道化師の風
――終わった。
その最後の黒が消え、瘴気が祓われた瞬間。ルナはそっと吐息を零した。
まだやるべきことは残っている。それでも、やり遂げたという安堵が胸には広がっていた。
失敗できない。皆の命がかかっている。緊張、焦燥、逃避、恐怖。溢れる感情に追い詰められながら、たった一人で魔瘴方界を解放しようと浄を輝かせる。それは、真っ黒な闇の中を手探りで進んでいくような時間だった。
本当に長すぎる数分間だった。
たとえ、それがたった十分にすら満たない時間であったとしても、ルナにとってはその何倍にも感じられる濃縮された数分間だった。
顔を上げ、冷たい風を頬に受けながら周囲を見回す。氷に包まれた湖底の光景はいつの間にか様変わりしていた。
氷が覆いつくしていたはずの湖底の世界はところどころ砕け、罅ができていた。氷壁の亀裂からは湖水が漏れ、乱立した氷山の間を流れている。氷上に溜まった水たまりはまるで、東都の古い庭のように思えた。
そんな激しい戦闘の余韻を感じさせる風景を横目に、ルナは身を案じていた仲間たちに走り寄る。
「ナルちゃん! 瘴気もすごく薄まってるし、これ解放できたのよね!?」
コングの笑顔と問いかけがルナを迎える。
浄化師という身分が明らかになっても、呼び方は初対面のときのまま。変わらぬ態度が少し嬉しくて。何よりその問いかけと、皆の期待に応えられた喜びに、晴れやかな笑みと文字をルナは浮かべた。
〈はい、解放できました!〉
返答は歓声だった。
グレイスの駒者の喜びは感情が爆発したかのようだった。コングは人一倍野太い声で吠え、サルジュは飛び跳ねて喜んでいる。涙を零すシュネーと抱き合うバルフまで、らしくない泣き顔を見せていた。
雪花の湖の瘴気が祓われた以上、魔物たちはこれから少しずつ数を減らしていく。やがては、魔物の脅威に怯えない日々がグレイスにやってくる。
この北の最果てに差し込んだ温かい希望の光を思えば、コングたちは喜ばずにはいられないのだろう。
チェレンたち《黒騎》の皆も、倒れているメルクも達成感に拳を握りしめ、笑顔を浮かべている。だけど、ルナが見つめる先のテルスはちょっとだけ違っていた。
ほっと、彼は息を吐いていた。喜びよりも、安堵の思いがその表情にはあった。
その思いへの共感とテルスらしい姿に、くすりとルナは笑みを零す。
成し遂げたという喜びが皆を包んでいた。
しかし、それは王の断末魔によって終わりを告げた。
「――――――!!」
最期の金切り声が世界を震わす。
斬り裂かれ、避けられない滅びを待つだけの、もはや手を動かすことも叶わない王の叫び。
そして、その体から溢れ出したシャボン玉の群れにルナたちは言葉を失った。
「あの魔法、『風』を使っている!? 馬鹿な、何で『水』しか知らないはずの王が『風』の魔法を使えるんだ……まさか、この短時間で学習したっていうのか!?」
ソルがそうまで驚く理由はルナには理解できない。ただ、分かるのは王が新しい魔法を得て、帰り道を塞いでしまったということ。
湖底から見上げる狭い空が、おびただしい数のシャボン玉で歪んでいく。
冗談じゃなかった。さっきまでの喜びの余韻すら吹き飛ばす脅威が無数の水泡となって浮かんでいる。
早く脱出しなければ。だが、焦りを行動に移す時すら許さず、いくつかのシャボン玉が弾け始めた。
「【ウェント】!」
チェレンが発現した風の傘が飛沫を防いだ。しかし、終わっていない。周囲の水たまりの波紋が見えぬほど小さな水滴が降り注いでいることを示していた。
「おいおい、このままじゃ脱出できないぞ!」
「風で飛ぶどころか、この傘から出ることもできないじゃない!」
サルジュとバルフの言うとおり、これではずっとここで足止めを食らうことになる。そして、耐えればいつか終わりがくるなんて、そんな甘い幻想はこの領域では抱けない。
魔物の群れがシャボン玉のことなど気にもせず、突っ込んできていた。
いくら小さな水滴といえど、触れれば泡が少しずつ身を喰らい、やがては全てが泡へと還る。それなのに、知能があるはずの魚人型や人魚型の魔物たちすら、ルナたちに襲いかかってきていた。
狂っている。
マールの【魔壁】が押しとどめる魔物たちは泡へと変わる最期の一瞬まで、前へと進もうとしていた。
「こんなんいつまでも防げねえぞ! さっさと何とかして逃げようぜ!」
「いや、マール。これは……」
冷静に周囲を見回し、何度も見つからない出口を探しながら、チェレンが答えを出した。
「全て塞がれている」
上から降り注ぐ霧雨のような細かい飛沫。それを浴びて中途半端に泡へと変わった魔物たち。王の魔法は此処にいる何もかもを道連れにしようとしていた。
同胞である魔物たちすら。
狂ったように迫りくる魔物たちは、殺意を持って近づいてきているのではない。ただ、流れに身を任せるしかないのだ。泡によって身を喰われ、崩れゆく氷の外壁から溢れる水流から逃れることもできず、ルナたちに自然に押し寄せてきている。
悪辣にして、王の確かな知能を感じさせる手段だった。
「『風』の魔法で吹き飛ばすのはどうかしら?」
「……難しいと思う。吹き飛ばすことはできても、飛沫が舞い上がって脱出の邪魔になる。飛ぶ、吹き飛ばす、防御って役割を分担するのはどう?」
「その場合、役割分担ははっきりしているな。飛ぶことができるのはテルスしかいない。私は飛ぶことも吹き飛ばすこともできないため防御だけ。残る吹き飛ばすがアイレとなるが……」
「はい、無理です。私の『風』だと細かい威力の調整ができないから二人の魔法ごと吹き飛ばしちゃいますね……ふふ、私ってほんと役立たず……」
自虐的なことを言っているが、この問題はアイレの力が足りないせいではない。
こんな限定された状況を打破できる魔法など、それ専用に調整された魔法陣くらいのもの。精霊魔法や【リベリオン】ですら不可能ということは、感覚的にルナも理解できる。
だが、それは『風』一つで全ての問題を片付けようとするからだ。例えば、他の属性ならばどうだろうか。
〈他の属性、『氷』はどうですか?〉
「それだ! メルクなら凍らせ……られないな、今は。となるとシュネー、どうだ?」
「私の魔法で空一面の泡なんか凍らせられないよ、サルジュ。範囲が広す――」
一条の光が、シュネーの声を遮った。
瞬く光に誰も反応できず、ただ結果だけを呆けた視線が追う。氷山の上の人魚型魔物、貫通された【魔壁】、そして、腕が抉れた仲間の姿――
「バルフ!」
「――ぐっ、かすり傷よっ。それよりも【魔壁】を強化しなさい!」
額に脂汗を滲ませながらバルフが気丈に叫ぶ。決して軽い傷ではない。肘付近の肉は大きく抉れ、力が入らないのか左腕が体に引きずられるように揺れてる。悲鳴や苦痛を耐える声が上がらないことが不思議なほどの大怪我だ。
手当をしなければ。肉が焦げているから出血こそ少ないが、放置すれば命に関わる。しかし、その余裕はルナにも誰にもなかった。
周囲の氷を輝かせながら、無数の光が迫っていた。
「マール切り替えろ、全方位に【魔壁】だ!」
「【魔壁《城塞》】!」
乱舞する光。それにいち早く《黒騎》が反応し、【魔壁】の城を作り上げる。
だが、足りない。城壁は一秒ごとに欠け、ただの宙を漂う魔力へと還っていく。
残った魔力を絞りつくすようにマールは魔法を発現し続ける。その【魔壁】の遥か向こうで人魚型の魔物が嗤っていた。
欠けた氷山を傘にし空から落ちる飛沫をやり過ごし、無数の光を氷に反射させる白に近い体色を持つ人魚型魔物。ルナの知識にはない魔物だ。
おそらく、ルナたちが魔瘴方界の調査で湖に最接近したときに放たれた光線の射ち手。そして、その隣には――
「待って、メロウがいる! 『風』で吹き飛ばさないと霧でここを――」
シュネーが叫ぶ言葉の続きは金魚を思わせる優美な尾びれを持つ、一際華やかな人魚型魔物、メロウが引き継いだ。
【魔壁】の向こうの景色が霞んでいく。二回、三回と瞬きをすれば、白い霧のベールが【魔壁】の向こうを完全に覆い隠していた。
「……前に話したけど、メロウの霧には幻惑の作用がある。絶対に吸っちゃだめ」
メロウの情報は以前に酒場で聞いた。シュネーの両親がこの霧によって惑わされ、湖へと引きずり込まれてしまったことも。しかし、今一番厄介なのは霧の効果ではなく、霧が視界を覆い隠していることだ。
がん、がんと【魔壁】に衝突する音が聞こえる。それが何なのか、何処からくるかは分からない。ただ耐え続けるしかないマールの額は汗に濡れ、歯の隙間から声が漏れている。
このままでは持たない。
それを分かっていても、耐えることしか選べるものがなかった。
シャボン玉の群れや霧などの厄介な魔法を放つ人魚たちをどうにかしたくとも、この精霊魔法の傘と【魔壁】の城から出ることは死を意味する。人魚たちが離れすぎていて、決死の覚悟で外へ飛び出すことすらもこの状況では意味を持たない。
今できることなど、この防壁の補強くらいのもの。
ルナやグレイスの駒者が【魔壁】など、各々が持つ防御手段を展開するが、おそらく一分もこの先に待つ結末を引き延ばせないだろう。
この【魔壁】が切れれば、それで終わり。
どんなに考えようとルナには何も思いつかない。ただ嫌で嫌でたまらない選択が迫っていることだけを、思考は告げていた。
「終わりだな。テルス、話していたとおりだ。お前は――」
誰よりも早く決断したのは、《黒騎》の副団長だった。が、チェレンのその言葉を最後まで紡がせることなく、壁の向こうを見つめるテルスが口を開いた。
「分かってる。皆を置いてルナと一緒に魔瘴方界から脱出する。二人なら『風』で包めるし、飛行にも問題はない。この霧も飛沫も突破できる」
それは、ここまで戦った仲間を見捨てるという選択肢だった。
しかし、そんなテルスの非情な決断を責める声は誰からも上がらない。
仕方がない、と皆が息を吐き出していた。
決まっていた話だ。魔瘴方界の攻略に前向きだった理由の一つは、飛行することで脱出がしやすいという点があったから。そして、その飛行を可能とするテルスは騎士であり、騎士が何を優先するかも明白だ。
――分かってる。
だから、何も書かない。
ルナは寄り添うようにテルスの隣に立った。
「ま、レベルⅢの魔瘴方界の解放を成し遂げたんだ。これ以上を望むのは贅沢ってもんだよな。あー、テルス。あいつらに俺の勇姿と最期の言葉をだな――」
〈まだ、です〉
暗い空気を払うように。後輩が抱えないように。きっと、そんな想いが込められたマールの冗談めかした声をルナの文字が止めた。
文字は続かない。
怪訝そうに自分を見つめる視線に気づいていてもルナはその先を書きはしない。
ただ、握る魔石を砕かんとばかりに力を込めるテルスの手に、自分の手をそっと重ねた。
続きなど書けるはずがない。
この騎士が何をしようとしているか分からないのだから。
でも、彼が諦めていないことを知っている。チェレンを遮って口にしたあの言葉にどんな意味が込められているのかも何となく分かっている。
きっと、テルスは足掻くつもりだ。
そして、その足掻きが届かなかったなら、テルスは自身が口にした言葉に従い、浄化師を連れてここから飛び立つのだろう。
あの言葉はそういう戒めだ。
そして、浄化師である自分が今、この騎士にできることは一つだけ。
背中を押すこと。白い少女は重ねた手から浄の光を輝かせ、ボロボロな少年にほんの少しの後押しをする。
交わす声も、文字もない。
ただ、風がどくんと鼓動するかのように揺れた気がした。
「ルナ以外は気球に入ってて。アイレとチェレンさんは念のため魔法の用意を」
「……諦めが悪い奴だ。この状況でそれが言えるなら正真正銘お前はあの馬鹿以上の大馬鹿だよ……ほら、テルスに従え。さっさと気球に入るんだ」
呆れを滲ませながらも少しだけその声を明るくし、チェレンが皆を急かす。
何をするんだとその表情に困惑を貼り付けながらも、皆が駆け足で気球に乗り込んでいく。
「……そうね。最初から死を覚悟するなんて、グレイスらしくないわよね」
倒れているメルクを担ぎながら、コングがそんな言葉を口にする。
「ありがとう。貴方たちがこの地に来てくれてよかった。貴方たちと出会えたのは、私にとって一番の幸運だったわ」
まだ、皆の生存を諦めていない。
でも、この冷たい湖底に置いていってしまうかもしれない。見捨てるという選択をするかもしれない。その可能性が今はあまりにも高い。
それなのに、コングはルナとテルスに向けて、柔らかく微笑んでいた。
「だからね、私はここでも賭けるのよ。あ、テルス・ドラグオンとルナ・スノーウィルという騎士と浄化師さまにじゃないわよ」
気球へと走りながらルナとテルスへ送られる言葉は。
一番最初に出会ったグレイスの民の心からのエールは――ただ温かった。
「一緒にお酒を飲んだテルとナルちゃんに、ね」
風が、空気が揺れる。
返す言葉はない。ただ少年は空を睨み、風をその手に掲げる。
「ディール起動……ルナ掴まってて」
抱き寄せられ、少しだけ高い場所にある彼の顔を見上げる。越えねばならぬ空を真っ直ぐに映すその目に少し鼓動が跳ねた。
――本当に、ボロボロだなあ。
抱きしめるその体は傷だらけだ。力を込めるのが少し怖いくらい。
額をその身に寄せ、そっと【浄光】を灯しながら、彼が最後まで真っ直ぐに進めることを少女は祈る。
ルナは嫌だとしても。
その姿は彼女の二つ名を誰もに思い描かせるほど、真っ白な想いに満ちていた。少なくとも気球の小窓から覗く仲間たちは、初対面以外で初めてその言葉が浮かんだことだろう。
「俺にとって何よりも強い風……あのときの、風」
手の先に浮かび上がる魔法陣。風に乗せた呟きに応えるよう、一際強く吹いた風がメロウの霧だけでなく、守りすら吹き払う。【魔壁】や精霊魔法の傘が、たった一陣の風によって消えてしまった。
しかし、シャボン玉の飛沫はテルスとルナ、背後の気球にすら降りかかることはなかった。魔物が乗る水流すら見えない壁に阻まれているかのようにせき止められている。
ただただ、不思議な風だった。
内から外へ風が吹いているはずなのに、ルナの髪を揺らし、頬を撫でている風はそれと逆方向に吹いている。遠くでは魔物が乱気流に吹き飛ばされているのも見える。風の強さも、風向きも、何もかもがバラバラだ。自然現象では決してありえない不可思議な風がこの湖底に吹いている。
その風に、ソルが驚愕していた。
「ちょっと待つんだ。テルス、何をしている?……それは、それは【リベリオン】にはない、僕たちの領分を越えている力だ。何で、何で……」
答える声はない。そもそも、聞こえていないのだろう。深く、深くテルスは集中している。そのことは彼が浮かべた【道化の悪戯】の魔法陣からも読み取れた。
――幻想発現を使って、風を操ろうとしているの……?
幻想発現によって、思考を精霊に伝え、風を操る精度を上げる。正確には自分が風を操るのではなく、精霊に風を動かしてもらう。
テルスがしようとしていることは、そういうことだろうか。
先ほど話し合っていた問題。
あれは、突き詰めればネックとなっていたのは『風』の操作であった。
飛ぶために風を集めると飛沫も集めてしまう。
シャボン玉を吹き飛ばすと飛沫が散って脱出の際に邪魔になる。
全方向を風で防御しながら、飛ぶための推力をどう確保すればいいのか。
ルナが思いつく問題ですら、あまりに緻密な操作が求められる。
これを解決できるのはやはり、風という空気の流れを知り尽くした者が調整した魔法陣くらいのものだろう。しかし、そんな都合の良いものがこの湖底にあるはずがない。
だから、テルスは精霊に都合の良い、機械仕掛けの神となってもらおうと考えたのだろう。知識で至れない場所に、想像と精霊の力で手をかけようとしている。
精霊にどう動いてもらいたいか明確ならば――例えば飛沫を避けて風を集めるなど――原理としてこの方法は不可能ではないとルナは思う。
【道化の悪戯】という自由度の高い魔法。
【リベリオン】という精霊の力を借りる手段。
幻想発現というより正確に思考を精霊に伝える技術。
これらが合わされば、この方法は可能ではないか。
そう思うのに、【リベリオン】という力の片翼を担う精霊はただ狼狽していた。ソルは信じられないものでも見ているかのように、テルスの肩から虚空に視線をさまよわせている。
「颶風顕現……」
空を映すテルスの目は、まるで何か他のものを見つめているかのようだった。
過去の、記憶に刻まれた刹那を思い出すかのように、ここにはない感情を瞳に乗せている。
「吹き飛ばせ……」
風が止んだ。
水たまりに浮かぶ波紋すら消え、氷の鳴る音さえ聞こえるほど静かな静かな、凪いだ世界。その中でふわり、とルナとテルス、そして気球だけが浮かんでいく。
透明な何かが周囲で揺らいでいる。集約させるように、圧縮するように、封じ込めるように。見えない何かが、ルナたちを包んでいた。
そして、白い隼がテルスが掲げた腕へと舞い降り、
その魔法の名をテルスは唱えた。
「――デウス・ウェント」
――飛んでいる。
見上げていたはずの大空が眼下に広がっている。
空の青と奇妙に歪んだ白い雲。
見下ろすそれが鏡のような湖面が映すものだと理解したことで、ようやくルナは飛んでいるのだと思考が現実に追いついた。
吹く風に目を閉じ、次に開いたときには空にいた。
あのシャボン玉も、魔物も、魔瘴方界の最奥の何もかもを吹き飛ばして。
まるで瞬間移動でもしたかのよう。髪を撫でるそよ風と少しの浮遊感しか覚えがない。だが、足元から這い上ってきていたはずの残酷な結末は、今は遥か眼下に置き去りにされていた。
風に混じって喜びの声が聞こえる。いや、これは悲鳴だろうか。
くるくる回る気球からは、色んな感情が入り混じった奇声にしか聞こえない声が上がっている。
そして、雪花の湖が遠ざかっていく。
割れた鏡面の向こう、湖底に倒れた人魚の姫。
もう、こんなに離れたこの空からでは見えぬはずのその姿。
だけど、何故だか憎々し気に、口惜しそうに、羨ましそうに。初めて空を見上げる王の姿が見えた気がした。
泡沫へと還っていく人魚姫。
彼女が決して触れられぬ空へ、この黒の領域の外へと風を切ってルナたちは飛んでいく。
ぎゅっとルナは相棒を抱きしめる。テルスの顔色は蒼白で、呼吸は弱々しい。力の抜けた体はもはや飛んでいるというより、風の吹くままに吹き飛ばされているようだった。
ただ心配だった。テルスが生きていることを実感するために、抱きしめる力がつい強くなる。腕の中に感じる鼓動と体温に心配が少し和らぎ、誰も欠けることなく此処から出られることに、深く深く安堵する。
そして、ついにルナたちは薄れていく境界を越え、魔瘴方界から帰還し――
その光景を目にすることになる。




