アヌビスの契約
「そろそろ起きてはくれないかい?」
ケテル・マルクト、かつて深淵賢帝と呼ばれたその男の呼びかけに応じるかのようにアヌビスは目覚める。
無論寝起きもすこぶるいいので、アヌビスはなんの躊躇も無く、目の前にいるこの友人を見返す。
それにしても、2柱アヌビス。彼のような存在が目覚めるということは睡眠を取っていたということだが、アヌビスに睡眠という概念は必要か?
答えは否である、彼は既に肉体的存在ではなくむしろ精霊に近い存在となっているので寿命もなく、肉体的疲労もない。1柱や、3柱であるフレイヤと共通する項目であると言えよう。食事すら必要ない、勿論食べられない訳ではないし味覚も勿論あるのだが。
しかし、アヌビスは精神的疲労の回復のために取れる日は1時間ほどの睡眠に近いことを行う。それはどちらかと言えば睡眠と言うより瞑想などという行為に近い。
「あぁ、全員揃ったか。」
それはともかく、アヌビスが寝ていたこの場所は玉座の上であった。そこで座りつつ眠る。その間に、彼の周りには総勢七つの席が整えられており、それぞれに人が着席していた。
その中に、明らかに椅子ではないものもあった。
それは一言で言えば・・シングルベッドだった、脚は低く、縦長で横の短い、ニ〇リとかいう家具がお安く買えるアソコにありそうな平凡な木のシングルベッドがである、無駄な装飾などは一切されておらず手作り感満載のその貧乏チックな木のベッドには、それにまるで似つかわしくない真っ白なスーツが敷かれている。
玉座の立ち並び、常人なら泡を吹いて逃げ出していそうな重苦しい雰囲気の中に1つだけ異色な雰囲気を醸し出しており、アヌビスは眉を潜める。
「まだ・・寝ているのか?此奴は」
そう、ソイツは寝ていた。布団を全身にかけて寝ていた。日本の成人男性を大幅に上回る、210㎝のその大柄な体躯をすっぽりと包み込むそのフカフカの布団にも驚愕するところだが、それにしても普通に、この剣呑な雰囲気の中普通に寝ているこの肝っ玉の大きさには感服する他はないだろう。
「あ、すいません。この人、『人間滅ぼすとか、そんなこと許容できるか!俺は家に帰るぞ!』とか訳の分からないことを言っていたので・・・・」
「気絶させたの?で寝てるのか、苦労かけるね。スアレス」
「い、いえ!アヌビスさんには色々とお世話になっていますし...」
スアレスとマルクにそう言われたその男は、縮こまりながらそう言う。
ケテル・マルクト、通称マルクが目を細めてスアレスという男を観察する。
ぼさぼさで、方向性もなくだらしなく伸びた金髪が目をも覆い隠すほどの長さで頭を覆っている。
服は茶色を基調とした、どことなく秋っぽさをイメージした茶色いコート。全身から漂う印象は、ただただ胡散臭いの1つにすぎる。歳は20は行っていないような様子だ、とは言っても見た目だけだがーー
気の弱い一般人、マルクが思うスアレスに感じるイメージはその一言であった。
しかし、それが見せかけのみであることはマルクは重々承知している。彼はスアレス。
スアレス=ヴァン=ケイアポリス
彼の名を知らない歴史家は、歴史家と言うに相応しくないだろう。名前からも分かる通りケイアポリス王家に連なるものであり、この男が王になった際、ケイアポリス王国は再び1つに纏まったのだ。
ケイアポリス王国が、人が支配する世の中にあって突然出現し、その後名前のみが脈々と残っていったという話は既にしたように思う。4つのケイアポリスの有名な分裂期の中で、彼は2度目の、ケイアポリス王国分裂時に、それを統一した人物と言われる。ただ、それを歴史家が知っているのにも関わらず一般民衆がそれを知っていたかな関しては疑問を隠し得ない。彼は、影が薄すぎた。
ということで教会にも神認定されていない、波乱に満ちた動乱の時代を1つに纏めて異種種族との交易などを開発したり、魔法技術を軍事的に取り入れたり、その他にもさまざまな当時画期的とされる政策をとった王なのだが...
「取り敢えず、この人は寝たままですし、アヌビスさん。議題を進めてて下さい。すいません」
スアレスがぺこりと頭を下げると、アヌビスがすまないなとでも言う風に苦笑いして話し合いが始まる。
「みんな、今回は集まってくれたこと嬉しく思う。さて、既に知っている者も多いかと思うが・・人種族が我々との約束を破った。」
会議に激震が走る。既に情報を得ていたとしても、流石にそれはあり得ないと、地上でも長年禁忌として人の蘇生は忌避すべき技術であり、犯してはならない冥界の王との約束だ。それを破る人間がいたとは...
「私は、アイテールの提案に乗った方が良かったのかもしれん。人間は、いや人間も愚かだったか。」
冥界の王として、冥界にいるものが勝手にいなくなることは不快以外の何者でもない。しかもその教えは教会を通して現在進行系で禁忌として禁されているのにも関わらずだ。
それが信義を重んじるアヌビスにとっては甚だ不快であった。その意趣返しが人間族の完全滅亡だと言うのだから尚更であろう。
「禁忌を破った人物は、現在悪魔族が保護している。なので悪魔族をも敵と断定、先に亜空界を攻め落とし悪魔大帝を殺す。禁忌を破った人物も殺した後にアヴァロムだ、人間どもを皆殺しにしてやろう」
アヌビスから出される言葉の1つ1つが、部屋が氷漬けになるような静けさを放っている。いつもは豪放快楽、大雑把を旨にしているアヌビスには見えないほどの冷静さだ。
「了解した、メンバーはこちらで選ばせてもらおう。一定の力を持つもの・・具体的には君の殺気を受けてまだ戦意のあった数10億人、人間界にも5万は送っておこうか?そっちは僕とスアレスが行くよ。それでいいかい?スアレス」
「わ、わかりましたマルクトさん・・」
「マルクでいいって、君にそう呼ばれるとなんだかむず痒いな。」
「そ、そんな恐れ多い・・」
マルクのそんな配慮に、スアレスは嫌々と言うように遠慮する仕草を見せる。この異常なまでの遠慮は、史実通りのスアレスにはとても見えないのだが・・そこは置いておこう。
「良いだろう、最後になるのだが。皆いいのか?手前人間を滅ぼそうと目論んでおる、剣を振るい、手段を使い、手前を止めようとしてくれて一向に構わんのだぞ?」
そう、冥界にも関わらず「人間に手出しはさせん!」と襲いかかってきた有志も何人かいたのだ。そんな人物たちは全てアヌビスに触れもできずにボコボコにされ、冥界の奥底に閉じ込められてしまってはいるが。それでも人間が人間を滅ぼす、許容できない事実の筈だ。
しかし彼らから返ってくるのは、それでも良いという声ばかり。アヌビスとの約束を違えた人間族に対する罪深さの方が上回っていたのだ。とは言っても中には、何も無関係なものまで殺しはしないだろうと甘い考えを持っているものの少なくない、精々その人を蘇らせたバカな一族とそれに連なるものを皆殺し程度で済むと思っている者もいた。
浅い、そうそう思っているものの心のうちを見抜きマルクは思案する
(アヌビスは本気だよ、少なくともアヌビスは。全人類を皆殺しにするよ。アヴァロム全土のものを皆殺しにする。そしてそれをアヌビスが決めた以上、確実にそれは起こる)
「良し、では大軍が通れるほどのゲートができ次第出発する!!悪魔界には手前も行く!マルク頼んだぞ!」
「勿論」
思考をしつつマルクは頭を下げる。これからの最善手を必死で考えながらも極めて冷静に。そんな深淵賢帝の思考を妨げたのはーーーー
「やぁ!ここ冷えるねぇ〜寒い!」
1人の、間抜けにも見える声だった。
◇◇◇◇
「げぇ、魔王!?」
「馬鹿な、死んだという報告は来ていないぞ!?」
1人だけ心地よい寝息を響かせながらも会議は揺れる。それもそのはずこの場に素っ頓狂な声をさせて現れたのは「魔王」と通常呼ばれる魔王その人だったからだ。この場に集った亜人や魔族の中にも魔王出身者はいる。そんな面々の中にひょいと入って来たのだ。隣には不自然に眼鏡をクイクイさせてる男がついている。
彼こそが魔王ゲンム、その人である
「・・・・何用だ?貴様が死去したのなら手前の耳にも届く筈だが、階段で転げ落ちて死んだとかならようこそ、冥界へ」
「まさか、僕が死ぬときはもっと劇的に。それこそ父上と同じく絵になるような死に様を見せてみせるよ。神に挑んだとかね」
「神の創り物と訂正するのはやめておこう、貴様の父は全盛期であればアイテール...いやウルフィアスと互角に戦えるほどの実力者だった。その息子が何の用だ?」
「察せてるんだろう?お初にお目にかかります、ゲンムです。交渉に来ちゃったりしちゃったりなんかしちゃったりして・・」
そう言うと、魔王は実に見事と言わざるを得ないお辞儀をし、クロムウェルもそれに倣う。「察せてるんだろう?」と「お初にお目にかかります」の声のギャップの違いが、どちらが本物のゲンムかをわからなくさせる。それを狙っているのかどうかは知らないが。
「・・続けろ」
「人間の殺戮の中断、既に禁忌を犯した張本人は悪魔帝の元にに逃走している。受諾を頂ければフレイヤ以下人側につく神々を説得して悪魔帝の殲滅に力を貸そう。」
「魔族側にメリットがないとは思えないのだが?何が望みだ、死ぬような真似をして来るようなメリットは無いと思うのだが。まさかとは思うが、人間族が貴様たちにした迫害を忘れた訳ではないだろう?」
アヌビスの問いに、ゲンムはポリポリと頭をかく、「復讐もせんとは、今の魔族は腑抜けているのか?」そうボソりと発言した迂闊な魔族の1人の首が、宙を舞った。
首を哀れにも飛ばした魔族が、この世界で消えるように消失する。冥界で死んだ者は、2度死ぬことはない。消失して冥界の魔力を使用して再生する。
魔族の男も、魔力を戻されて復活する。
その顔にはありありとした殺意が浮かんでいた。
「貴様ァ........」
「ごめんね〜首が飛び出そたそうにしてたからつい」
「よせ、今のはお前が悪い」
そう言うと魔族の男はおし黙る。しかし、その顔には自分の後釜にむざむざとしてやられたと言う強烈な屈辱が現れていた。アヌビス、マルク、スアレス以外の面々から殺気が放たれる。
ベッドで未だに寝息をたてながら寝ている者から、熱い視線を喰らっていることにもゲンムは気付いた。
「答えは恩が売りたい、現在の魔族領はグリーンに貸しがありすぎて自己破産しかけていてね。アイツが・・人間領と魔族領の架け橋になって身を削っているこの現状。少しは返したいだろう?返す前に貸した相手が潰れちゃったら世話がない。」
そう、魔族と人間の融和、この高き壁に英雄が望むには、多少なり反発する、未だにエルフや獣人を奴隷として扱っていたい一部貴族にかなりの反発を生んだ。なので教会や、ライト王に掛け合いなんとか国交が生まれつつあるが、婚礼を済ませているアストルフ家、マリス家以外の貴族と疎遠になっており孤立しているのは、そういう訳もあるのだ。
別にグリーンが内弁慶だからとかでは無いはずだ、多分。(イエローの時の方が勿論多いのだが)
だからこそ、ゲンムはここで多少なり借りを返せればと冥界に伴1人連れて乗り込んだ。
クロムウェルの能力は『魂魄魔法』能力名は死んだ魂を自由に操れるというチート能力である。任意などという特殊な事例を除いて、自分と同等程度の強さを持つ者の死にかけの相手を体ごと操るという能力で、支配というカテゴライズの魔法で言えば最上級レベルの魔法である。
また、任意の相手の魂魄を呼び出し、会話などは不能だがその相手の能力を使用したりできる。(ただしその人物のことを良く知っている、具体的には顔、性格をきちんと把握していればいるほど能力は上昇する。)
今回に関しては、既に幽霊族としてクロムウェルが臨死体験をしているゲンムを操って冥界に越させた。
ちなみにどうやって死んだか?
「痛いのはヤダ!痛いのはヤダ!」
「やかましい!男なら覚悟を決めろ!」
という泣き叫ぶゲンムをクロムウェルが捕まえて窒息死させるというホラーな映像であった。
そんな思いまでして、冥界に来てアヌビスと交渉を始めよう。そんな気概を持ってやってきたゲンムに対してアヌビスの返答は
「断る」
この一旦のみだった、あまりに素っ気ない。もう終わりだと言わんばかりにクイっと顎を捻る
「・・おいおい、冥界以外の全ての世界の種族を敵に回す気か?」
「虚勢を言うなよ小僧、神器を1つ手に入れたようで粋がる程度の男が手前に意見するな」
そう、ゲンムは腰に神器を指していた。父より賜った宝具、それはゲンムが王になればなるほどに輝きを増し、ついに神器へと達していた。
神器『灰大熊王」
彼の大剣は叩き潰すことに特化した宝具。その全力の一撃は山を砕き海を割る。
無論斬るにしても先ほどの通り、神器も何も装備していない元魔王などこの通りだ。
「・・確かに、ここでやるのは部が悪そうだね。」
バツが悪そうにゲンムはそう言う、確かにアヌビスは元魔王を斬るのを見逃してくれた。ゲンムに正義があることを理解したためだ。しかし次はないだろう、次の行為はアヌビスに対しての無礼だ。
そう思っているのに、わかっているのに
ゲンムの神速の大剣というハンデを感じさせない抜刀しての居合いは、ふわりと、柔らかい何かに受け止められていた。
スアレスであった、しかし彼が持っている武器は大鎌であった。大釜で受け止められる感触じゃないと、ゲンムは頬を引攣らせる。
あんなに優しく、まるで羽でも切ったかのようなこの感触、灰大熊王を手にしてから始めて得た感触だった。
次の瞬間、反撃で自分の四肢が細切れになるイメージを抱いて下がるものの、追撃は飛んでこない。
「アヌビスさん」
「良いと言っている、私に客人を殺させてくれるな」
それだけ言うと、スアレスの服の裾を掴んでいたアヌビスは、その手をパッと離した。アヌビスを止めたスアレス、そのスアレスが止めに来ることを予知し、斬撃を迎えに行くぐらいの勢いで来たスアレスの裾を掴むアヌビス。
あるいは、もし喰らっていても死ななかったのか...
「去れ、魔族の現王。まだ元にはなりたくないだろう?」
「そうだね〜失礼させてもらうよ」
ゲンムにしては非常に聞き分けよくその場を去る、普通のゲンムならあと5時間は駄々を捏ねるかと思っていたクロムウェルは首を捻りながらもその歩みに続く。
しかしその疑問は一瞬にして払拭された。
アヌビス達の視界から離れた瞬間、ゲンムの後顔から汗が吹き出しているのを見たからだ。きっと顔は汗でびしゃびしゃになっているだろう。
それほどの重圧を受けてもなお平然としていたこの王に、クロムウェルは流石は...と納得する。
「いや〜すごいねアレ、あれは敵に回したくない。グリーン達に味方するのはやめておこうかな?いずれにせよ味方するなら魔族ではいられないなぁ僕としては。帰るよ、クロムウェル。結構これでも頑張ったつもりだぜ?後はグリーン任せたよ」
「仰せのままに、恐らくは十分すぎるかと」
ゲンムの足音が冥界から遠ざかり、いずれ消える
この悲しい足音の消失が、戦争の止められない現実を明確に表していた。




