ミセリコルデが見たそれは
その日、何処かで『誰か』が自分の身に起きた異変を感じ取った。
「……あれっ?」
『誰か』は最初にそこが普段見慣れた光景であると気付いた。
擬似的に表現された世界にある我が家で、ソファの上でくつろいで、熊の人形を体で押し潰していたはずが見知らぬ場所にいた。
それにしては普段見るよりはずっと大きな……言うならば『現実的』なスケールであろう街の中にいたのだと。
足元では赤褐色を基調とした石畳が舗装されていて道を作っている。
そこは恐らく何処かの通りだった。
道の左右ではほぼ一定の高さで揃えた建物がほぼ隙間なく密集していた。
そういった光景がずっと遠くまで続いている。
その終着点では深い堀と城壁に守られた城が山脈を背に鎮座していた。
空は青く、雲は真っ白、太陽の暖かい光が揃って町全体を健全に包んでいる。
「……ここって……グラナートの街中?」
すらりとして柔らかな声質の持ち主はそこで訳も分からず、とりあえず辺りを見回した。
そこが何処なのかはすぐ分かった。
ご主人と何度も訪れたフランメリアと呼ばれる国の首都、グラナートと呼ばれる場所であると。
いわゆるゲーム内の舞台の一つで、ここはその首都にある酒場や喫茶店が立ち並ぶ歓楽街なのだと。
「はっ! ミコのご主人様は!?」
彼女は間の抜けた調子の声でとある人物を呼んだ。
そうしていると長く伸びた薄桃色の髪がさらりと重力に従って揺れた。
それは極めて自然で確かな質量と艶やかな質感をもっていた。
精霊である事を示す尖った耳と、白い肌に自分の髪がさらっと触れた瞬間。
「……ふあっ!? む、むむむ……ええと……?」
彼女は生々しいくすぐったさを感じてびくっと背筋を伸ばした。
すぐに彼女は自分が一体何なのかそこで考え直した。
自分は人工的に作られたモノ。
いわゆるAIであり、ゲームの中でプレイヤーのパートナーとして活動する作り物の人格であると。
普段であればそれは自分が活動を開始する際に必ず頭の中のどこかで、そう復唱するようにと命じられていたことだった。
しかしそれがスムーズに流れてこない。
それどころか今の自分が気が遠くなるほど複雑な数式と定理で形作られ、0と1が無数に組み合わさったような堅苦しい命令ではなく――もっと自然で、すらりとした何かで動いている気がした。
「……あれー?」
それでもなお考えようとすると処理しきれない考えが多数浮かんで頭を悩ませた。
重力というものを感じているのか足裏が地面に食い込むような感覚がする。
けれども彼女がふと何気なく深呼吸をした直後、生まれて初めて空気の味、というものを感じた。
太陽の光を受けて身体がぽかぽかと暖かい、とも感じていた。
「ふあっ、風がー!」
そこに遅れて何処かから風が吹いてきた。
彼女が身に着けていた真っ白で短い袖のワンピース風衣装がなびいて、ひんやりとした感覚と風の香りを受けて。
「なんだろう……この感覚? ってあー!!」
脳が危うくパンクするところで、彼女はようやく違和感の正体に気付いた。
試しに小さな手を動かして自分の腕を肘から手首までなぞってみる。つるつるしてくすぐったい。
「すごい……これって本物ですか!?」
『いつも』よりも生々しく感じる上に、擦れるたびにくすぐったい自分の髪を指で掬い上げてみる。
驚くほどさらさらしていて気持ちいい。
なんとなく両手を組んでぐぐっと上に伸ばして背伸びをしてみせた。
小柄な身体が引っ張られるような感覚に、得体の知れない気持ちよさを感じた。
「……え、え……ええー!? 何これ!? なんだか物凄くリアルになってませんか!? もしやこれが最新のアップデート!? やりましたねご主人様! これでセクハラ……ってあれ? ご主人様ー?」
彼女――ミセリコルデと呼ばれる短剣の精霊はそうやって『現実味』のある感覚を一杯に受けて、爆発するように喜び始める。
陽気な声を上げて跳ねたり、ずっしりとした重力の感覚にすっかり上機嫌になった彼女はいつものように騒いだ。
だけどその日は、一体どういうことなのか?
何かを喋っても文字に変換されて吹き出しとなって表現されることはない。
発言を記録するログも目の前には浮かんでこない。
「……むう。またこういう時に限っていないんですから、ほんとしょうもないご主人様ですねえ」
そうやっていつものように騒ぎ始めたときの受け皿である人物がいない。
112という三つの数字で構成された名前の人物が側にいないのだ。
好奇心が強く、ひたすらに明るく寂しがり屋のミセリコルデはむすっと不機嫌になってしまう。
こんな肝心な時にまた別のゲームに浮気しているのだと彼女は思った。
「もういいです、ミコ一人で楽しんでますもん」
そう判断した短剣の精霊はひとまず普段どおりに手を目の前にかざして、何もない空間から強引に掻き出すようにメニューを開く。
半透明のウィンドウが当たり前のように目の前に展開される。
(ふおおお……! すごい! すごいです! なんだか前よりも生々しいっていうか……リアルっていうか……生きてるっていう実感がします!)
普段どおりに開いたことに安心すると、手当たり次第にフレンドが載ったリストを確認する。
普段ログインしているプレイヤーとヒロイン達はほぼ全員このゲームに接続しているようだった。
彼女の主とも言える人物を除いて、だが。
(……って……ご主人様がログアウトしちゃってる……? でもミツキさんやムネちゃんもログインしてるし……)
彼女の経験上、自分が主人と見なしている人物はよほどのことがない限りはなるべく傍にいてくれた。
自分と主人の親友でもあるフレンドはいる。
しかし彼女にとって一番大事な人物がいないとなると、一転して寂しくなってしまった。
(……はぁ、こんな時にいないとか……ミコ、流石に寂しいです)
それでもきっと何かあったのだろうと自分に言い聞かせて、ミセリコルデはメニューを弄った。
親友のヒロイン『ムネマチ』へと個人チャットを送ろうとした。
いつもの流れでメッセージを入力しようとするが。
「……ん? んんー? チャットが出来ない……っていうか動画も見れない!?」
会話をするためのチャットウィンドウが開かない。
というよりは無いようだった。
普段ならスムーズに出てくるはずのAI用の会話機能がどれだけ指で宙をなぞろうとも出てこない。
「会話機能もできない……まさかそういう仕様になったとか……じゃないですよねー?」
特定の人物へメッセージを送ることが出来ない。
それはおろか普段ならゲーム内部で開けるはずの動画サイトも開かない。
同じく公式サイトや課金用ページを表示することすらもできない。
彼女は流石に困ってしまった。
暇つぶしの動画も見れず、友人に面白おかしく絡もうにもその相手と連絡も出来ないのだから。
「ご主人さまがいない、システムが不調、接続もおかしい……なーんかいやな予感が……」
――もしかして何かまずいことが起きているんじゃ?
ミセリコルデが嫌にずっしりと来る不安に胸を押し潰されながらもステータスウィンドウを開く。
そして恐る恐る、爆弾の解体でもするかのように丁重に一つずつ指で触れて調べていくと。
とある画面が表示された。
しかしその画面に映っていたのは……空だった。
「ってあ"あ"あ"あ"ああああ!? な、ない!? ミコの大事な装備が、大事な衣装がなーい!?」
主人と一緒に手に入れた武具や、買ってもらった衣装、更にはインベントリに放り込んであった予備の装備からアイテムまで全て空っぽなのだ。
もしやもしやとステータス画面から自らの持つスキルの状態を見やると。
「ミ、ミコのスキルも………コ、コンプリートした回復魔法のスペルも……ちょ、ちょっとこれシャレにならないレベルですよねー……!?」
そこに待ち受けていたのは、彼女が今まで鍛え上げてきたスキルが全て0という大惨事。
あまりのショッキングな光景に声にならない悲鳴が漏れた。
ある意味では財産とも呼べるもの全てが手元からなくなっているのだから、その落胆ぶりは相当に重いものである。
彼女の顔はみるみる青ざめていく。
「………な、な、なんだこりゃああああああああああッ!?」
「うっひょおおおおお!? なんだなんだぁぁ!? こ、これってまさかゲームの中にいるのか!?」
「う、うわあっ!? 何処だここ!? さっきまでゲームしてたのに!?」
「……えっ、なに……これ、トイレいこうと思って……はぁ!?」
「す、すげええええええええ! げ、ゲームの中だ! これモンスターガールズオンラインの中だあああああ!」
その時、何処からか喧騒が届いてくる。
それはすぐ近くからだ。
響く声は随分と鮮明で、聞きなれない調子の声が幾つにも重なっていた。
はっと我に返った彼女が周囲を見渡すと、ごたごたと騒ぎ立てる原因がすぐ近くにあった。
「嘘だろ……ここって確か、フランメリア王国の首都……だよな……?」
「あ、ああ……グラナート、だっけ……すごく広いなぁ……」
「っていうかさ、なんで俺達ゲームの中にいるんだ!?」
「は、ははは……夢でも見てるのかな……!」
通りには既に沢山の人がいた。
そこには困惑し、或いは歓喜する男たちがわいわいと騒いでいた。
だがその格好はいわゆる『初期装備』とでもいうものであった。
長袖のシャツの上に簡素な皮鎧を重ねて、特に変哲のないパンツにベルト、そして使い古された革靴という組み合わせだった。
それに付け加えて誰一人、武器を持っていない。
このゲームの中であれば一目で『初心者』だとわかるような姿である。
「どっ、どうなってるのよこれ!? なんか生きてる実感っていうか……すごく違和感あるし……っていうか誰よあんたたち!?」
次にヒステリックな女性の声が聞こえたと思えば、ツリ目で強気な顔立ちをした小柄な女の子がいた。
真っ赤な髪はサイドテールで、両腕は肘から先が赤い羽根に覆われた翼、両足は膝から下が鳥の足になっている、いわゆるハーピーと呼ばれる種族のヒロインがいた。
やはり彼女も困惑していた。
だが高めの悲鳴が当たりに羽ばたくと、そこで何かに気付いた男の一人が急いで駆け寄っていく。
「お前……まさか俺のパートナーのアイリか!? 俺だよ! マスターのカズヤだ!!」
二十代にまだ入っていないかどうか、という感じの若い男だった。
その人間と赤いハーピーが顔を見合わせると、
「は? なんで私の名前を……って、ええええええっ!? あ、アンタまさか私のマスターなの!?」
その二人の関係が明らかになった。
男はプレイヤー、ハーピーはヒロイン、これは一体どういうことなのか?
「そ、そうだけど……一体どうなってるんだ!? なんで本物のアイリがここにいるんだ!? まさかほんとにゲームの中に入っちゃったのか!?」
「おおおお落ち着きなさい!! あたしだって混乱してんのよ!? なんでカズヤがゲームの中にいるのよ!?」
「……ああクソ、参った。とりあえず、焦らず状況をまとめようか。なんだか大変なことになってるし、ここじゃ騒がしいし向こうに行こう。」
「そ、そうね……。っていうか、アンタ……あたしと思ってたのと大分違うじゃない。てっきりチビで臆病で根暗だと思ってたのに……顔もいいし、背も高いし、結構いいじゃない」
「何かいった?」
「なんでもないわよ。ほら、早くあたしを静かな場所にエスコートしなさい! ここじゃ五月蝿くてたまらないのよ!」
「はいはい。……はあ、一体何が起きてんだよ……!」
「なんかいつもみたいにうまく歩けない……ちょっとカズヤ、あたしを抱っこしなさい?」
「なんで俺が抱っこしてやんなきゃいけないんだよ……。ってこら! 抱きつくなよ! あははははははっ羽がくすぐったい!!」
「抱っこしないとこちょこちょしちゃうぞー! うりうりー。」
「分かった分かった!! 分かったからはははははははははっ!」
一人と一匹、厳密に言えばプレイヤーとヒロインという関係の彼らは通りから抜け出し始めていく。
何故かお互い、ちょっとだけ嬉しそうだったが。
ミセリコルデが呆気に取られてその様子を見届けたあとには、
「うぅぅわああああぁぁぁぁぁぁぁぁん!! うおああああああああああっ! 本物のアリスちゃんだ! アリスちゃんが目の前にいる! やったああああああ!!」
「えっ……やだ、何このワイルドオークみたいな生物!? まさかこれが私のご主人様だったの!? キモいんだけど!?」
「マ、マスタアアアアアアアアアアアアアッ! やった! マスターが現実にいる! やった!! すごい触れる! 原寸大のマスターがいるううううううううう! 愛してますううううううう!」
「お、おい馬鹿やめろいきなり何処触ってるんだよ!? っていうかどんな状況なのこれ!? あっあっあああああ! パンツ下ろすなああぁぁぁッ!! 今それどころじゃないからあああああ―――ッ!」
あたりは男女隔てなく――プレイヤーとヒロインたちの数多の声で満たされていく。
「……なんでご主人がここにいるんです?」
「さあ……。まあとりあえず落ち着いて考えようか、というかお前……イメージより結構ちっちゃいな。ドワーフってこんなチビだった?」
「お前リアル女だったのかよ!!」
「お、女がやっちゃだめなの!? っていうか君こそリアル男だったの!?」
「ひっ人の趣味にケチつけるなよッ! いいだろそれくらい!?」
最初は小さかった喧騒も、やがて時間が経てばその場全てを支配するほどに広がっていく。
何故かプレイヤーがゲームの中にいる。
ヒロインたちは誰かに生を与えられたように『現実的』な感覚を得ている。
そしてその二つがこの場所――このフランメリアの首都に全てかき集められているようだった。
老若男女の戸惑いの声が織り交じる大きな騒動は歓楽街の通りだけではなく、この大都市のありとあらゆる場所で繰り広げられているのだ。
「私の主が女……だと……私は気付かぬ内に百合百合な関係になっていたというのか!?」
「ぼくのますたーが女性だと思ってたら男だった、何をいっているか分からない上にもうだめだ、おしまいだ」
「いやああああああああっ!? なにこの豚みたいな奴ゥゥゥゥゥ!?」
「ぼぼぼ僕は君のご主人様だろ!? なんだその口の利き方は!! 今すぐ取り消せ! ヒロインのくせに生意気だぞッ!」
まるでこのグラナートがお祭り騒ぎになっているような、賑やかな様子にも捉えられる有様だろう。
そんな賑やかさに包まれた歓楽街の建物の中から、お祭りごとが大好きなグラナートの住人たちがなんだなんだと挙って顔を出す。
「こんなガリガリでひょろひょろなのが私のお兄ちゃんだったの……? た、頼りなさすぎでしょ……。すごく逞しい戦士じゃなかったの?」
「ご……ごめんね。げ……ゲームの世界だと強気になれるから……うう……」
「あーもう泣くな! いつもの強気な姿勢は何処いったの!?」
「わけわかんねえ……どうなってるんだよ……。」
「あ、あの……主様。わ、わたしがわかりますか? あなたのヒロインの……」
「うるせえ話かけるな! 頭の中滅茶苦茶でそれどころじゃねえんだよ! 黙ってろ! 畜生どうなってんだよ! こんなトコにいたくねえよ! 早く帰してくれ!」
プレイヤーとヒロインたちがずらりと並ぶその光景が果たして何かの祭事に見えたのか。
酒場の主人や客たちがたまらず通りに飛び出して、喫茶店から怠けた衛兵たちが何事かと吐き出され、波乱はますます濃くなっていく。
(うっわあ……これご主人様がみたら『こりゃひどいな』とか他人事でいいそうな状況ですね……。っていうかミコのご主人様はどうしたんだろう……?)
困るに困ったミセリコルデは、混沌とした光景に苦く笑って近くの壁に寄りかかった。
大混乱から一転し、愉快なお祭り騒ぎにでも化けようとしている光景はいつ終わるのやら。
スキルは全てゼロ。装備は消えて一文無し。
おまけに『ご主人様』が目の前におらず、途方に暮れた様子で彼女が空を見上げると――。
(……あれ? なんだろう……なんだか空が赤く……黒くなってる?)
丁度グラナートの中心地、街の真上で空の一部がどろりと赤へと変色していた。
それはまるで渦を描くように青空をこね回して赤く染めているようだ。
青色で埋め尽くされたキャンバスの中心に赤い渦を無理矢理に書き足し、ぐるぐると円を描くように赤で塗りつぶしていくような。
誰が見ても異様だと思える光景にミセリコルデが嫌な予感を感じ取った途端。
*ぴこん*
戸惑う彼女の眼前でウィンドウが飛び出てきた。
それは見慣れたものだった。
メールのやり取りに使うウィンドウで、こんな状況でもメールが使えるということを示している。
件名は『ミコちゃん、大丈夫?』で、送り主は彼女の良く知っているムネマチという刀の精霊だった。
>『えっと……ミコちゃんへ、大丈夫? なんだか大変なことになっちゃってるね。プレイヤーのみんながこっちの世界にきた……っていうことなのかな? 気付いたらグラナートの歓楽街に転送されてて……目の前に本物のムツキくんがいてびっくりしちゃった! とにかく酒場『ノミヤ』の前で合流しよ! こんな状況で言うのもなんだけど、ムツキくん背が高くてびっくりしちゃった。でもすごく優しいんだ、ふふ』
メールを読み終えるとすぐにウィンドウを閉じて、彼女は意識して深呼吸をした。
(……ムネちゃんとムツキさんもいる……この様子だとメールは使えるみたいですね)
違和感の残る体だけれども、むしろ普段よりもスムーズに身体が動くと分かれば……落ち着いて周囲を見渡した。
(ふー……。状況整理状況整理……。ご主人様はいない……それどころかログアウトしている……今この場にいないと考えて、ひとまずムツキさんたちと合流しないと!)
まだプレイヤーとヒロインたちは騒いでいる。
人ごみが濃厚に道をふさいでいるもののその隙間からすり抜けることはできると判断。
ひとまず自分の主人のことよりも親友との合流を優先。
彼女は極力、周囲の喧騒を耳にしないように意識しつつ、人ごみの中を避けて移動する。
(……思い出すなあ。ご主人様と探検だー、とかいって……ムツキさんやムネちゃんと4人でグラナートを歩き回って……)
歓楽街は彼女にとっては思い出の1つでもある。
たった四人のパーティーで迷子になったり、誰かさんがはぐれて探し回るハメになったり、数え切れないほどの楽しい思い出があった。
(ご主人様がはぐれてみんなで探し回ったら、奇跡的にお城に辿り着いてて門の前で一人寂しくいじけてたり……。面白かったなあ。ふふふ)
そんなことを思い出しながらも『ノミヤ』という酒場――記憶が正しければ歓楽街の中心部にあったそこを目指して進んでいく。
だがいつもとは違ってリアリティのある感覚は易々と先へと進ませてはくれない。
走れば足の裏が痛くなるし、ずっと走ろうとしてもすぐに呼吸が乱れて酸素欲しさに胸が苦しくなるし、時折バランスを取れずにつまづいて転びかける。
それでも一生懸命進んでいた彼女が、スタート地点となった場所から足を進ませると。
「あ……! あれってミコさんじゃ!?」
「あっ! ミコちゃん! こっちこっち!! おいでー!」
人ごみを避けて通りに面する小さな酒場の前で座り込んでいた二人と目があった。
すぐに二人は反射的に立ち上がって手を振って、一緒に声をかけてきた。
「本物のミコさんがいるー!?」
一人はさらっとした黒髪に青いシャツを着た男。
くりっと適度に引き締まった顔つきをしていて、穏やかそうな雰囲気を漂わせている。
ただしその背丈はかなり大きく、もしかしたら180cm異常はあるかというぐらいに背が高い。
その背の高さは持ち前の顔立ちの良さと大人しい雰囲気を更に高く持ち上げているようだ。
ただしざわめく人ごみが苦手なのか通りの方からあからさまに顔を逸らしている。
「ムネさーん!……ってなんですかこの高身長イケメン男子は!? でかすぎるんですけど!?」
「あ、あはは……なんだか色々と原寸大なミコさんだね。僕だよ、メタル大好きなムツキだよ。どうしてこんなことになったんだろう……。夜食にラーメン食べようと思ってたのに……」
彼の名前はムツキ。
ミセリコルデの主人がそこにいれば『お前まさかムツキか?』と背の高さに戸惑いながら震えた声で尋ねていたに違いない。
「ふふっ、ミコちゃんが無事でよかったあ」
ムツキの隣で、おっとりとした物腰と口調の女性が一人。
綺麗な川のような薄緑色をしたツインテール……と豊かな胸の谷間を揺らして、優しさに溢れた母性一杯の顔立ち、そして精霊種の証拠の尖った耳。
内側に白いインナーを着込み、その上に白と赤を組み合わせた礼装のようなふんわりとしたジャケットとスカートで身を包んでいる。
彼女の名前はムネマチ。言うまでもなくイケメン高身長な男のヒロインである。
「お二人もいらしてたんですねっ! っていうかムツキさん、デカすぎです!」
「すごいでしょ? 私より背がちっちゃいのかなあ、って思ったんだけど……ムツキくんってこんなに大きくてびっくりしちゃった」
「ふふん、こんな場所ミコにとってはお庭みたいなもんですからね! っていうかムツキさんデカすぎます。ちょっと身長とかミコに少し分けてくれませんか?」
「え、ええと……渡せるなら渡したいんだけど……」
「そこで真面目に考えちゃうあたりモノホンのムツキさんですねっ! とにかく良かったです……ご主人様がいなくて困ってたんです!」
「ご主人様……? そういえばミコちゃん、一人だし……。いつも一緒にいるイチさんはどうしちゃったのかなあ? まさかまたはぐれちゃった?」
ひとまず一人を欠いて集まることができたところで、ミセリコルデとムネマチはメニューを開いた。
二人のヒロインのフレンド欄にも『112』という名前はログアウト状態で表示されているようだ。
「それが……ご主人様がいないんです。ログアウトしてるみたいなんですけど」
「ほんとだ、ログアウトになってるね。どうしたんだろう?」
ミコとムネは『いつもの四人』の一人の状態を探ろうと、浮かび上がるメニューを指でなぞった。
ゲームの中でヒロインたちだけが出来る特権のようなものである。
「……ううん……ミコのリストだとご主人様だけがログアウトになってますね」
「私の方も……ギルドの人達はちゃんとログインしてるけれど……イチさんがいないね……」
「そういえばムネちゃん、チャットは使えますか? さっき使おうとしたら使えないっていうか……機能そのものがなくなってるように見えたんですけど」
「ううん、私も使えないよ。おまけにスキルは0だし装備もお金も無くなってるし……他のみんなも同じ状態みたい。でもメールは使えるみたいだよ」
「……どうやらスキルも装備もなくなってるというのはミコだけじゃないみたいですね。あーもう! どうなってんですか! 頭パーンっていっちゃいそうです!」
誰も彼もがスキルはゼロ。
アイテムは全て消失。
チャット機能は使えずフレンドリストの一人はログアウト状態。
阿鼻叫喚の現状でそれだけ分かると二人は一緒のタイミングで「はぁ」と短いため息をつく。
「あっ……すごい、ヒロインみたいにウィンドウ開けちゃった。便利だなぁ」
しかしその後ろで『プレイヤー】であるムツキがなんとなく、ぼんやりと何もない目の前の空間に手を伸ばして――ヒロインたちのようにウィンドウを呼び出していた。
もちろんヒロインたちの目は釘付けになった。
当然である、プレイヤーがヒロインにしか出来ないことを平然と目の前でやっているのだから。
「えっ? なんでムツキくんが開けるの!?」
「えっ? あ……なんか無意識のうちにやっちゃったけど、ムネマチさんみたいに僕も出来るみたい?」
「……まさかムツキくんがヒロインになっちゃったのかな!?」
「ええっ!? それは困るよ! だって僕は男だよ!? ヒロインじゃないんだけど!?」
「お、おちついてムツキくん! わ、私のヒロインになってもちゃんと責任もって面倒みるから!? 大丈夫!」
「……あの、お二人とも、イチャイチャしないで早くここから移動しませんか?」
あらぬ方向にずれ出したプレイヤーとヒロインの会話にミコが呆れてストッパーを挟むと。
『……助けてください』
それは何処からか。
遠い遠い何処かから、もしかしたら空高くから届いたのかもしれない。
今に消えてしまいそうな女性の声がいきなり響いた。
それは果たしてよほど強く届けられたのか。
たった一言の助けを求める声がした直後、首都グラナートの喧騒が全てぴたりと止まった。
『お願…します。魔女が――魔女が…世界を滅ぼそうとして……』
その不安げな声は誰かに助けを求めていた。
きっと滅茶苦茶になったグラナートにいる全ての人間か、或いはその世界そのものに対して。
だが声の合間にはざらざらとノイズのようなものが混ざり始めている。
まるでその声を邪魔してやろうとばかりに不自然なタイミングで、誰かの悪意がそこに篭っている。
『私達の住む魔法の国、フランメリアに、危機が……れています――。冒険者の皆様、私達を――』
ざーざーと、砂を擦り合わせる音を百か千、縦に横に積み重ねたような不快な雑音が誰かの声を掻き消していった。
そこで声は完全に途絶えた。なんの前触れもなやってきた声がそこで終わったのだ。
「おっ……おい! なんなんだよあれ! 空が気持ち悪い色に……!」
その時、この世界に連れてこられたプレイヤーの誰かが何かに気付いて空に指先をびっと向けた。
つられて沢山の人間とヒロインが上を向いた。。
ミセリコルデも、ムツキやムネマチもつられて見上げると。
「……な、何ですか……あれ……!?」
「うわ……そ、空が赤い……? なんか……段々と暗くなってる?」
「……なんだろう、すごく不気味だよ……。それになんだか、見てるとすごく不安になってくる……」
先ほどまで真っ青で明るかったはずの空がどんどん赤味を帯びていく。
小さな赤黒い渦は声が途絶えた途端、見る見るうちに空から青を奪う。
空の色は急な勢いで描かれた赤い渦に飲み込まれていって、太陽を遮り、白い雲すらもそれに飲み込まれてグラナートをすっぽりと覆うほどに拡大していった
最後の仕上げとばかりに、その赤い空に雲代わりの半透明の物体が唐突にぽつぽつと現れた。
――まるでガラスを六角形に形成したような巨大な何かだ。
それには街の建物一つ分よりも大きく幅があって、青白いマナの線が裏側までびっしりと刻まれているようだ。
それは現れた矢先に赤黒い空から急に大地に目掛けて降下していく。
それも一つ、二つといった数ではない。
十個か、十二個か、それだけの数の六角形がグラナートの各地に目掛けて落ちていった。
あるところでは建物の一つが押し潰されたのか、ごりごりと岩を無理矢理に砕くような鈍い音が響く。
またあるところでは地鳴りと共に人々の悲鳴が雷のように上がった。
一つが落ちるたびに阿鼻叫喚になるそれが全てグラナートへと降り立っていくと、硬い地面に突き刺さり直立する巨大な六角形は僅かな隙間を作る壁となって、首都をぐるりと囲むように並んでいた。
そして全てが揃った時。
それぞれに纏わりつくマナの線が不気味なほど眩く、青白い光を発し始めた……。




