巨魚と新武器
「は……?」
「え、本物?」
高台の上では、グレイスの駒者たちが信じられないといった様子で目を見開いていた。
その視線の先に立つは、一人の浄化師。白装束に身を包み、不安そうな表情をフードで隠したルナがいた。
テルスに投げろと言われ、思いっきり投げたものの、ルナはやはり心配だった。
慣れぬ土地で、それもマテリアル《Ⅳ》との戦闘。やはり、自分もサポートに入った方がいいだろう。意を決して、ルナは高台から降りようとするが、他ならぬグレイスの駒者たちがそれを止めた。
「だ、駄目ですよ! 浄化師のルナ・スノーウィル様ですよね。貴方をあんな危険な場所に行かせられません!」
立ち塞がる駒者たち。急がなければいけないのに、何故、魔物ではなく人に邪魔されないといけないのか。それにあそこで戦っていたのはグレイスの駒者だ。仲間を助けようとは思わないのだろうか。
〈私の騎士が戦っているのですが〉
少しばかりむっとしてルナは文字を書き――
「え? それが彼の仕事でしょう。貴方様は安全な場所にいてください!」
「御身をさらに傷つける必要はありません。どうか、ここからあの魔物を追い払うのを見ていてください」
返ってきた言葉に思わず手が出るところだった。ここでも、こんな北の辺境でもルナはこういう扱いを受ける。
いや、この地だからこそ、浄化師であるルナはこんな神を見るような目を向けられてしまう。
――たった一度、子供を助けたことがそんなに偉いのですか。私はお姫様のような扱いをされたいんじゃない。あそこで私の騎士と一緒に戦いたいんです!
そんな言葉を叫ぶことすらルナはできない。代わりに文字を書こうと光球を動かそうとし、ルナはやめた。きっと、思いを文字にしたところで、ここにいる人たちには伝わらない。そんな気がしたから。
「さあ、こちらへどうぞ。今は戦闘中ですが、こちらなら安全です」
「いや、地下に行った方がよくないか?」
「そうだな。余っている人員は護衛に回ろう」
「まったく、騎士が浄化師を放り出すとは……」
とりあえず、ルナはこのイライラを抑えるため、深く息を吸うことにした。
そもそも、この人たちは何なんだ。仲間が必死に戦っているのに、魔法を撃っている者以外は高みの見物。救助もせず、本当に見ているだけ。戦っている者とそうでない者の温度差が酷すぎる。
周囲は人による檻が作られていた。まるで鳥籠だ。興味や信仰、様々な欲がこめられた視線はルナには慣れたもの。だが、気持ちが悪いことに変わりはない。
だから、ルナはどかすことにした。
だらりと下げたルナの手に白い光が閃いた。
稲光のように瞬く『浄』の魔力。美しくも激しい魔力の奔流は、それだけで人の檻を壊した。少女の澄んだ目に駒者たちは怯み、踏み出す一歩に道を開ける。
〈まずは救助に回ります。心配は無用です。私の魔法なら、狩場に降りずとも救助できます。治癒の魔法を使える人は待機していてください〉
少女の静かな気迫に押され、周りの駒者は答えることができない。しかし、高台の上から魔法を飛ばし、テルスを援護し続ける一団は違った。
「ああ、頼んます!」
「お願いします。コングの馬鹿たちを引っ張り上げてください!」
「治癒魔法なら私が。何でも言ってください」
その言葉を追い風に、ルナは軽やかに跳躍した。
上空から稲妻の如く光が閃き、魔物の残党が次々と消えていく。魚型魔物プテルスは『浄』の余波だけで消え去り、人魚型魔物ローレライは【閃手】によって殴り飛ばされ、瘴気へ還っていった。
跳躍から着地までの数秒でルナは残っていた魔物を全て片付けた。
高台では驚愕の声が上がっていた。『聖女』やら『白桜の姫』は戦えないと思っていたのだろう。あいにく、ルナは『閃手』の二つ名の方が強そうで気に入っている。魔法の名前だって、この二つ名から取ったくらいだ。
それにしても、自分はたかがマテリアル《Ⅱ》も倒せないと思われているのか。子供を庇ったあのときだって、喉から血を流しながらあのマテリアル《Ⅲ》を殴り飛ばしたのに。心底不思議に思いながらも、ルナは狩場へ手を伸ばした。
ちょうど高台と狩場の中間にいれば、そう動かずとも下にいる駒者を上へと運ぶことができる。テルスと共に戦うためにも手を休めず、怪我人を運び続けるルナだったが、
「待って、ナルちゃん!」
聞き覚えのある声に手を止めた。よくよく【閃手】を発現させた右手を見れば、持っているのはコングだった。下にいた駒者は全員泥を被った土まみれな姿だったこともあり、気づかなかった。
「私は残る。このまま降ろして。あいつを追い払うなら私の魔法が必要よ!」
〈でも、その魔法は皆で使ってこそ効果があるものでは?〉
「ええ、そうよ。昨日の話、覚えてくれていたのね。でも、あなたがいれば私だけでもいけるかもしれない!」
「ちょっと待った! それなら俺も残る!」
コングの声に左手に持った人まで声を上げる。どう見ても満身創痍なのに二人ともやる気に溢れている。掴んだ【閃手】から【浄光】を送り込みながら、ルナはそっと二人を降ろした。
「ありがとう。多分、他の面子もこの作戦に乗ると思うから下にいる残りと、あの高台にいる声がうるさい奴を持ってきてくれないかしら」
〈分かりました。でも、何をするのですか?〉
「簡単よ。作って――」
まさか、陸上で魚と戦うことになるとは思わなかった。
黒い鯰からひたすら逃げながら、テルスはしみじみとそう思っていた。
一度だけ、リーフの近くにある港で魚型魔物を見たことがあるが、戦ったことはない。何しろ、相手は水中にいるのだ。漁師が釣り上げたり、船の甲板に飛び出てきたりしなければ遭遇すらしない。
戦うことが限られた魔物のカテゴリ。加えて、魔法も専用のものを選択したり、調整が必要となる。目の前の魔物はそんな相手だ。
つまり、テルスはこんな魔物と戦う想定をまったくしたことがない。
だから、どう戦うべきか悩んでいた。
「どうしようか……」
テルスは魔物に関しては予習を欠かさない。リーフ付近で知らない魔物はいないだろうし、このグレイスの魔物だって大抵は覚えている。でも、マテリアル《Ⅳ》をいきなり相手にする予習なんかしていない。
「はあ……ルナと数日は様子見の予定だったはずが……帰ってくんないかなあ」
そんなぼやきの返答はシルアフォムスの地震だった。
泥の弾丸や突進をひょいひょい躱し、間合いの外から刃を伸ばし刻んでくる。
そんな獲物が鬱陶しいのか、シルアフォムスの暴れようは先程までの比較にならなかった。
しかし、テルスにとって本当に面倒なのはこの魔物ではない。肩に乗るネズミだった。
「おっと、テルス、泥! 泥の弾丸が飛んでくるよ! いやー、なんで泥なのに、こんな固いんだろうね。見てごらんよ。地面が抉れてないかい、あれ。頼むから当たっちゃ駄目だよ。あんなの掠っただけで、僕は潰れちゃうよ。あ、どうもあいつは『水』と『土』の属性を使えるみたいだね。使ってる魔法は【硬化】っていうのが似ているのかな。おっと、また地震がくるよ。そのあと、泥だ……ふむ。地震によって周囲の地面を緩くしているのかな。つまり、地震をするタイミングでは泥は使いにくいということじゃないかい? ふむ、これはまた役に立ってしまったようだね。では、あと――」
「分かった。分かったから、すっごい役に立ってるから、十秒くらい黙ってよう」
なんだこれ。新手の拷問か。ただうるさいだけならともかく、所々役に立つというのがまた腹が立つ。
姿勢を低くしテルスが地面の揺れに耐えていると、ソルの言っていたとおり泥の塊が飛んできた。
「【道化の悪戯】、ディバイドっと」
両断された泥はテルスを避けるように地に落ちた。はたから見れば、テルスの剣の腕が物凄いように見えるが、それは違う。相手の魔法を弄って、自分に当たらぬようにしているだけだ。
人間相手ならいざ知らず、知能が低い魔物の魔法はその構成もシンプルだ。これならいけるか、とテルスはさらに仕掛ける。
「バック」
刀に触れた泥が反転し、シルアフォムスの顔に直撃した。
自分の魔法を跳ね返された。それは、まさに顔に泥を塗られることだったのだろう。飛び跳ねるようにしてテルスに襲いかかるシルアフォムスは――
突如、飛んできた物体に撃ち落とされた。
(……多分、気のせい……気のせいだよね?)
その物体はテルスの聞き間違いでないなら、シルアフォムスよりも大きな音を立てて落ちてきた。あのソルですら口のチャックを閉めたように声が出ない様子だ。
テルスの身長ほどの巨岩。
顔らしきものがあるその巨岩は狩場に小さなクレーターを作り転がっていた。
おそるおそる飛んできた方向を見る。斜面の中腹。人が集まるその中心。そこにいたのは……巨岩をお手玉のように弄ぶ光の手を発現させた少女だった。
「ソル、逃げよう」
「うん。すぐに離れたまえ」
二人は確信していた。あの白い少女がお淑やかなのは外側だけ。内側に潜む脳筋さは計り知れない。だから、あいつならやる。外したらとか、味方に当たったらとかは多分考えてない。〈テルスなら当たらない〉とか信頼してしまっているに違いないのだ。
走り出すテルス。
しかし、その判断は少し遅かった。すでに前方には流星群の如き弾幕が迫ってきていた。
大質量の巨岩がテルスの近くを通り過ぎていく。風圧だけで吹き飛ばされそうになりながら、テルスは走る。シルアフォムスを相手にするよりもよっぽど怖い思いをしている気がした。
そして、背後のシルアフォムスは怒り狂っていた。
おちょくられるような攻撃をされ続け、餌を食おうとするたびに邪魔が入る。
堪忍袋があるかは知らないが、シルアフォムスが怒っているのは一目瞭然だ。狂ったようにその尾を地面に叩きつけ、幾度も振動が地を走っていく。
シルアフォムスの周囲から大量の泥が持ち上がった。
地震に足を止めるテルス、斜面で巨岩を投げつくしたルナ、グレイスの駒者たちに再び泥の雨が降り注ごうとしたそのとき。
突如、巨岩が動き始めた。
シルアフォムスの近くに落ちていた巨岩から何かが生えたかと思うと、それを支えに巨岩が立ち上がったのだ。
「手と……」
「……足?」
テルスとソルがまじまじとそれを見ている間も変化は続く。
ぼすんぼすん、と生えた足を支えに巨岩たちは歩き始め、シルアフォムスにぶつかっていく。一体だけならシルアフォムスに跳ね飛ばされて終わりだっただろう。しかし、ルナが投げ込んだ六個の巨岩全てに体当たりされては、そう簡単にはあしらえない。
「テルス、テルス、何だいあれ?」
「えーと、多分【土人形】の魔法だと思う。昨日、コングさんが言ってた、狩場の魔物を誘導するための魔法……ということは、ここにいるとまずいか」
昨夜の説明は覚えている。あの『土』の魔法で作った人形は今、己の役割を果たすために動いている。
その役割とは魔物を排水溝まで誘導すること。
この狩場は魔物と戦うための場である以上に、対処できない魔物を雪花の湖まで追い返す場だと、テルスは聞いた。
マテリアル《Ⅳ》のシルアフォムスは確実に手に余る魔物だ。ならば、排水溝とやらに落とし、潮の水を利用して湖まで流す算段なのは想像がつく。
「でも……どこだ?」
問題はテルスには排水溝の場所が分からないこと。地面は泥だらけ、目印らしいものも見当たらない。自力で見つけることはできなさそうだ。
このまま、土人形たちに任せられるなら、排水溝を見つけなくとも問題はない。テルスはさっさと狩場から離れて、排水溝から落ちていくシルアフォムスを笑顔で見送ればいい。
しかし、テルスはその場で様子を見守っていた。これで終わらないという直感がテルスの心の内で囁いていたからだ。
勘だけでなく、冷静に考えても同じ結論が出る。コングが話していた作戦では、使用される土人形は十を超えるはず。今、シルアフォムスを押しているのは六体。約半分の土人形でシルアフォムスを誘導できるか……
吹き飛ばされた土人形がその答えだった。
テルスの懸念どおり六体では足りなかった。土人形の囲いを吹き飛ばしたシルアフォムスの暗い目が再びテルスに向く。
(さて、どうしようか)
いっそ、マテリアル《Ⅳ》相手にこの前、貰ったとっておきを試してみようか、なんて考えが浮かんだと同時に、テルスの耳元でソルが叫んだ。
「ルナ嬢から指示だ! 今、動いている土人形が止まった地点が排水溝の中心だそうだ。そこまで誘導した後、シルアフォムスの動きを止めて離脱、だそうだ!」
ルナたちもあれで終わるとは思っていなかったらしく、迅速な指示だった。ちらり、とルナの方を見ればでかでかと赤い文字が宙に書かれている。あの魔具はこういうときは本当に便利だ。それにしても……
「簡単に言うなあ。あ、いや書くか」
「さあさあ、テルス見せ場だよ。僕たちの勇姿をグレイスの人たちに見せつけてやろうじゃないか。そのほうがこの後色々と、ふぎゃ!」
突如、走り出したテルスにソルが舌を噛んだ。
「痛い! 痛いじゃないか、テルス! それに土人形とやらはまだ動いてりゅ、痛い!」
残った一体の土人形はまだ歩いている。ついでにソルは舌を噛むというのに喋り続けている。が、テルスはそれらを無視して、シルアフォムスに突貫した。
「【道化の悪戯】」
地面を擦るようにぶら下げた刀。
その切っ先に触れた泥が勢いよくシルアフォムスの顔に飛んでいく。その返礼は同じ泥の飛沫。相手はマテリアル《Ⅳ》。当然、規模の差は明白だ。飛沫どころか津波のような泥がテルスに押し寄せる。
――ディバイド。
切り裂いた泥の隙間をすり抜けテルスは駆ける。肩に乗るネズミも『死神憑き』が本気だということを悟ったのか、ようやく口を閉じ事態を見守っていた。
鞭のようにしなる両の髭が迫る。しかし、それではテルスの足は止められない。髭を両断したテルスは鈍重なシルアフォムスを嘲笑うかのように狩場を走り回っていた。
灰の弾丸が休むことなく降りかかる。傷をつけることが目的ではない。テルスは弾雨の中、相手の反応をじっと窺っていた。
(目と鰓、口の中。体の内側はやっぱり弱いのかな)
皮膚の表面はぬめっており、【魔弾】では傷を負っているようには見えない。
一方、【魔弾】が皮膚がないところに当たるたび、シルアフォムスは小さく反応する。それを見て、テルスは狙いを定めた。
そこから先は一方的な戦闘だった。おそらく、水の中ならまともな勝負にはならなかった。
しかし、ここは陸の上。打ち上げられた巨魚はその力を十全に発揮できず、ただ斬られ続けた。
シルアフォムスが逃げようとするたびに目や鰭、尾が斬り裂かれる。反撃の魔法を使用してもいなされ、隙があれば胴体を深々と貫かれる。口を開けば爆弾が放り込まれ、怯めば鰓を鋭い弾丸が穿つ。
再生することを許さない死の連撃。
それを目の当たりにして、ソルやルナ、高台の上の駒者たちはテルスがこのままシルアフォムスを倒す気ではないかと思っただろう。
この連撃はトランプ・ワンの名を冠す超高威力の魔法を持たないテルスが唯一、マテリアル《Ⅳ》に勝てる可能性がある手段。すなわち、再生しなくなるまで殺し続けること。
声すら上げず、息を呑んで事態を見守るグレイスの駒者たち。
やる気だ。あの騎士はここで魔物を仕留める気だ。だが、その考えを肯定するかのような狂気的な連撃の末、テルスは距離を取った。
止んだ連撃。すかさずシルアフォムスが反撃しようと泥を持ち上げ――
浮かんだ泥ごとシルアフォムスは極大の【魔弾】に吹き飛ばされた。
それはバレットペアよりも大きく、中位以上の威力の魔法。
テルスでは使えぬはずの規模の魔法だった。
「……なんだい、それ?」
驚愕と好奇心に目を染め、ソルは問いかける。その視線の先にはテルスの左腕に装備された籠手があった。
「おお、すごい……魔物相手は初めてだったんだけど」
なお、今の魔法を撃った本人はソルよりも驚いていた。
「だから、なんなんだい!?」
「新武器。ヴィヌスさんから貰った試作品の魔具」
貰ったときは涙が出かけたほど嬉しかった贈り物の魔具。
見た目は黒い籠手。大して頑丈そうにも見えないシンプルなものだが、その機能は防御ではない。
テルスは籠手の上部をパカリと開け、中のホルダーからカードを取り出した。
「簡単に言うと、このカード型の……」
「それって、精霊石じゃないか!」
ソルはテルスが持つカードに目を見開いていた。複雑な模様が描かれた青みがかった銀色のカード。これはソルの言う通り精霊石だ。ただし、一応は、だが。
「そっか。ソルは精霊だから分かるのか。でも、これは空っぽの精霊石らしいよ」
何らかの理由で精霊の加護を失った石。その石を再利用できないか研究している過程で生まれた副産物。それがこの魔具だ。
ようは、魔力回復に使う魔石の精霊石版みたいなもの。カードにあらかじめ魔力を込めておき、専用の籠手に差し込むことで効率よく魔力を引き出せる。
魔力を大量に注いだところで威力が劇的に跳ね上がるわけではなく、上位の魔法を使えるようになるわけでもない。だけど、魔力が少ない自分には大助かりだ、とテルスは嬉しそうに話す。
ソルはその話を聞くと、不思議そうに首を傾げた。
でも、今の魔法の威力は中位以上だったじゃないか、と。
「ああ、それはちょっと裏技があってさ。まあ、後でゆっくり教えるよ。頼まれたことも終わったし」
テルスの足元には――いつの間にか動かなくなっていた土人形が転がっていた。
「……何だ、倒す気かと思ったよ」
「あのままやっても魔力切れになりそうだし。それに、普通はそのつもりでやると思う」
この場にその発言に異を唱える者はいない。マテリアル《Ⅳ》はそんな簡単に挑む相手じゃないから、と書いてくれる相棒は近くにはいなかった。
ポーチからロープとナイフを取り出し、軽めの【魔弾】をテルスは撃つ。
それはどう見ても挑発にしか思えない魔法。散々、自分をいたぶった相手は戦いに飽きたと言わんばかりに、地面にナイフを突き立て遊んでいる。
怒れるシルアフォムスは泥の波に乗り、標的が近づいてきたことを確認したテルスは上空に魔弾を撃ち上げた。
上手く伝わったかなあ、と思ったと同時にテルスとシルアフォムスの足元が扉のように開いた。ルナが即座にこちらの意を汲み、指示を出してくれたのだろう。
足元に開いた大穴はまるで、排水溝というより巨大な落とし穴だ。これを掘るのは大変そうだ、とずれた感想を抱きながら、ロープで宙ぶらりんになったテルスは落ちていくシルアフォムスを見送っていた。
だが、怒り狂った魔物がそれを良しとするはずがなかった。
ここまではテルスの想定通りだった。シルアフォムスを攻撃し、怒らせ、排水溝まで誘導する。そして、上位の魔物を止めておく魔法なんてテルスの手札にはないから、潔く自分ごと落としてもらう。
その考えは甘かった。陸上とはいえ、相手は仮にもマテリアル《Ⅳ》。
シルアフォムスは落ちながらも身に纏った泥を鋭い矢の如く飛ばし、最後の足掻きを見せた。
「やば」
「ちょっと、テルス! 揺れてる、落ちちゃう!」
「魔法で固定したから多分落ちない、うわっ」
ぶらんぶらん宙を揺れるテルスとソル。【魔壁】を張ってもすぐに砕かれ、高速で飛来する泥の矢を躱すために【道化の悪戯】を使い、風を操ることを余儀なくされる。ブランコのように揺れるロープにしがみつくので精一杯で、とても上に戻る余裕などなかった。
離れていくシルアフォムス。
落ちてから十秒近く過ぎ、ようやくテルスたちは一息つけるようになった。
ぼしゃん!、と水音が下から聞こえてきた。シルアフォムスが水に落ちたのだろうか。それにしては随分と小さな音だった。
「この穴、どれくらい深いんだい?」
「さあ。でも、相当深いとは聞いた。少なくとも、この丘と湖の差くらいの深さはあるんじゃない」
訝し気に問うソルにテルスも首を傾げながら答える。奈落にでも続いているのではないかと思うほどの深さを見れば当然の疑問だ。
一体、ここまで穴を掘るのにどれほどの労力と時間を費やしたのか。
この穴だけでグレイスの人々が持つ、災害に負けない強い意思が伝わってくるかのようだった。
「それにしても、このロープ結構長いじゃないか。大丈夫かい?」
「上がるのきついなあ」
「じゃあ、どうするんだ! 文句を言ってないで登りたまえ! 僕たちもこのまま流されてしまうじゃないか!」
嫌だ嫌だ、と深い穴の底を見つめ、ソルが泣きわめく。しかし、テルスは何かを悟ったように落ち着いていた。
この後、どうなるかテルスは分かっている。
テルスの想像通り、白い光の手が丸く切り取られた空の彼方から伸びてきた。
それはソルにとっては蜘蛛の糸のような救いに見えたのだろう。即座に泣き止み、喜ぶ肩の上のネズミを見れば分かるというもの。
だが、テルスはちょっと違う。
「ああ……またかあ」
諦めにも似た呟きがソルに届くよりも早く、テルスたちは宙を舞った。
二日酔いとブランコみたいに揺れた反動。それに加え、ちょっと懐かしい相変わらず苦手な圧迫感。急速に迫るある危機に耐えながら、テルスたちは空に落ちていった。




