ある世界の女神様のはなし
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その世界は人を愛する美しい女神に祝福された世界と誰かに言われていた。
世界を包む魔力と、それを利用し様々な現象を発現させる『魔法』という技術を軸に発達した世界だ。
だが、かつてはその世界は大昔に暗黒時代というべき血みどろの時を長く過ごしてきたという。
どんな物でも両断する白金の剣は同じ人間同士が斬りあう為に使われ、人々の生活を豊かにし不自由を無くした魔法の技術は人を殺める為に進歩した。
そうなってしまった原因は様々だった。
信仰する宗教や、属する文化の違いが人々の間で戦乱を呼び起こす。
容赦のない天変地異が文明をかき回し停滞させる。疫病や飢饉が人々を陰湿に苦しめる。
それまでは親しく共存していた精霊は呆れ果てて人間を見離した。
精霊に育てられ、守られていた土地は雑草すら生えない荒地となってしまった。
故にそれは悪夢の時代と後世に長く語り継がれていた。
その世界の歴史上で類を見ないほどの数の人間が想像を絶する苦しみの中で息絶えていったのだから。
そして世界中を包み込む悪夢の原因のひとつに、人に害を成す魔物という存在もあった。
野生の動物や人間に限りなく似せたものから、硬い鱗に覆われ火を吐くような巨大な竜の姿を持つものまで様々だった。
怪物たちのするべき事は共通してただ人の世を蝕む事のみ。
餌となる人間を腹を満たすために襲い、土地を汚染させ不毛の地に変え、驚くべき繁殖力で増えて世界を理不尽に蝕んだ。
その魔物を生んだのはとある理由で人々を強く妬み、世界を思うがままに操れる力を持つ存在だった。
恐ろしい時代に突入した人々の隙に付け入るように、それは魔物の軍勢を率いて、或いは自らの駒になる事を誓った魔女たちを連れて世界各地を蝕んだ。
それまで奢りたかぶり無秩序に生き続けていた人類は、凄まじい勢いで世界中を蹂躪するそれらを恐れた。
やがてそれは魔王と憎しみを込めて呼ばれるようになった。
魔王はフランメリアと呼ばれる国をあっという間に乗っ取り、そこを拠点として破壊活動を開始した。
人々が暴虐の限りを尽くして荒らしまわる存在にそう名付けて、共通の敵を前に一致団結すると彼女に対抗できる戦士や魔法使いが集められた。
ようやく一つになった人類が今まさに強大な敵に反撃を行おうとするその時。
唐突に女神の加護が人々に与えられたという。
女神はその世界の平和を望む人間に加護を与えた。
自ら産み落とした精霊の乙女たちをこの世で一番勇敢だった男の戦士たちに付き添わせた。
女神の祝福と精霊の加護を受けた彼らは瞬く間に魔を切り裂き、痩せこけた地を蘇らせる。
世界を壊そうとする存在を良しとしない魔女たちも名乗り出て彼らに同調した。
心強い味方として戦士と精霊たちを最後まで支えた。
増え続ける魔物を掻き分け、全ての元凶である魔王の元に辿り着いた戦士達と精霊、魔女たちと女神は最後の戦いに挑んだ。
勇士たちを支える女神の献身的な加護もあってその戦いはすぐに決まった。
義憤に駆られ危険も顧みず、一気に詰め寄った戦士達を前に魔王は抵抗する間もなく討たれた。
その最期は実に呆気なかったという。
魔王が跡形もなく消滅して全てが終わると悪夢のような暗黒時代がそこで終わった。
最後に残ったのは大地に残された戦いの傷跡。
そして魔王に仕えていた一人の魔女がそこで不適に笑っているだけだった。
魔王との戦いが終わってからも、戦士達は世界各地に根付いた魔物とずっと戦い続けることになる。
統べる者がいなくなったとはいえ人類は未だその脅威に晒され続ける事になってしまうのである。
次第に長い年月をかけて世界が復興を始めると、女神は積極的に様々な試みをした。
なんとか残り続ける魔物たちをこの世界から減らそうとしたのだ。
その一環で異なる世界から特別な力を持つ『旅人』を召喚し、自ら生み出した伴侶となる人物を与えて戦わせるという行動が成功すると、女神は決意した。
程なくして女神はとある場所に旅人を呼び出した。
苦楽を共にする伴侶を与えて世界へ放り込むようになった。
そこは魔法を主軸として文明が発達した、この世界で女神に最も愛されている国。
フランメリアという国である。
そんな物語が、女神の愛するその世界の内側に深く刻まれていた。
その世界には女神がいた。
耳に入れば眠気を催すような穏やかな口調。
雪のように白い長髪に眠りこけたかのように閉じられた目。
そして全ての母に相応しいような豊かな体つき。
そして彼女はとても穏やかで慈悲深い人物だった。
魔物を率いる魔王と、彼女の下僕である魔女たちが消えてからどれほどの時が経ったのか。
緩やかに傷を癒していく世界の姿を、過去にあった戦いからずっと見守っている。
しかし最後の戦いが終わってから、自らの力を惜しみなく使った彼女は酷く衰えてしまった。
衰えた力を取り戻すには魔力に包まれたこの世界を完全に浄化するか、長い時を経て自然に回復するのを待つしかない。
故に今の彼女に出来ることといえばあまり多くはない。
その世界を遠い所から眺めるだけか、自ら呼び寄せた旅人に旅の加護を施すこと。
それから彼女の『娘』ともいえる旅人達に送られる伴侶を生み出すことぐらいである。
幸いにも女神が生んだ娘たちは、その世界に訪れてくれた旅人達とうまくやっているようだった。
旅人も無数に蔓延る魔物達とただ戦うだけではなく、中には戦わずに職人として武具や料理の生産に励む人間もいる。
誰もが驚くようなパフォーマンスで人々に笑いを与えることを生きがいにする者だっている。
それぞれの旅人が持つ無数の個性は、どうであれその世界を良い方向に押し出しているのは確か。
女神の愛した世界は、フランメリアを中心に昔と比べて少しずつ良くなっていた。
――しかし最近は女神の娘たちが一部の気まぐれな旅人達に捨てられているという問題もあった。
決して人間と同一の姿をとれないが為に、人間とは異なる姿に対して嫌悪するもの。
或いは性格などが合わずに切り離すもの。
そうして孤立した彼女達が悲しみながら一人で生きている姿を見るようになったのは最近のことだ。
完全な力を発揮することのできない、すっかり落ちぶれてしまった女神はその事に胸を痛めていた。
悲しむ娘を目前に何もすることが出来ない。母親としてこれほど辛いことなどないからだ。
けれども彼女は自ら呼んだ旅人たちに対して怒りなど持てなかった。
きっと彼らの内側にも何かそれなりの事情があるのだと、そう信じていた。
女神は可能な限りできることを旅人や娘たちに施しつつ、その日も世界の監視に耽っていた。
問題はあれど今日も大きな変化もなく一日が終わるかもしれない――女神はそう考えながらも世界を眺めていた。
――だがその大きな変化は唐突に起こってしまった。それもとても悪い方向に向けて。
最初の変化はじわりと滲み出てきた。
旅人のいるフランメリアの地から、何かが這い上がるようなおぞましい感覚がそこらじゅうに走った。
最初は女神ですら何があったかも分からなかった。
その感覚がふと、彼女の経験と記憶にある何かに触れた途端にそれは大きな胸騒ぎへと変わっていく。
「あ、ああ……これは……どういうことなのですか……?」
地上を見ると彼女の抱えていた不安は――最悪な形で実現されていた
遥か昔の戦争から統率を失い、野に散らばった魔物が動きを変えたのである。
まるで魔王に忠実に従っていたときのような意思が宿り、内からあふれ出る攻撃性に脳まで満たされたような本来の姿がそこにあったのだ。
――まさか魔王が復活した?
塵すら残さず消え去た魔王の姿を思い出した瞬間には、空高く見下していた地上の世界は消えていた。
ただひたすら単調で底なしに灰色な世界が無限に続いている。
今やそこには灰色の壁に飲まれた世界があるだけだ。
「……も、みんな妬ましい。みんな……てやる。全部壊して戻してやる」
暗闇以外に何もないそこで、女性の声が途切れ途切れに女神に向かって飛んだ。
すぐに声の主は何処からか音もなく、ただ不気味に姿を現した。
つばが広く先の折れ曲がっている黒色の三角帽子を被り、露出の多いドレスのような白い衣装から豊満な肉付きを惜しげもなく晒す女性が一人。
女神にはすぐそれが何なのか理解できた。
あの時、魔王を倒した際に不適に笑っていた魔女なのだから。
「……あなたは……あの時の……え……あ……っ!?」
「ああ。……んね。これであなたの……私のものだ」
「……嘘……ですよね? そんな……!? なんで……そうなって……!」
それがただの魔女であるならさほど驚かなかったかも知れない。
けれども今の女神は何も出来ない無力な状態な上に、その相手を見て二つほど気付く点があった為に――驚くしかなかった。
「……貴女の娘たちを潰すだけじゃ物足りない。貴女が大事にしている旅人も……ここに連れてきて葬ってやるよ。みんな、みんな、ここでまとめて、殺す!」
暗闇に包まれたそこがぐにゃりと捻れた。
手で掴んで捻り上げたように光景が歪む。
魔女の体から発せられる魔物たちを従えるための不愉快な空気は、まさしく魔王そのもの。
――つまり彼女は魔王の力を持っていたということである。
「……させません! 私の大切な人々を、もうこれ以上失いたくない……!」
まるで女神がフランメリアへと旅人たちを呼び寄せる時のように、魔女が灰色の世界に旅人たちと相棒を呼び出そうとする。
だがその程度であれば防ぐことは可能だった。
例え力を殆ど失った状態でも、強制的に呼び寄せようとした時に別の場所に呼び寄せてしまえばたやすく相殺できる。
それを知っていた彼女は外では焦り、内では冷静になりながらも転移を実行。
旅人と相棒たちを引きずり込もうと灰色の世界が一瞬黒く染まった。
まさに魔女が転移を発動するその瞬間、女神の転移が先に行われていく。
全ての旅人が、ヒロインが。
引きずり込まれかけた全ての者が驚くほど無造作で淡白に灰色の空間から別の場所へと。
大量の人間を収容できる『とある場所』へと次々送り込まれていく。
最初はその空間に留まっていた無数の生命力の塊が、灰色の世界から遠く離れた場所に次々と吸い込まれるように向かっていったかのように見えたかもしれない。
しかしそれは遠ざかれば遠ざかるほど、纏っていた光がぽろぽろと剥がれて灰色の空間を汚していく。
最後は微かに光るだけの丸裸の何かが弱弱しくその場を去るだけ。
後に残るのは余力少なく疲れが滲み出た女神と灰色の魔女の二人。
それでもなお女神は力を込めて言う。
「……彼らは皆、貴女がここに呼び出す前にフランメリアの首都に送り届けました。あそこは長い年月をかけて私の祝福を幾重にも張り巡らせた思い出の場所――故に、貴女の力はそう易々とは届きませんよ? だからお願い。もう……こんな事、やめましょう? 数千年前の出来事を……」
「……はんっ。知ってるよ」
転移が失敗に終わったと知れば、灰色の魔女はそれを聞いて親指を突き出す。
そして親指の先を使って自らの首を切る仕草を取った。
彼女は帽子を揺らしながらも女神に目掛けて死刑の宣告をした。
その顔は『してやった』とばかりに最高の笑みで、慈悲深い女神の全てを否定している。
「バカだねえ。これでいいんだよ。これでお前が殺したようなものになるんだから」
「……どういうことですか!?」
「あはは! お前ならあいつらをフランメリアに送ると思ってたよ! でも……残念でした、私の狙いはお前が転移してくれる事さ! それもなけなしの力を使って、全ての旅人達を集めてくれるこの時をね!」
そう笑ってから灰色の魔女は満足そうに姿を消した。
呆然とする女神が我に返って行動を起こそうとする頃には――――
◇
お久しぶりです




