虫の檻
もうどれほど、この苦行に満ちた道を歩いているのだろうか。
テルスは眼前の蠢く風景に顔を引きつらせ、ぼやいた。
「なんだこれ……いつまで続くんだ……」
テルスの言葉に答える余裕はルナにはないらしい。
その目尻に涙が浮かびそうなほど悲愴な表情を浮かべ、前を歩くテルスの外套をふるふると小刻みに震える手で握っている。ルナが外套の中に背負っているシュウの意識がないことは、この場においては幸運であった。
テルスたちの周囲は薄く霧に包まれていた。
前へと進むたび、まるでテルスたちに付き従うかのように霧も付いてくる。それもそのはず。これは落ち葉に擬態する虫たちを暴くための手段なのだから。
使ったのは煙玉。殺虫効果がある煙を、テルスの魔法【道化の悪戯】で風を操ることにより留めているのだ。とくに足元に流れるようにしたこの煙の効果がいかに凄いか、今の二人は視覚ではっきりと分かっていた。
まるでどこかの神話のような光景。
落ち葉が蠢き、大海が割れるかの如く道が生まれる。
左右と足元でカサカサとか、ブーンとか、まるで虫がいるような音がしているが、その全てを思考に入れないように無視し、早足でテルスたちは進んでいく。
海面を直視したり、足元のパキッとクッキーが割れるような音の正体を確かめようとしたり、煙の効果が薄くなってこの海に溺れることを考えたり……なんてことをしたときには正気を失うか、気絶しかねない。ただでさえ、入れたくもない視界の隅では波打つナニカの塊だけが見えているのだ。遠くに見えてきた悪夢の迷宮の出口を、どれほど二人が待ちかねていたか。
「…………」
〈…………〉
数分後、ようやく出口に辿り着いた二人に会話はない。
背後では、わしゃわしゃと何かが元へと戻っていく音がする。振り返れば、そこには暗くとも雅な落葉に覆われた大地が広がっていた。
「忘れよう……ここでは何もなかったんだ……」
〈そう、だね……足元でかしゃかしゃもしょもしょぺきぱきぐしゃなんて、なかったんだ〉
二人は全身をくまなく見回し、お互いに枯葉を模した余計なアクセサリーが一つもついていないのを確かめ、再び歩き始める。
その二人の背中はどこか、哀愁が漂っていた。
王域を進み始めて、数時間。
左右の茂みから深緑の矢が群れとなって飛び出す。
獣道を歩く二人の侵入者への挟撃。統率のとれた部隊を思わせる矢の一斉掃射がテルスたちに襲いかかる。
〈左を〉
「分かった」
両の木陰から迫り来る矢の群れ。それらは侵入者を射抜くことなく、左は灰の剣閃に斬り払われ、右は張り手のような閃光に打ち払われて地面に落ちていった。
「終わり、と……これで何回目だっけ?」
〈もう、十回くらいになるかな……〉
奇襲を無傷で防いだというのに、二人の表情は優れない。体液を撒き散らしながらもがく矢の残骸を目にして、笑顔を浮かべる気にはなれなかった。
深い緑に染まった矢の正体は、人の腕ほどはある飛蝗型の魔物。この魔物は木陰や緑の濃い場所に潜み、侵入者が通り過ぎるとその背後から飛びかかってくる。
最初こそ慌てたものの、十回近く同じ奇襲を受け続ければ慣れるというもの。
瘴気へ還っていく魔物を横目に、テルスたちは再び王域の奥へと進み始める。
警戒を緩めず歩く二人は前へと進むことだけはできていた。
シュウを含めても三人という僅かな人数の数少ない利点。それは魔物に察知されづらいということだ。二人の体を覆う迷彩の外套が暗い森によく溶け込んでいることもあってか、魔物に取り囲まれる事態は避けることができている。
「強い魔物じゃないだけましだけど……数がなあ」
〈他の魔物と一緒に襲ってくる知能があったりしたら厄介だったね〉
「なにそれ怖い」
ルナによると、この王域で高い知能を持っているのはほぼインセクタのみ。
他の虫型魔物は、森の植物に擬態し罠のような役割を果たしたり、自分の縄張りに入った侵入者を襲いはするが、積極的に動き回ってテルスたちを取り囲むことはない。
罠を先に探し当て縄張りに入らぬよう注意すれば、少数で動くテルスたちは多数の軍隊と違って魔物に襲われずに進めるのだ。
もっとも、擬態している魔物たちの役割は侵入者を追い立てることではないため、避けて通ることができれば何事もなく進めるのは当然でもある。
魔物から逃げようと獣道を外れ、森の中に足を踏み入れた侵入者。それを罠に嵌め、殺すことこそが彼らの役割。
擬態をした魔物が自分たちを追ってこないその理由を、ルナから聞いたテルスの「悪趣味」という感想は至極真っ当だ。
この王域は前に進むことよりも、後ろに逃げる者にこそ厳しいのだから。
逃げることができず、前へ進むことしかできない以上、魔物と戦うほどテルスたちは詰みに近づく。
この道の終着点にいるはずの王、マテリアル《Ⅴ》の魔物と戦うためには、道中での戦いに体力や魔力を多く割くわけにはいかない。
それなのに、魔物との戦闘を余儀なくされ、ルナの透明化魔法【不可視の一手】をすでに三度も使ってしまっていた。
そう、前に進むことだけしかできていない。体力と魔力の温存などまるでできていなかった。
「大丈夫?」
振り返ったテルスは心配そうにルナを見る。
〈大丈夫。いつ魔物が急に襲いかかるか分からないから……これでも鍛えてるから、心配しないで〉
赤く小さな光球が文字を書き出す。
ルナは笑顔を浮かべているが、『浄』で三人を保護しながら、シュウを背負って数時間は歩いている。その上、魔瘴方界に入る前も透明化魔法を使い、今も断続的に使い続けていた。
ルナは辛い様子は欠片も見せない。しかし、限界が近づいているのは確実だ。
(……このままじゃ、王にたどり着くなんて無理だ。一端、休んだほうがいいか?)
ルナが心配という理由もある。だが、それ以上に王の相手は自分一人では力不足であるとテルスは身に染みて分かっていた。この道の終着点で二人揃って立っていなければ、たどり着く意味がない。
「ちょっと、休憩しよう。道も曲がりくねってるし、方向を確認しておいたほうがいい。それに、そろそろ魔物も厄介なのが出るはずだし」
〈うん……分かった〉
肩に引っ掛けていたバックパックを地面に置くテルスに続いて、ルナもその場に腰を下ろす。
休むといっても、道の真ん中で座ることしかできない。下手に木陰に入り隠れようとすると、すでに隠れている魔物の先客と出くわす可能性がある。
この王域では隠れようとすることで、むしろ被害を受けかねないため、不用意に動くことができない。何もいないことが証明されている自分が立っている場所こそが、一番安全な場所だ。
〈方向はこのまま道なりでいいかな。この獣道はインセクタが何度も歩いてできたもの。あの魔物は同個体がいつも同じ見回りルートを通っているはずだから、しばらくはインセクタとも出くわさないし、この道を進んでいけば中心部付近まで行けると思う〉
「なるほど……見回りをしている奴らが帰ってこなかったら?」
〈多分、異常な事態と判断して探しに来るんじゃないかな。でも、私たちがこのペースで進むなら、大丈夫なはず〉
最初にテルスたちが目にしたインセクタの歩く速度。あれと比べるなら、テルスたちが追いつかれるようなことはない。童話のうさぎのように敵を甘く見て、過分に休みを取ったりしなければ、の話だが。
「確かに。魔物から逃げるために何度か走ってもいるし、そういう理由で遭遇することはなさそうか」
それに、インセクタは仲間を呼ばれたら厄介だが、単体では脅威とはいえない。それよりも、ここまでの道中で出くわした魔物の方がテルスたちにトラウマを与えていた。
「虫沼、茂みから飛び出す虫、道の真ん中で立ち往生している虫、虫、虫、虫……あーあ、空でも飛べたらこんなの気にしなくていいし、中心部なんかいかなくても王域から出られるから楽でいいんだけどなあ」
虫沼では発狂しかけ、茂みから唐突に飛び出してきた飛蝗型の奇襲も最初はギリギリだった。道を塞いでいた甲虫型はあまりの硬さに一撃で倒せず、もう少し倒すのが遅かったら他の虫に気づかれていたかもしれない。
どれもこれもが一歩間違えれば、死にかねないものだった。
そんな、テルスが道中を思い出してぼやいた現実逃避の言葉を、ルナは笑いながら否定する。
〈ダメだよ。空なんか飛んだら、もっと危ないから。ここの《Ⅳ》は……〉
バサリ、と不穏な音がしたのはそのときだった。
巨大な鳥が羽ばたくような音が近づいてくる。すぐに二人は立ち上がり、音が聞こえてくる上空を警戒し始めた。
テルスはルナに聞かずとも、文章の続きを理解していた。最近は魔物のことを考えると、待機していたかのようなタイミングの良さでその魔物が現れる。嫌なものだと首を振るも、現実は待ってはくれず、刻一刻とその気配は近づいてきていた。
もっとも、今回は予想通りともいえる。かなりの距離を歩いたことで、中心部にも近づき、出現する魔物もより強くなっているはず。そう考えたからこそ、ここで止まったのだ。
テルスが近づくとルナは作戦通り、祈りを捧げるように手を組む。
――【不可視の一手】。
中心部に進む前に決めた作戦はシンプルだ。魔物とはできる限り戦わずに前へ進む。魔物が近づいてきたら、倒せるならテルスが即座に仕留め、倒せぬと少しでも判断したらルナの魔法でやり過ごす。
近づいてくる魔物は道中で出くわした飛蝗型や甲虫型と違い、明らかに倒せない部類に入る魔物だ。ルナの魔法が姿を隠すのと同時に、上空を巨大な蛾の影が通り過ぎていく。
一秒にも満たない僅かな時間。
だが、テルスたちの脳裏には、魔物の巨大な翅に浮かぶ眼球が地上を見下ろしている様がはっきりと刻み込まれていた。
〈……あれがマテリアル《Ⅳ》魔瘴種蛾型生物ティザーニア。王域の上空を飛び回り、標的を発見すると襲いかかってくるこの王域では最大の魔物だよ。以前、ここに挑んだ部隊はあの魔物に発見され、撤退したって記録で読んだことがある〉
「いや、話には聞いてたけど……いくらなんでもでかすぎない? あんなでかさで飛んでるとか……もしかして魔法も使ってる?」
〈うん、よく分かったね。『風』の魔法で飛んでるっていうのが有力な説。『暴風が吹き荒れ、雨のように毒針が降ってきた』という記述もあったよ〉
「そっかー……よしっ。絶対戦わないようにしよう」
〈そうだね。今の私たちが見つかったら一番いけない魔物の一体。でも、飛ぶ音が大きいから接近に気づけなくはないかな……注意していたら大丈夫〉
「まあ、気づけたところで、君の魔法がなかったら見つかってたと思うけど」
テルスたちが歩く獣道は上空からは丸見えだ。ティザーニアの視線から逃れるためには樹木に覆われた緑の濃い場所を進まなくてはならないが、そうすると今度は擬態している魔物と出くわすことになる。
どちらを選び進んでも、待っているのは鎌を携えた死神。そんな避けられない死の選択もルナの魔法で打開できる。
テルスたちにとっての幸運は、自分たちが持つ限られた手札が上手く状況に噛み合っていることだ。
しかし、永遠にその手札を切れるわけではない。
魔法を解いたルナはふらりと力が抜けたように体勢を崩す。テルスが慌ててルナを支え、その場に座らせると、ルナは背負っているシュウよりも呼吸が荒く、苦しそうに胸を押さえていた。
〈ごめん。ポーションを少し飲ませて〉
バックパックから水筒を取り出してルナへと渡す。ルナは水筒に口を付け、ポーションをゆっくりと飲んでいくが、苦しげな表情は変わらない。
それを見たテルスは魔力を回復する魔石も渡す。だが、ルナはそれを手で押しやって断った。
〈魔石は三つしか入ってないから、まだ使っちゃだめ。王の前で二つ、一人ずつ使って、あとは本当に危ないときに取っておかないと。私は体力さえ回復すれば、まだ歩ける。魔法もあと二回は大丈夫だから心配しないで〉
「だけど……」
それでは、ルナの負担が大きすぎる。
ポーションを飲もうとも、魔石から魔力を吸い取ろうとも、体力や魔力が完全に回復するわけではない。あくまで風邪のときに飲む薬のように少し楽になる程度の効果。それに体力も魔力も自身の肉体から生み出される力だ。
肉体を酷使すれば体力や魔力にも影響がでる。それは逆もまた然りだ。体力だけポーションで回復しようとも、再び魔法を使えば足りぬ魔力に体も悲鳴を上げることになる。
そのことを分かっているだろうに、ルナはテルスが心配しないように笑顔を浮かべて立ち上がった。
〈ありがとう。少し楽になった……先に進もう。時間は大事にしないと〉
シュウを背負い直すルナを見て、仕方なくテルスは前を歩き始める。
ポーションを飲んでも、明らかにルナは疲労していた。長くはもたないだろう。それでも、ルナが前へ進もうとするのは、それ以外に選択肢がないからだ。
魔物に囲まれたこの空間で安全が約束された場所などはなく、野宿も不可能に近い。時間が経つほどに状況が悪くなっていくのなら、一歩でも早く前に進んで、王のもとへたどり着こうとするのは正しい。
(だけど、それじゃあ駄目だよな)
だが、疲弊したルナを見たテルスはその正しさを捨てた。
約束したのはシュウを連れて帰ることでルナは入っていない。しかし、テルスは全員でここから生きて帰りたいと思っている。
だって、そうじゃなければ、これから先は楽しくない。
(この王域に入る前から戦い続けてるせいで、俺だって魔力も体力もそう残ってない……やっぱり、どこかで休まないとか。なら、どこなら休める? どこにそんな場所がある?)
だから、そのために一番可能性が高い手段を考える。
数分後。時折立ち止まりながらも、黙々と歩いていたテルスが振り返った。
「うん、疲れたしペース落として、ゆっくりいこう」
こんな崖っぷちな状況でマイペースすぎる言葉が放たれた。
顔を上げたルナは大変、怪訝そうな表情で文字を走らせる。
〈えーと、急がないと、中心部には辿り着けないよ。随分進んだけど、それでもまだ五キロ以上あるはず。ゆっくりなんかしていられないよ〉
「でも、もう体力も魔力もそんなに残ってないだろ? このまま、中心に着いてもマテリアル《Ⅴ》の魔物なんか倒せない。それに暗くもなってきた」
日が沈みかけ、森はさらに影を濃くする。暗く視界一面が黒に染められていくなか、先へと進むことはより過酷な道程となる。
〈それはそうなんだけど……なら、どうするの? どこに行ったって虫だらけだし、野宿も難しい。休むにしたって、休む場所がないよ〉
「そう……だから、奪い取ろう」
首を傾げるルナにテルスは遠くで茂る隈笹を指差した。落葉の森では何処にでもある草木が茂るその場所は、得体の知れぬ虫型魔物を飼う虫籠でもある。
そう、そこは仕切られた虫籠だ。
「ここの魔物は見たところ、擬態して獲物を待ち構えているからか縄張り意識が強い。でも、それは裏を返せば他の魔物の縄張りには立ち入らないってことだ」
縄張り意識。もしくは罠としての誇りというべきもの。
擬態をもって自らを罠とするその性質ゆえに、広範囲を動き回る魔物は少ない。今のところは、王域を巡回するインセクタと上空から侵入者を探すティザーニアのみが王域を動き回っている魔物だ。
「あそこの隈笹みたいな茂みなら、上空からの視線は遮れる。インセクタもまだしばらくは気にしなくていい。あとは俺があそこにいるであろう魔物を倒せば、しばらくは休めると思ったんだけど、どうかな?」
魔物を倒す。
どれほどの強さの魔物が出てくるかも分からないのに、テルスは任せろとばかりに、はっきりとそう告げた。
この魔物だらけの森の中で野宿……勇敢なのか、呑気なのか。常識外れの意見にルナはしばらく考え込むと、慎重に文字を書いていく。
〈不安な要素は多いかな。どかした魔物が戻ってくる可能性もあるし、倒すにしてもあそこにいる魔物がどれほど強いかも分からない。やぶへびになることも十分考えられる〉
そこまで書くとルナはテルスを見つめ、頷いた。
まだ出会って数時間ほどの時間を共有したに過ぎない関係。しかし、ルナの銀の目にはテルスへの確かな信頼が見て取れた。
〈……でも、やってみよう〉
「よしっ」
その文字を読むとテルスは手の平に拳を打ち付け気合を入れる。
休息は必要だが、これが危険な賭けであることも事実。暗くなろうとも前に進む方が、魔物の生息地で留まるよりかは安全かもしれない。
しかし、テルスの提案にルナは頷いてくれた。なぜなら「魔物を倒す」と言ったテルスを信じたからだ。それが分かっているからこそテルスも信頼された分は頑張ろうと、気合を入れて前を見据える。
何が入っているかも分からぬ、その虫籠を。
「了解。じゃあ、やろうか」




