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*64* なにゆえいるのだじごくねこ

 頭の中がすっきりしたところで廊下を進んでいくと、その先にやや広めのリビングがあった。


 部屋は窓から差し込む朝日で明るく、とても暖かかった。

 誰かがくつろぐための大きな白いソファがどんと置いてあり、白い皿やパン籠が乗せられたテーブルが椅子と共に置かれている。

 一人ではなく()()()のための空間がそこにある。

 室内だというのに空気もずいぶんと新鮮だった。

 埃っぽくないし、何より『あっちの世界』じゃ絶対にないだろうパンの香りが漂っているからだ。


 料理の音と匂いの発生源を目と鼻で探し当てるとキッチンがあった。

 しかしそこにあるのは割と近代的な――良く言えば()()()()感じのキッチンだ。

 白い石材と金属のパーツで作られた台の上にいくつかコンロのようなものがあって、下にはオーブンと思われる扉がはめ込まれていた。

 その近くにはちゃんと流し台のようなものだってある。

 そして床には魔力(マナ)の青い光を送るための線が刻まれていて、台にまで伸びていた。

 とろ火にかけられた鍋がスパイスの効いた湯気が立ちのぼって、フライパンの上でカリカリに焼かれた目玉焼きが丁度いい焼き具合に染まり、少なくともここ一か月ぐらいは無縁だった文明的な食事がそこにある。


「あっ、ご主人さま! おはようございます!」


 そんなごちそうに目が釘付けになっていると元気な声がすっ飛んでくる。

 キッチンにはエプロンを着た桃色の髪のヒロイン――ミセリコルデ、もといミコがいた。

 ゲームの画面越しではない本物のヒロインが皿に半熟のベーコンエッグを手早く取り分けていくと、フライパンを手放してこっちにやってきて。


「おはよう、ミコ」

「もー、あれからずーっと眠ってて心配してたんですよー?」


 それから両腕を広げて、腰にがっちり抱き着いてくる。

 あれだけ元気いっぱいの声を出していたミコはそのままジャンプスーツに顔をうずめて、ぴたりと何も言わなくなってしまった。

 ゲームの中とはいえ、こいつと長く付き合ってきた俺には何となくだけど分かる。

 こいつ、ずっと寂しかったんだろうな、と。


「大丈夫、ぐっすり眠れたよ」


 ミコの頭を撫でてあげた。

 きっと毎日の手入れを怠っていないんだろう。

 薄い桃色の髪はすごくさらさらしていて、指の間から落ちていくほど柔らかい。


「……むー」


 綺麗な髪を崩さないようにゆっくりと撫でていると、ミコが見上げてきた。

 やっぱりだ。ちょっと目が潤んでいた。

 ついでに頬もパンみたいにぷくっと膨らんでいて、口では言えない何かを不満そうに訴えにきている。


「おいおい、もうどこにも行きやしないからそんな顔するな。俺はここにいるよ」


 それならと両手でもっと撫でてあげると目を細めて気持ちよさそうな顔になっていって、


「ふふふ……やっぱりご主人さまにはかないませんね。でもすごく寂しかったんですから、その分ミコにしっかり構ってくださいねっ!」


 いつものヒロインに戻った。

 伊達に何年もお前と付き合ってるんだ、と俺は内心で笑った。


「分かった分かった。でもその前に朝飯だ」

「はいっ! もうすぐで出来ますからちょっと待っててくださいねー! 今日の朝ごはんはすっごく美味しいですから楽しみにしててください!」


 小さな料理人が自信満々に調理場に戻るのを見送ると、今度はテーブルの方からふよふよと何かがこっちに飛んで来た。

 つい先日仲間になったばっかりのレフレクだ。

 橙色の妖精は自分より大きなフォークとスプーンを抱えてテーブルへと運んでいた

 テーブルに食器が運ばれていくのを見ていると、ちっちゃい妖精がこっちに近づいてきて


『おはようございます!』


 と書かれたウィンドウを見せてきた。

 誰かの役に立ててとても幸せそうだ。


「おはよう、レフレク」


 そんな働き者の彼女を労おうと指でこしこしと頭を撫でてあげた。

 レフレクはふにゃっと笑って指にぐりぐりと頬ずりしてきた。

 そしてまた小さな体でまた食器を抱えて、朝食の準備ができつつあるテーブルの上へとせっせと運んでいくのであった。


「何か手伝おうか?」


 ただ見て待つのもあれだし俺も何か手伝おうと思った。

 そうしている間にも自分の腹からぐきゅるーっと餓死寸前の獣の唸り声みたいな音が出てくる。


「あ、じゃあ外にいるムツキさんとサンディさん呼んできてくださーい」


 俺に出来ることはまだ残っていたようで、小さな料理人から二人を連れてくるように命じられた。

 窓から外を見ると確かにそこにいた。

 切り株の上にサンディが座っていて、ギルドハウスの前で何故か逆立ちしている俺の親友がいる。

 一体どういう状況なんだろうか。


「じゃあ呼んで来るか」

「はーい。あ、ご主人さまの分は大盛にしておきますね!」

「ああ、楽しみにしてる」

「にゅふふ、ミコは料理に自信がありますからね!」


 ちょっとした朝の【クエスト】を受けた俺はリビングを出て玄関へと向かった。

 そこには木製で両開き式の扉があって、やはりそれもゲームの中で見たものと同じデザインであることが分かる。

 まあ、今は朝飯が大事だ。扉を開けて外に出ると―。


 ――そこには見たことのない世界が広がっていた。


 緑の大地が、木々が、青い空が、太陽が。

 (さび)(ちり)だけの無残な地上の姿ではない、しばらく見ていなかった明るい世界がずっと広がっている。

 遠くから流れて来る空気が崩壊した世界に慣れてしまった肺にひどくしみる。

 太陽の光が信じられないぐらい温かい。

 周りを見渡せば希望に溢れた自然があって、遠くに防壁に覆われたクラングルの姿が良く見えた。


「……あっ、おはようイチさん」


 すると家の前で逆立ちしていたムツキがこっちに挨拶をしてきた。

 しかしよく見てみるとただ逆立ちをしている、というわけでもなさそうだった。

 地面についた両手で真っすぐ自分の身体を支えるだけじゃなく、その状態でしっかりと腕立て伏せをしていたのだ。

 いわゆる倒立腕立て伏せとかいうやつだ、なにしてるんだこいつは。


「……お前、なにやってんだ?」

「なにって筋トレだよ!」

「朝からそんなことするやつ初めて見たわ……」


 ムツキはその状態からぐるりと前に回転して見事に立ち上がってしまった。

 少し汗はかいているものの涼しい顔だ。


「こういうのをやってるとスキルが上がってくんだ。【筋力】とか【持久力】とかね」

「戦わなくても筋トレでスキルが上がるのか……。上がり具合はどうなんだ?」

「こういうのだとほんとに少しだけだよ? 例えば剣の素振りだったら何百回も振って0.1上がる感じ。それもただ振るだけじゃなくて正しいフォームでゆっくりと振らないとダメみたい」


 なるほど、この世界もゲームのようにスキル制度があるということは間違いないみたいだ。

 とはいえ、そのあたりの事情はどうなっているか……俺はまだ疎いわけだ。

 後でムツキたちと情報交換をしなければ。


「俺もやったら上がるかな」

「どうだろう……? なんだったら後で一緒にやってみる?」

「いや……いいわ。疲れてるし、それに出来そうにないし」

「えー、やろうよ。身体にいいよ!」

「朝からそんな元気ねえよ。それよりもミコがそろそろ飯できるから来いってさ」

「ん、もうそんな時間だったんだ」


 次はサンディだ。

 ギルドハウスから少し離れた場所にある切り株に近づくと、そこでぼーっと何処かを眺めていたサンディが振り返ってきた。

 褐色の肌は明るい天気もあってさらに健康そうに見えて、際どい服からは相変わらずメロンばりに大きな肉が溢れかけている。


「……おはよ」


 俺に気づくと頼れる相棒は小さく手を振ってきた。日光浴でもしてたんだろうか。

 しかしムツキがそんなサンディを見てちょっと目のやり場に困ってる気がする。


「おはよう。なにしてるんだ?」

「ねこがいる」

「ねこ?」


 サンディが指先で示す先には――あっちの世界から持ってきたケッテンクラートがあった。

 しかし今、その野ざらしのケッテンクラートの上に真っ黒な猫……みたいなヒロインがいる。

 いわゆる【猫系】のヒロインだ。

 人間の身体がそこにあるとして、肘から先は猫のような手に、膝から下も猫のような足に、そして尻尾と耳があって二足で歩ける……そんな感じの種族である。


「……あれは……ヘルキャットだな」

「へるきゃっと?」


 もちろん、俺には今目の前にいるそれが何なのか良く分かっていた。

 手足は真っ黒、尻尾も黒、耳も黒くて肉球はピンク、そのくせ瞳はルビーのよう


「絶滅危惧種の地獄の使いみたいなもんだよ、何でこんなとこにいるんだ?」


 確かあれは【ヘルキャット】っていう特別な種族だ。

 サービス開始当初、僅かな間に流行ったヒロイン()()()()で『これさえ引ければどうにでもなる』といわれるぐらいの大当たり品と言われていた。

 けれども野良のヒロインが爆発的に増えてしまい慌ててキャラ作成に制限が施されてからは、本当に存在してるのかと疑われるレベルの希少種として扱われていたのである。


「おいムツキ……あの子はなんだ?」


 で、そのレアヒロインは今、人様の乗り物の上で朝日を受けて気持ちよさそうにくつろいでいた。

 地獄から現れし黒猫は眠そうな顔でじーっとこっちを見ている。


「ああ、にゃんこさんだね」

「にゃんこさん?」

「うん、最近ここで良く見かけるんだけど……」


 結構見知った顔みたいだ。

 すると地獄からの使者という設定のヒロインはむっとした様子でこっちを見てきて、


「アリーはねこじゃない」


 サンディと同じぐらいやる気のない声でそれだけ言って、ぷい、とそっぽを向いてしまった。

 いやどう見ても猫だろう。


「……まあでも特に悪いこともしないし、にゃんこさんに害はないよ。僕たちはマスコットみたいなものだと思ってるし……」

「でもヘルキャットだぞ? ヘルキャットって言ったら一時期ゲームを大荒れさせたぐらいレアな種族だろ? なんでこんなとこにいるんだ?」

「うーん……ミコさんが良くご飯あげてるからかなあ? 初めて会った時もパン上げてたし……」

「餌付けしてるじゃねーか」


 あいつはこの黒猫を飼いならそうとでもしてるんだろうか。

 しかしあれだけ巷を騒がせた種族がこの世界でこうも食べ物につられていると思うと、地獄の猫というよりはただの猫にしか見えない。


「アリーはヘルハウンドだ」


 と思ったらまた否定された。

 しかも自分の種族すら否定して自分は犬だと言い張っている始末だ。


「あろうことかあいつ自分を否定してるぞ」

「うん、あの子……自分をヘルハウンドだと思い込んでるみたいなんだ」

「いや、猫だろあれ」

「ねこじゃない」


 結局、ケッテンクラートの荷台に居座ったヘルキャットは一歩も動こうとはしなかった。

 まあ今のところ何かに使う予定もないし、四人しか乗せられないのだから別にいい。

 本人がくつろぐ場所として使うぐらいなら別にいいだろう、と思った。


「……とりあえずサンディ、朝飯だ。行くぞ」

「……うい」




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