だって紹介してくれてるわよ」


「ちょ、恥ず過ぎるわイレブン。先生に何話してんだよ」


 イレブンも照れ笑いをする。


 ――先生。守秘義務ぐらい守ってくれよ。


「イレブンの先生、俺、死因も見当つくけどな」


 そうソラが言って腕組みする。


「あれだけの血の量だ。血を失ったことで起きるショック死だろ」


「医学用語では失血性ショック死ね」と消炭先生が補足する。


「一番酷かったのは太ももの傷だった」


「なら、大動脈が切れたのかもしれないわね」


「でもおかしいんだぜ。イレブン、あの血の量は人一人分の血だったか?」


 殺人事件の現場を初めて見たイレブンには分からないが、あの血の量は確かにおかしい気がした。


「そういえば、さっきソラが言ってたよな。殺人鬼は、勝木田の血液恐怖症を利用してるって。あれってつまりどういうこと?」


 ソラは複雑な顔をする。


「たぶんだけど、勝木田は防御創で腕が傷ついた時点でパニックになったと思う。勝木田を襲った奴は、勝木田が自滅するよう仕向けた」


「じゃあ、ソラ、殺人鬼が勝木田を襲ったのは血を見せるためだったのか? 勝木田は、自分の血を見ないで済むように目を抉るしかなかった??」


 イレブンは自分でそう言いながら寒気を感じた。


「昼の転落事故のとき、あいつの慌てぶりを見ただろ? あり得なくはない」


「でも、やっぱり大浴場の床の血の量はおかしい。まさか、勝木田の血じゃないのか」


「かもな」


「覚王、それじゃあほかに誰か死んでるわけ? 勝木田以外に遺体はなかったわよ」


「六車も行方不明だ。六車の血の可能性もなくはないが、それでもあの血は一人か二人の人間の血の量じゃなかった」


「シャイニング?」


 イレブンがつぶやく。


「なんて?」


「亡くなった親父が昔観てた映画なんだけどさ。ホテルのエレベーターで急に血が波になって溢れてくるんだけど。そういうのかなって」


「それはいくらなんでも現実的じゃないわよ」


 女社長に冷ややかに言われたが、発言した本人は震えている。


「さっきから寒いよね?」


 澪がはじめて口を開いたことで、停電してから、クーラーが停止していることに気づいた。八月末の夜は連日熱帯夜が続いているので、寒いのはおかしい。汗をかいたのはさっき風呂場にいたときだけだ。


 ふと見ると、部屋のドアが開いている。


「やだ。ちょ、冗談やめてよ。最後に入った人、閉めなかったの?」


 女社長が引きつった笑みで冗談めかして言う。


「俺はちゃんと閉めたよ」


 イレブンは最後に入室したとき、ちゃんと扉を最後まで引いたことを思い出す。


「勝手に開いた?」


 澪が念を押す。


「やめなさい澪。母さんがこういうの嫌だって知ってるでしょ?」


「でも、(れい)だったら?」


 女社長が澪に駆け寄り頬を平手で打った。


「馬鹿なことを言うのはやめて! 私にはあなただけなの。これ以上思い出させるのはやめて」


 イレブンはソラに聞く。


「レイ? 幽霊ってことか?」


「霊って聞こえたよな? あのおばさん、なんだかんだ幽霊信じてんのかもな。否定するってことは」


 澪は頬を打たれたのに何事もなかったかのように、訴えた。


「零はこの船にいるよ。転落事故のとき、どうして勝木田さんが走ることになったか分かる? 私、展望デッキにいたときたまたま全部見てたんだよ」


 ソラが一八〇の長身でぶるぶる震えて怖がっているような演技をする。


「霊がこの船にいるらしいぜ」


「ちょ、ソラふざけんのやめろよ」


「イレブンも怖いのかよ」


「いたら困るだろうが」


「……なんで?」


「なんでって、勝木田を殺した奴も人間じゃないかもしれないだろ」


 部屋が静まり返る。イレブンは何かまずいことを言ったのかと懐中電灯を持つ手を自分の顔に下から当てる。


「霊が出るんすか?」


 女社長より早く澪の拳が飛んできた。不意打ちで鼻面を殴られたイレブンは、消炭先生のベッドに仰向けに倒れ込む。


「あーあー、イレブン君。しっかり。澪さんも本気じゃないから」


「いや、今の手加減なしの本気だったよな。ソラ、見ただろ。脳を揺らす正拳突き」


「ああ、今のは痛かっただろ」


「俺の鼻折れてない?」


「おおー。今勝木田がいなくてよかったぜ。鼻血出てるぞ」


 イレブンが鼻血を先生に拭いてもらっている間、澪は唾を吐く勢いで罵った。


「しっかり話を聞きなさいよ。この不良ども! いい? 勝木田さんは展望デッキに上がって来たばかりで、友達の六車さんと一緒にいたけど、何かを目撃して驚いていたの。それで慌てた勝木田さんが振り向いたときに、六車さんに勢いよく顔面をぶつけて、鼻血が出て。それでパニックになって走ってしまって、そのまま海に転落したのよ」


 女社長が立ち上がる。澪にゆっくり近づき頭を撫でる。


「お願いだから、その先は言わないで」


「お母さんもあのとき見えたのかなって、てっきり私は、そうだと思ってたのに」


「私には霊感がないし、何かがいることも信じられない。だけど、それを信じるあなたまで信じられなくなるのが嫌なの。だから、お願い。何も言わないでちょうだい」


「どうして? お母さんには見えなくても、勝木田さんや私は見たんだよ。勝木田さんが驚いていたのはね。お兄ちゃんが立っていたからだよ」


「お兄ちゃん?」


 澪は二十歳前後だ。イレブンはデッキで目撃した、髪の長い少女のような少年を思い出した。年は十歳ほど。澪の兄とは考えにくい。腕が焼けただれていたことから、幽霊なのかもしれないのだが。もし、あれを勝木田も目撃していたとしたら。


「やめて! 聞きたくないわ! 私の子供はあなただけなの澪! お兄ちゃんはもういないの! 忘れて! 忘れてあげるの! 私があなたのためにどれだけしてあげたか分からない? 毎月塾に通わせてあげてるし、お洋服も毎週買ってあげてる。それなのに、これ以上」


「零が呼んでる」


 澪は開きっぱなしになっている部屋から飛び出して行った。


「待って澪!」


 イレブンとソラ、消炭先生が唖然とする中、女社長がイレブンを突き飛ばして部屋の外に押し出した。


「不良ども、澪を連れ戻して!」


「ええー。俺関係ないじゃん。あんたも行こう? てか、俺は六車さんの無事を確かめたいし」


「澪が先よ!」


 女社長が半狂乱になる。消炭先生が助け舟を出してくれた。


「ちょっといいかしら。六車君とは私はまだ会っていないんだけど、探した方がいいと思うわ。殺人鬼の凶器は分かっても、殺害現場は不可解な点も多かったんでしょう? 彼は懐中電灯を持ってるの?」


「いや」とソラが即答する。


「人は長時間暗闇にいると、健康な人でもおかしくなっちゃうから。勝木田君は血液恐怖症だったのよね? イレブン君もトラウマがあるの。そういうの偶然なのかしら」


 女社長が目を怒らせた。


「うちの澪を一緒にしないでくれる? あなたに澪が言ったのかもしれないけれど、あの子は正常よ。だからこそ、幽霊なんかを信じて、もういない兄のことを追いかけて欲しくないの」


 女社長が澪を追って出て行った。懐中電灯が一つ減り、会話するのにも話者の顔を照らさないといけないレベルになった。


「澪もなんかあんだっけ?」とソラ。


「火がどうとか言ってなかった? 火恐怖症ってあるのかな」


 イレブンの問いに消炭先生が即答する。


「あるわ。パイロフォビア。澪さんにはお母さまがついているし、私たちは六車君を探しましょうか?」


「あ、じゃあ俺とソラで行って来るよ。先生はここで待ってて。ドアはちゃんと閉めてな」


「いつから頼もしくなったの?」


 消炭先生は不思議そうに口元を緩める。


「ソラがいるし」


 消炭先生とソラの目がかち合っているようだが、ソラは懐中電灯を持っていないので、イレブンにはその表情が分からなかった。


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