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指切りの船  作者: 影津
10/23

3-2

「おい、勝木田しっかりしろ」


 勝木田は六車の介抱のおかげで、五分ほどで意識を取り戻した。


「は? な。なんや。俺、なんかふらっときて……」


 六車は勝木田が再び血に驚いてしまわないよう、勝木田を料理の置いたテーブルから遠ざけて座らせた。それから、自分が吐き出した血糊のついたテーブルを綺麗にし、服についた汚れも洗いに行った。


 座席は百席以上あるのに、未だ誰もレストランに来ない。


 勝木田がイレブンとソラを遠巻きに見ながら、非難するように強い口調で言った。


「な、なんやねん。ここの料理は」


「俺らも聞きたいよ」


 イレブンは勝木田が起きるまでに、トイレで三回吐いた。ソラはけろっとしているが、先ほどの木片で口を切ったのか、口に指を突っ込んでいじくりまわしている。


「血が出てるのか?」


 イレブンはソラを心配して言ったのだが、「血」という言葉に反応した勝木田が睨んでくる。どうやらソラの口から血は出ていないようで、勝木田が一番ほっとしていた。


「いきなり何でこうなったのか」


 イレブンは誰に尋ねるでもなく呟く。


 豪勢な料理が一瞬にして(おぞ)ましいものに変わっていた。イレブンの食べたスモークサーモンとオリーブのカナッペはサーモンでもオリーブでもなく、スライスしたニンジンが腐った状態で皿に塗り広がっている。ソラの食べた生ハムとキウイのサラダは、焼け焦げた木材の破片だった。サラダのサの字も見当たらない。六車のトマトのガスパッチョは、血液だった。こちらも、トマトが見当たらない。


「あっちはもっと酷そうだぞ」


 ソラが料理の盛られた皿を指差した。イレブンは恐る恐るソラに追従する。広いレストランにすえた臭いが広がっているので、結果は見なくても分かる気がした。


 寿司やローストビーフ、豚の丸焼きなどは腐ってハエがたかっている。天然鯛のリゾット、剣先イカのフリット、バケット、バスク風チーズケーキなどはうじ虫が固まりになって食材を覆っていた。大学芋、スペアリブ茶漬け、ソラの口にしたフォアグラハンバーグステーキはもはや食材などではなく、ゴキブリが皿に溢れているだけだった。


「食べた瞬間、これとか。この船おかしいよソラ。誰かにどうなってるのか聞こう」


「聞くって? レストランには俺たちしかいねぇじゃん」


「俺らしかいないのが、そもそも変なんだよ。バイキング形式なのに、料理を食べたら誰が追加するんだ? そうだ、澪を探そう。あと澪の親も」


 ソラは渋面を作る。


「女社長? あいつの船だけど何か分かるのか? 船員捕まえた方が早いんじゃ?」


「人の声がほとんどしないの気づいてる? レストランの従業員がいないだけだと思うか? もしかして、ほかの乗客もどこかに行ってるんじゃないかと思って」


 こちらをつまらなさそうに見ていた勝木田が声を荒げた。


「あんさんら呑気やな。通路も展望デッキも大浴場も、どこにも人なんかおらんで」


「え? どういうことだよ、勝木田」


「いきなりため口かいな。まぁええけど。このレストラン来る前に色々寄ったんや。六車が先にレストラン行って場所取ったる言うから俺も安心して。寝かせてもろてたんが七階の個室やったから、ちょっと元気になってうろうろしとったら、大浴場のとこに行ってもうた。人少なそうやから入るなら今か思うて覗いてみたら、人おらんくて。六車呼ぼう思ったらスマホ圏外やん。しゃーないから六階まで降りたんやけど、あんなにおった客の誰とも会わへんの。そんで、レストラン入ったら入ったで六車の奴、えらいもん見せてもろて」


 勝木田は六車の吐いた血のスープを思い出したのか身震いする。


 イレブンは再びスマホを確認したが、圏外のままだ。


「じゃあ、俺とソラがレストランに入ったときにはすでに、おかしなことが起こってたことになるのか」


 言いながらイレブンは最上階の展望デッキで目撃した、火傷を負った髪の長い少年のことを思い出していた。


「とにかく、手分けして人を探そう。誰でもいい。連れてきて。そうだな、ライブイベント会場の六階アトリウムに集合で」


 服を洗い終えて戻ってきた六車もこちらに向かいながら話をちゃんと聞いていたのか、大声で賛成してくれる。


「この階集合ですか。今、そこのアトリウムの前を通りましたけど、おかしかったですよ。もうすぐライブ開始時刻の八時になるのに、何の準備もしてないんです。普通、当日の朝からグッズ売ったりするじゃないですか。楽器すら置いてなかったですよ」


 イレブン、ソラ、勝木田の三人は六車にいざなわれてレストランをあとにする。六車の言ったとおりだった。アトリウムでは何も用意されていない。さらに、ソラが変なことを言う。


「この船さっきから、のろくなってねぇか? 航行速力が落ちてる」


「どうしてそんなことが分かるんだ」


「だてに無免許運転してねぇよ」


 ソラ最大の皮肉だろう。


「そういえば、女社長は勝木田転落事故のこと船長に報告しに行ったんじゃなかったっけ?」


「そうか、操舵室に行けばあのおばさんはいるわけか。やっぱパス。イレブン任すわ」


「分かった。じゃあ、ソラは澪を探してくれよ。スイートに泊ってるらしいから、探す部屋はそんなに多くないだろ。澪以外にスイートの客がいるかどうかもチェックしてくれよな。あ、そうだ消炭先生は和室スイートルームにいるんだった。左舷の部屋な」


「おっし、任せとけ」


 勝木田はふらっと上の階に上がろうとする。ソラが咎めた。


「お前はどこ探すんだよ」


「どこでもええやろ。てか俺、晩飯ありつかれへんかったんや。なんか食いたいねん」


「なんかって、上には食べるところねぇぞ」


「スイートラウンジあるんちゃうか?」


「スイートに泊ってるやつしか使えねぇんだよ」


「なんや偉そうに。あんさんスイートルームか? えらいガラ悪いくせに、生意気にスィィィィトや言うんか? 今日に限ってスイートやめるんちゃうかったわ。今度から毎回スイートに泊ったるわ」


 六車が苦笑いして勝木田をなだめる。六車を振り払った勝木田は、アトリウムの大階段を上がって行く。六車はイレブンについてきた。


「こっちの方向だと、ソラさんも同じだったんじゃないですか?」


「操舵室ってスイートルームの方だから、三人で行けばよかったな。全然、手分けしてないっていう。つき合わせてなんか、すんません」


「イレブンさんは今日、どの曲を聞きに来たんですか?」


「え? ライブ? いや特に」


「俺は全部聞き込んで来ましたよ。オススメはヒップホップユニット『Hopscotch』ですね。この船、志布志行きじゃないですか。ホップスコッチは鹿児島県出身なので、選ばれたんじゃないかと思うんですよね」


「詳しく調べて来てんだな。六車はこの船のライブを観て、そのあと志布志に着いたらどうする予定なの? 俺とソラ、何も考えてなくて。そのまま新幹線で帰ろうかなと思ってたぐらいで。よかったら一緒に観光しない?」


「いいですね。でも、俺と勝木田は往復切符を買ったので、帰りもこの船と同じ形をしたあおいとり三号で帰ります」


「乗るだけで楽しいってやつですか。俺もそういうの好きっす」


「イレブンさん、気が合いますね。大阪に帰ったら一緒にバンド組みましょうよ。ギター持ってるんでしょ?」


「一度捨てちゃって」


「でも、今は持ってると」


「どうして分かったんすか」


「顔がにやついてました。イレブンさんも、事故……ですか?」


 イレブンは小指の欠損のことを聞かれたのだとすぐに分かった。不思議と嫌な気はしない。


「海難事故で」


 それだけ言うと六車は何も尋ねてこなかった。水上バイクに乗る身だと、海難事故の悲惨さが分かるのだろう。六車が無免許だとすると、運転するのは勝木田だろう。イレブンは六車にも負い目のようなものを感じ取った。これ以上お互いに事故のことは聞かない方がいいだろう。


 八階に着いた。人の気配がまったくない。念のため夜の展望デッキも確認したが、誰もいない。


 夜の海が不気味だ。屋内に戻り通路を確認する。試しに、一番近くのスイートルームをノックするが、返事はない。施錠もされている。


「本当にみんなどこかに消えたみたいだ」


「この確認はソラさんがしてくれるでしょうから、俺らは操舵室へ行きましょう」


「そうだな」


 操舵室といっても、乗客が入れるわけがないのだが。一応は、閉じられた扉の窓から、中を覗いてみる。船長と航海士が消えている。舵は? 操縦はどうなっているのか?


「やばいぞこれ」


「ええ、かなりまずいですね」


「おお、イレブン! 澪を見つけてきたぜ」


 ソラが社長令嬢こと澪を連れて来た。


「ちょっと、引っ張らないでよ、馬鹿! 婦女暴行罪で訴えてやるんだから!」


「まあまあ、怒りなさるな」


「なあ、ソラ。フジョボウコウザイって? 消臭剤みたいなのか?」


「違うだろ。てか、言ってるお前も、意味を分かって使ってんのか? 別に暴行はしてねぇ」


「じゃあ簡単に説明してあげるわ! 痴漢よー! キャー助けてー! この人変態なんですー!」


 ソラが離すと逃げて行くので、イレブンは慌てて道を塞いだ。


「澪、落ち着いて」


「は? 呼び捨て? あたしはあなたの彼女か!」


「いやーそういうわけじゃ」


「ここにいたの澪!」


 女社長がスイートルームエリアの通路の奥から走ってきた。誰かいたことにイレブンは安堵したが、ソラは一歩引いていた。


「部屋にいなさいって言ったわよね」


「この人が部屋の扉をガンガン殴るから、うるさくて開けたら、あっちこっち連れ回されたの」と澪はソラに人差し指を突きつける。


 女社長の剣幕が鬼に変わる。


(かく)(おう)ソラ。よりによって、あなたが澪を連れ回すなんて」


「何かあるといけねぇから保護してやったんだ」


「なんて図々しい不良なの」


 イレブンは即座にフォローを入れる。


「今、緊急事態じゃないっすか。人が誰もいないんすよ」


「それくらいとっくに知ってるわよ。さっきの転落事故のときからずっと、船長が見つからないの。航海士も機関長もね。それだけじゃないわ、乗客五百人が消えたの。やっと、誰か見つかってちょっとは安心できたかと思ったら、よりによって一番消えて欲しい人たちが残ってるって、どういうことか説明してもらおうかしら!」


 火に油だったようだ。


「あ、女の人おるやん」


 コーヒー片手にふらっとやってきたのは、勝木田だ。本当にスイートラウンジでくつろいできたらしい。


 女社長の剣幕が和らぐことはなかった。


「どうせくだらないお仲間なんでしょう?」


「は? うち、こいつらの不良仲間ちゃうわ」


 イレブンは勝木田の煽るようなまなざしが我慢できなかった。


「あんだと? ソラに喧嘩売んのか?」


 肝心のソラはなんだか楽しそうな雰囲気にわくわくしはじめている。


「小さい方が俺になんか言いたいことでもあるんかいな?」


 イレブンの身長と勝木田の身長はほとんど変わらない。


「小さいのはお前もだろ? 俺らお前になんか迷惑かけたか? 言ってみろ」


「ああ、いっしょにおるだけで、このオバハンにとやかく言われるのが気に入らんのじゃ」


 女社長が気色ばむ。


「あなたたちねえ!」


「お母さん、ちょっと待って」


 澪が何を思ったのか静かにするよう手で制しした。


 一瞬、通路の灯りが点滅した。


 今のはなんだとその場にいた全員が思ったが、誰も口にしなかった。澪でさえも薄気味悪いものを感じて、手を引っ込めた。


「ほ、本当に人がいないのかな? 今鼻歌が聞こえた気がしたんだけど。聞こえてない? え、やっぱり、あたしだけ? ……とにかく、言い争ってる場合じゃないよね。お母さんも、次にあたしたちがどうしたらいいのか教えて」


「そうね。船が減速してるみたいだし、このままだと遭難ってこともあり得るわ。せめて操舵室に入ることさえできたら、私が操縦できるのに」


「やっぱ減速してるんだ。ソラ当たってたな」


 イレブンはソラを誇らしく思う。


「エンジン音が変わったからな。それに、振動も減ってるし。どこかでエンジンが停止する可能性もあるんじゃねぇかな」


 女社長が同意する。


「そうよ。だから、ちょっと来なさい覚王。操舵室のドアをぶち壊すわよ」


 ソラが引き抜かれる形になったので、置いていかれてはたまらないとみんなでぞろぞろついて行く。

 女社長のスイートルームから椅子、長テーブルを運び出し、それらの家具で操舵室のドアを壊すつもりらしい。みんなで女社長とソラを見守る中、勝木田が一言。


「暇やし、風呂入ろか」と一人で大浴場に向かって降りていく。


「勝手な奴でごめんね」


 六車が謝る。


「六車も風呂入らんか?」


「俺はまだこの人たちといるよ」


 勝木田の舌打ちが階下から聞こえた。船に人が溢れていたときなら、あんなにはっきりとは聞こえないだろう。


 操舵室の鉄製のドアは頑丈で壊れそうになかった。


 汗一つかいていないソラだったが、いつもの馬力が発揮できていないように見えた。


「ソラ、代わろっか」


 イレブンはソラと交代して、同じように椅子をぶつけてみた。女社長といっしょに長テーブルを持ち上げ、助走をつけてぶち当てたりもしたが、全然駄目だ。


「あなた、さっきから思うんだけど」


「なんすか?」


「覚王より力あるわね」


「それはないな。ソラは調子が悪いだけだと思う」


「いいえ、なんていうか。手を抜いてるとかそういうレベルで……。何でもないわ」


「今まで手伝ってもらっておいて、ソラが手を抜いてるって言うんですか? 言いがかりはやめてもらえます?」


「そういうときだけ、ちゃんと敬語ができるのね」


 イレブンはなんだかイライラしてきた。


「ソラは少年刑務所で刑期をまっとうしたんだ。だから、あんたにとやかく言われる筋合いはない」


「あなたもおかしいわよ。覚王ソラの刑期は、まだ終わってないはずよ」


「仮釈放されたんだ。何か問題があるんすか?」


 イレブンはソラを顧みる。ソラは表情一つ変えずに、女社長の剣幕を面白そうに眺めている。イレブンの視線に気づくと、寂しそうに笑って肩をすくめて見せた。呆れているというよりは、何かを諦めている感じだ。


 女社長は少し考えてから、話題を現在の問題に転じた。


「操舵室は諦めましょ。ここに入れないと遭難信号も出せないし、完全に詰みね。救命胴衣と救命浮環の個数チェックはさっき私がやっといたから問題はないとして。膨張式救命筏の点検を手伝ってもらうわ。あなた、蓮寺(はすでら)十一(いれぶん)だったわね? それから、あなた名前は?」


 六車に名乗らせた女社長は六車を、ソラと澪の見張りにつけた。三人を六階レストランで待機させるつもりらしい。


「あのレストランの惨状を知らねぇんだ」


 ソラがいたずらっぽく言う。


「臭いがたまらないですよね。あれを食べてたと思うと、俺もイレブン君みたいにゲロります」


「俺を見て言わないでよ、六車さん」


 女社長がイレブンを睨む。


「はいはい、黙って着いて行きますよ。ところで、女社長さんはなんて呼べばいいの?」


内仮屋(うちかりや)美保(みほ)。海難審判で散々知った名でしょうに。もう女社長でいいわよ」


 最上階デッキに出て、膨張式救命筏とやらの個数を点検していく。全部で十五隻あるらしいが、一隻も見当たらない。


「どうして! 転落事故があったときはちゃんとあったのに」


 取り乱す女社長。


「この船から降りられる手段がなくなったってことか」


「そうよ。船の現在位置を調べるわ。陸からどのくらい離れているかで、絶望度合いが違うもの」


「そんなのどうやって?」


「テレビで今どこを航行しているか分かるの。もし駄目でも、だいたいの予測はつくわ。この船の航行速力は二十三ノット。時速になおすと約四十五キロ。大阪港を出航してから六時間以上経過しているから、二七〇キロメートル以上航行していることになるわ。和歌山と四国の間ぐらいかしら」


 女社長は自身のスイートルームに行った。信じられないことに部屋番号はE008で、ソラ、イレブン、女社長の順で並んでいた。


「隣とかマジか」


「それはこっちのセリフよ。さっき、覚王は隣だとか何も言ってなかったわよ。あいつ、黙ってたのね。あなたは部屋に入らないで。そこで見てて。ドアの外からよ」


 女社長のスイートルームはイレブンの部屋の作りと同じだった。澪と二人で泊まる予定なのか、化粧品や服が散らかっている。案外整理整頓ができない人なのかもしれない。


 部屋のテレビで船の位置が見られることを、イレブンは知らなかった。船尾にカメラがあるようでチャンネルを変えると、現在の船尾から見える海の様子が映るチャンネルや、これまで航行したルートが表示される地図も見られた。航行中は生放送しているらしい。


「ずいぶん南東に流されてる。本来の航路から大きく外れてるわ。高知県の南東部あたりよ」


 航路から外れるということは、ほかの船と遭遇する機会も減るということだ。自力で航行できなくなった船は、救難信号を出して救助を待つか、ほかの船に見つけてもらうことで救助してもらうしかない。


 女社長がため息をつく。


「あなたと二人で話がしたくて呼んだの分かってる?」


 突然言われてイレブンは戸惑う。


「もういいわ。入って。靴は脱いで」


「あ、はい」


「誰もつけてきてないわね?」


「誰って?」


「言わせたいの?」


 イレブンは気分を害した。


「ソラが尾行してると思ったのか。だとしたら、あんたにもよっぽど疾しいことがあるんじゃないか」


「あなた、覚王の言いなりみたいだから忠告してあげるわ。覚王が今日ここにいること自体がおかしいって気づかないの?」


 イレブンは気勢を削がれてしまう。


「どういう意味だよ」


「あなたそれでも本当に親友なの? 覚王ソラの刑期はまだ終わってないわ」


「仮釈放されたら、残りの刑期は実質刑務所の外で過ごせるはずだけど」


「あのね、あたしが訴えたんだから、訴えた相手がどんな判決を受けたかぐらい把握してるわ。覚王ソラは懲役十五年のはずよ。あなた覚えてないの?」


「え? そんな。いや、違う。ソラは懲役三年で。仮釈放は今年で――」


 イレブンは激しくかぶりを振る。胸に大きな穴が空くような感覚がある。


「仮釈放されるには最低、刑期の三分の一を終えないといけない。十五年の三分の一は?」


「ソラはあと五年も少年刑務所にいないといけないって……?」


「すでに一年入ったんでしょうが。だから残り四年ね」


 ――何があっても戻ってくる!


 イレブンの眼窩に海の闇が広がる。失った指のつけ根に、脈打つたびにハンマーで叩かれているような強烈な痛みが走る。


 ――こうなったのは俺のせいだ。だから、岸まで泳いで助けを呼んでくる。絶対助け呼んでくるからな!


 ――イレブン。待てるだろ? 一年でも二年でも待てるだろ?


 イレブンは自分の口角が引きつるのを感じた。笑えない冗談だと思ったんだった。


 ――待てる。


 そう答えたとき海水が目に入って泣いたことを思い出す。


 ――じゃあ指切りだ。


 ――俺、指が見つからねぇんだよ。


 本当に笑えない冗談だった。ソラは小指を立て苦々しく笑うと、岸も見えない海をクロールでかき分けて行った。


「ねぇ、ちょっと聞いてる?」


 イレブンは女社長の呆れた顔に引き戻される。


「あなた、どこか悪いの?」


 イレブンは失った小指をとっさに後ろに隠した。女社長は事件の概要を当事者である自分たちより詳しく知っている。それでも、イレブンは失った小指を見られることが耐えられなかった。


「なんにしろ、覚王は違法な手段で出所して来たのよ」


 イレブンはほとんど女社長の話を聞いていなかった。自分の大きな勘違いか、記憶の齟齬があったにしろ、ソラは事故から一年経って会いに来てくれた。どんな方法であったにせよ、刑務所から出た目的は、ただ自分に会いに来ることだったはずだ。イレブンはそれが嬉しかった。


「はぁ、今度は何? 嬉し泣き? そういうつもりで指摘したんじゃないんだけど。違法よ。脱獄よ! 今すぐ警察に通報したいぐらい。圏外じゃなかったらね。もうっ!」


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― 新着の感想 ―
最新話まで読まみました、この何気ない真実から核心を突く形式に驚かされました。
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