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112 最後の障害

『送ってあげなよ』

『一緒に帰れ、デートしてこい』


 ゼミ仲間たちにひととおり冷やかされた後、そう促され、小林は私と一緒に学食を後にすることになった。席を離れるときに、やつは中村さんにチラリと非難するようなまなざしを送った。まあ中村さんがグルだったことは、いくら小林でもわかるよね。


 黙ったまま、二人で地上への階段を登る。

 チョコレートを受け取ってもらっただけで解決したなんて、私も思っていない。あれは外堀を埋めただけ、とりあえず逃げ出さないように先制攻撃をかけただけだ。


 シャイモラで言えば、暴れる巨大モンスターに矢を二、三発撃ち込んで少し動きを鈍らせただけの状態である。まだ仕留めきれるとは限らない。逃げられる可能性もある。

 こういうときこそ油断は禁物。心の中のグングニルさん(狩りの師)の教えを、私は反芻する。ひとりでのハントは不安だけれど、私は頑張ります。


 階段を上がって地上に近づくほど、空気が冷たくなってくる。学食の中は暖房がきいていたけれど、外は二月の気温だ。

「山田さん、あの」

 ためらいがちに小林が言った。

「俺、やっぱり……」


 犬の吠え声がした。と思うと、階段の上のほうから茶色い毛玉が小林に向けて跳ねかかってくる。

「うー、わふっ、わふっ、わんっ!」

 私の愛犬だよ。お前、しばらく小林に会えなかったのが寂しかったのか。飼い主の私をそっちのけで、小林を威嚇している。


「アンジェリカ」

 突然の来襲に、小林も驚いたようだった。いつものように不用意に手を伸ばしかけ、気が付いたように動きを止める。私は威嚇を続けているアンジェリカを後ろから抱き上げ、

「どうぞ」

 小林に押しつけた。


「寒いので。上着の中に入れてやってくれますか」

 きっぱりと言うと小林は困惑した表情ながらも、

「え、う、うん。いいのかな」

 小林はアンジェリカを受け取った。ホント、そういうところだぞ。スキがありすぎて、こっちが悲しくなってくる。もう少し警戒心をもって生きてくれ。


「わん、わんわん、わふっ、ぐるるる」

 そして、人間たちの微妙な感情には関係なく小林に向けてうなり声をあげるアンジェリカ。

 たぶん『私を置いてどこに雲隠れしていたの、下僕の分際で』とかそういうことを言ってる。女王様だから、うちの犬。


「サキ、ごめん。ケージから出したら飛び出して行っちゃって」

 アヤちゃんが焦った様子で階段を下りてきた。本当は、階段を登りきったところでアンジェリカに出迎えさせる予定で待機してもらっていたのだ。

「大丈夫、誤差だから。寒いところでずっと待たせてごめん」


 私は買っておいた温かい缶コーヒーをアヤちゃんに渡す。彼女は緑茶派だったのに、気がついたらいつの間にかコーヒー党になっていたんだよね。それも、中村さんのお気に入りと同じ銘柄。

 寒さで頬を紅潮させたアヤちゃんは、缶コーヒーを大切そうに両手でくるんだ。

 私がカップルになるように仕向けたんだけど、なんだかちょっと妬けるな。アヤちゃんがかわいくて。


「尾瀬沼さんも来てたの?」

 いぶかしそうに私たちを見る小林。

「私がお願いしてきてもらったんです。ひとりで会いに行っても、逃げられてしまうかもと思ったので」

 そう言うと、小林はまた目を伏せる。


「少しだけ、一緒に歩いてもらえませんか」

 私は口調を変え、明るく言った。

「アンジェリカも小林さんに会えて嬉しそうですし。時間はとらせません」


 小林は私を見て、アヤちゃんを見て、ふところのアンジェリカを見て、しばらく考えた。

 それから、

「うん……。少しだけなら」

 と小さな声で言った。



 アヤちゃんと手を振って別れて、私たちは大学の敷地を出る。別に行くあてはないので、私のアパートのほうに向かって進む。

「中村と尾瀬沼さん、うまくいっているんだ」

「ええ。たぶん」

 ぽつり、ぽつりと。途切れがちに会話をする。


「俺がいなくても気にしていないみたいだし、そうかなと思ってた」

「中村さんは誰が相手でも、来るもの拒まず、去るもの追わずだと思いますよ」

 犬以外は。

「でも……」

「もしアヤちゃんが別れ話を切り出したとしても、中村さんは追わないと思います。がっかりはするのかもしれませんけど」

 犬がいなくなったのなら探すだろうけど。


「……そうなのかな」

 小林は空を見上げる。今日の空は重たい鉛色だ。晴れていれば少しは明るい絵面になるというのに。

「そうですよ」

 私はなるべく前だけ見て歩く。

「だから小林さんが前みたいにしてくれたら、また元どおりになります」


 前回は、うかつに地雷を踏んで失敗した。

 だけど今度は、私のターンだ。


 小林はすぐに返事をしない。何かが喉につかえているかのように、『でも』とか『けど』とか、言いかけては黙ってしまう。

「アヤちゃんと中村さんが付き合い始めたら、元どおりにはなれませんか」

 こちらから切り込んだ。

「私が小林さんを好きだったら、今までのようには付き合えませんか」


 足を止め、今度はまっすぐに彼の眼を見た。小林は息をのむ。

「で、でも、だって」

 あわてて口をパクパクさせる。魚か。


「恋はうまくいかないって小林さんは言いますけど」

 私はきっぱり、はっきりと言う。

「友情だって、永遠じゃありませんよ。うまくいかなくなったり、離れたり。普通にあります」


 晴とのあれこれは今でも私の心の傷だけど。仲がいいと思っていた同期たちに陰で笑われなければ、退社まではしなかったかもしれなかった。『辛いからって、仕事に影響が出るようじゃ社会人失格』と先輩に厳しく説教されなければ、思いつめずに頑張れたかもしれなかった。


 休みの日に一緒に遊びに行ったり、仕事帰りに飲みに行ったりする同僚や先輩はたくさんいた。でも、退社したらその全員と縁が切れた。

 学生時代の友達だって同じだ。どんなに仲良くしていても、卒業して進路が分かれれば疎遠になる。

 梨佳とだって、このバイトを始める前は年に一、二回、会うか会わないかの付き合いだった。


 離れて暮らすようになったら、家族とだって心の距離が出来る。

 人と人の関係に永遠はない。ずっと変わらないなんてファンタジーだ。

 それでもみんな、何でもない顔をして生きている。


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