潜む魔
「【道化の悪戯】」
煙玉から溢れた白煙が生き物のように動き始める。白煙はまるで蛇のように隈笹の隙間を縫って入り込み、深い緑を白く彩っていく。数秒もせずに、目標の隈笹ではなく、周囲の草むらから虫型魔物たちが飛び出してきた。
蜻蛉、飛蝗を始めとした数々の虫型魔物。どれも周囲に溶け込むような深いグリーンの体で、止まっていれば茎や葉としか思えなかっただろう。
四方八方に散っていく虫たちを、木陰に隠れながらテルスたちは見ていた。魔物がいないこの木陰に陣取るためにも、煙玉を一つ使っている。残りはテルスが三個、ルナが二個、バックパックに三個だけ。帰りを考えるのなら、無駄遣いをする余裕はない。
〈少ない……かな?〉
「うん。煙を撒いた範囲に対して出てくる虫が少ない……というか、あんな大きな隈笹の茂みなのに、一体も出てこないはずがない」
揺れていた周囲の茂みが静止する。先ほどまでの慌ただしさが嘘のようだ。何より、静寂を保ったままの不気味な茂みは侵入者を手招きしているように見えた。
テルスは深く息を吸い、吐き出すと立ち上がる。
「行ってくる。ここで少し待ってて」
〈行ってらっしゃい……気をつけて〉
魔力の残りが少ないルナを置いて、木陰から出たテルスは真っ直ぐ隈笹の茂みへと向かっていく。
慎重に一歩ずつテルスは歩を進める。
周囲に魔物の影はない。急に襲われようと対処できるよう刀を構えて、歩いていく……一歩……二歩……そして、何事もなく隈笹の前までたどり着く。
(もしかして、本当にいない? それなら楽でいいんだけど……)
いや、それはないなー、とテルスはすぐに否定する。そこまで、魔瘴方界が甘いとは思えない。たとえ、そうであったとしても気を抜くのは楽観が過ぎる。
ポケットからナイフを取り出し、隈笹の奥へと鋭く投げる。しかし、茂みは揺れるだけで、魔物が出てくる様子はなかった。
参った。
これでは隈笹に踏み込むしかない。できれば、魔物とは外で戦いたいと考えていたテルスにとって、この状況は最良か最悪の結果しか残されていない。
魔物が茂みの中にいないか。
茂みの中で戦わなくてはいけないか。
隈笹はテルスの首元ほどの高さで、そのまま入れば足元は見えない。腰をかがめて入るしかないが、そんな状態で魔物と戦うのは厳しい。加えて、夜へと片足を踏み入れたこの時間は隈笹の中をいっそう暗くしていた。
この茂みに入ることはわざわざ攻撃されにいくようなもの。奇襲戦法が多いテルスからすると慣れないことだ。
――多分、いるな。
探るように隈笹の奥を見ていたテルスはため息を一つ零した。そして、刀を鞘にしまい代わりにナイフを取り出すと茂みへと一歩踏み込んだ。
右手にナイフを構え、そっと音を立てぬように、魔物の気配を探りながら隈笹をかき分けて前へ進んでいく。
かさかさ、とテルスが揺らす葉ずれの音以外は茂みの中は静かなもの。魔物が動く気配はない。ただ、緑の匂いと静けさだけがそこには満ちていた。
場所が場所なら、さぞ心が落ち着くひと時を過ごせただろう。だが、今この場所ではテルスは見えない敵に心が削がれていくような思いしかない。
どこからくる? 前か後ろか、それとも左か右か。
どこも隈笹に閉ざされ、一メートル先も満足に見通せない。頭上を、横を、足元を。考えつく限りの方向を警戒しながら進むテルスの頬を汗が伝っていく。
十メートルほどは進んだだろうか。隈笹の茂みの半分を越えても魔物が動く気配はない。
テルスは真っ直ぐに進むのを止め、ゆっくりと曲がりながらルナたちのもとへ戻り始める。そうして再び隈笹をかき分けていると、不意に右手が固定されたように止まった。
正確には、手に持ったナイフが空中で縫い止められたように固定されていた。
(なんだ‥…これ?)
無言で驚くテルスはナイフをじっと見つめる。そして、無意識に縫い止められたナイフを引き寄せようと、力を加えてしまう。
それは失敗だった。
グッと何かを引っ張ってしまった感触が右手に広がる。
そして、夕日の赤い残照を反射する糸が視界に入った瞬間、テルスは自分が罠にかかったことを悟った。
――ザザザッ!
隈笹をかき分けながら物凄い勢いで何かが迫ってくる。逃げる時間も武器を構える時間もない。糸にかかった獲物を逃すまいと一秒もせずに隈笹の隙間から、魔物が巨大な顔を覗かせる。
巨大な蜘蛛型魔物。
その異形の顔が視界一杯に広がると同時に、テルスは【魔弾】を撃つ。軽い発射音とともに魔力の弾丸が大蜘蛛に直撃するが、大蜘蛛は何の痛痒も感じていないのか速度を緩めることもなく、テルスへと飛びかかった。
「うわっ」
驚きながら、テルスは横へ飛び退く。大蜘蛛の前脚が体を掠るが、転がりながらテルスは間合いから逃れる。だが、【魔弾】で傷一つ与えられなかった事実がテルスの表情を険しくする。
(まずいなあ……)
この隈笹の中では刀は隈笹が邪魔で満足に使えない。他の武器も恐らくはマテリアル《Ⅲ》を超えるであろうこの蜘蛛型魔物を相手にするには、威力が不十分と言わざるを得ない。
それに大蜘蛛の妖しく濡れた牙。先ほどまでテルスが立っていた場所でガキン、と噛み合わされたそれが、なによりも問題だった。
(蜘蛛ってことは、噛まれたら毒液を注入される? いや、そもそも、あんなのに噛まれたら死ぬ。絶対死ぬ)
毒以前に自分の胴ほどもある牙に噛まれただけで致命傷は免れない。それなのに、頼りになりそうなのは魔法のみ。しかし、それも大蜘蛛の外殻に弾かれてしまった。
大変まずい状況だ。
そして、魔物はテルスの思考が纏まるのを待ってはくれない。
再び迫り来る大蜘蛛。が、避けようと足に力を入れるも、左足が固定されたように動かない。
「やばい……」
いつの間にか左足には糸が絡まっていた。避けることも、防ぐこともできないテルスに大蜘蛛が迫る。
(刀は間に合わない。【魔壁】でこんな巨体を支え続けることは不可能。攻撃手段は【魔弾】だけ。この手札でこの魔物を突破する方法――)
「――イチかバチか!」
大蜘蛛との距離は残り数メートル。相手の大きさからすれば、あと二歩も進めば十分にテルスへとその牙が届いてしまう。
そんな迫りくる脅威を前に、テルスは自身の魔力に静かに埋没していった。
――幻想発現【魔弾】。
一歩、ポケットから出した手の先に灰の魔法陣が宙へと現れる。
幻想発現。魔法陣を展開し、自身の魔力だけでなく、精霊を始めとした世界に満ちる魔力を借りて放つ魔法の秘奥。かつて、師が見せたそれをテルスはこの五年間で基本魔法に限り、再現することに成功していた。
しかし、それでも足りない。幻想発現しようと、テルスの【魔弾】にこの大蜘蛛を貫く力はない。
だから、他で補う。
――プラス【道化の悪戯】……バレットペア。
二歩、魔法陣の前面に灰の弾丸が装填される。
だが、撃つ時間はない。間違いなく最速でテルスは反撃の準備を終えた。しかし、大蜘蛛はそれよりも速かった。息がかかるほど近くに大蜘蛛の牙が迫り、鋏の如くテルスの首へと閉じられる。
――ガギッ!
牙が噛み合わさる音。断頭台の刃が落ちたその音が茂みに響いた。
そう、標的を逃したその音がテルスの頭上で響いていた。自ら倒れこむことでテルスは大蜘蛛の牙を避けることに成功する。
得たものは僅かな猶予。
それで十分だ。頭上で響く硬質な音が消える前に、テルスは魔法陣が浮かんだ手を大蜘蛛に向け、大蜘蛛もまた後ろに倒れこみ逃げた獲物を追い、無数の牙が生える口を開く。
今度はテルスの方が速かった。
「……発射」
静かな声と共に、たった一発の弾丸が大蜘蛛の口内へ飛び込む。
ピタリと大蜘蛛が静止した。
「これで詰み……だよな」
魔法の反動で息を荒げながら、ほんの数センチを残して止まった牙を横目にテルスは祈るように呟いた。
再び動き出すのかピクリと牙が動いた瞬間――大蜘蛛は粉々に弾け飛んだ。
飛び散る肉片が瘴気へと姿を変え、その黒煙が茂みの外へと散っていく。伏せていたとはいえ、テルスへのダメージは深刻だった……主に精神的な意味で。
飛び散った体液は外套に染み込み、少なくない肉片の雨はテルスの全身を彩っていた。衝撃や痛みよりも、臭気や全身に浴びた名状しがたい何かをテルスは大いに嘆いていた。
「はあ……最悪だ……」
げんなりとした顔で、瘴気へと変わっていく肉片と体液を見ているテルス。
【魔弾】だけでは足りなかった。たとえ、増強した【魔弾】が魔物の体を貫くことができても、あの大蜘蛛がそれで即死するとはテルスには思えなかった。だから、【魔弾】に爆弾を乗せたのだ。
テルスの【魔弾】は名を付けていないものの、普通の術式に加え二つの工夫が施されている。
魔法の師匠のように一点を貫く螺旋状の回転。
赤いピエロの【魔弾】のように中に何かを入れることができる空洞。
あの道化師たちの教えは今でもテルスの中に残っていた。だが、テルスは彼らの悪戯まで時を超えて残っているような気がしてならなかった。魔物の体内で爆発が起きればこんな惨状になるかも、とは薄々思ってはいたが、こうも見事に体液やら何やらをかぶるものだろうか。
「はあー……」
深々とテルスはため息をつく。
幸いなことに、数秒で肉片と体液は瘴気へと変わりきった。糸も大蜘蛛の魔力で形成されたものだったのか瘴気へと変わり、テルスの足も自由になる。それでも、その臭いと感触はテルスの脳裏にしっかりと刻まれた。
数秒の交錯。しかし、一歩踏み外せば間違いなく死んでいた。この王域に入ってから魔物と遭遇するたびに、そんな状況に陥っている。今回は幻想発現という不確かな手札にまで頼った本当に薄氷の勝利だった。
「あと、半分くらいか……」
さらに厳しくなるであろう道のりにテルスは思わず空を見上げた。緑に切り取られた狭い空は藍に染まり、星もいくつか見え始めている。手を伸ばそうともここでは決して届かぬ自由な空。
その景色を見るテルスの気分は、確かに虫籠の中にいるようであった。




