落葉の森
人類史上、二回しか成功していない偉業を成さねばここを出ることができない。
道理で成し遂げれば名前が後世まで語り継がれるはずだ。
テルスからすれば聞かなければ良かった事実。これではあの混魔たちの群れから逃げたのはただの延命でしかないように思えてくる。
(でも、逃げられない以上……やるしかない、かー)
それにここが底だ。沼に沈んでいくかのように最悪な事態が続き、沈みきった底がここ。
それならあとは上がるだけだ、とテルスは気持ちを切り替える……本当は、光が届かないほどの深淵にいることを、理解していたとしても。
「まあ、王様に挑戦できるだけラッキーだと思いますか」
〈うん。せっかくなら王様を倒して歴史に名前も刻もう……賞金も出るはずだよ〉
「気合入った。ここから出たら俺、お金貰って美味しいもの一杯食べるんだ」
テルスのおどけた台詞にルナが微笑む。
たった二人での、それも怪我をした子供を抱えての挑戦。
欲を言えば、魔瘴方界に入る精鋭部隊のように五人程度は戦力が欲しかった。シュウをどちらかが背負う必要がある以上、リーフからルナと共に増援が来なかったのはかなりの痛手だ。浄化師だって、魔瘴方界を解放する目的ならもう数人は欲しい。
しかし、無い物ねだりはできない。むしろ、浄化師がいるだけで望外の幸運だ。
この大陸セネトには幾つもの魔瘴方界が存在しているが、それに対して浄化師は三十人程度しかいない。
そんな貴重な戦力がこの場にいることは本来ありえないことだ。東の辺境に位置する落葉の森よりも、もっと深刻な問題を抱える魔瘴方界に戦力を回しているはずなのだから。
シュウを心配そうに見ているルナを見て、テルスの頭に浮かんだ疑問はそのまま口から滑り落ちた。
「そういえば、なんで君はここに? 『浄』の魔力持ちなだけで貴重な戦力なのに、騎士も連れてこないで魔瘴方界に来るなんてまずくない?」
〈ここに来たのは責任があったから。騎士はまだいないんだ……それと、私よりもあなたの方が無茶をしてると思う〉
そもそも、魔瘴方界に入ることも難しいテルスの方がよっぽど無茶をしている。その自覚はあるのか、テルスはバツの悪そうな表情を浮かべた。
「うっ……まあ、俺は約束しちゃったし。なんとかしようと足掻いているうちに気がついたら、こんなとこにいるって感じだよ。王域どころか、『魔瘴方界』自体、もう入りたくもなかったんだけどなあ」
ルナはテルスの発言に目を丸くして驚いている。悩んでいるのか、手を宙に泳がせるように上げたり、下げたりしていたが、ふうと息を吐き出すと再び、文字を書き始めた。
〈色々聞きたいし、謝りたいこともあるけど、時間がないから魔物の説明をしていくね〉
聞きたいことに、謝りたいこと。
思い当たることのないテルスは首を傾げる。だが、話ならばここを出ればいくらでもできるのだ。自分に関わりがあることだと察しても、テルスは聞き出そうとはしなかった。
「ん、話を遮ってごめん。続きをよろしく」
〈うん。ここに出現する魔物は虫型魔物ばかり。さっき、あなたが言っていたように、木の葉とか枝とかに擬態をするのが多い。歩くときはどこにでも魔物がいると思って〉
その文に思わず足元の木の葉や、頭上の枝に目がいってしまうのも無理はない。
今、自分の手が触れている木の葉の正体が得体の知れない虫だったら。すぐ近くの樹木の表面に無数の小さな虫がこびりついていたら。想像するだけで怖気立つ。
じっと睨むように注意深く見てみるも、木の葉や立ち並ぶ樹木に虫の影は見えない。魔物の気配を探ろうにも、瘴気で染まっているこの空間の中では魔物の気配も朧げにしか分からない。これでは、かなり近くにいないと分からないだろう。とりあえず、テルスのお尻の下に魔物がいることはなさそうだった。
〈マテリアル《Ⅰ》の虫型魔物は小さいけど、数が異様に多いから無視した方がいい。一匹見つけたら、千匹はいると思って。《Ⅱ》で多いのはインセクタ。虫と人を足したような姿。そこそこ知能があって、見回りをしているのもこの魔物。見つかったらすぐに倒さないと仲間を呼ばれる。そうなったら、これも一匹が千匹に増えると思って。周囲に擬態の魔物がいることを考えると、逃げ回りながら戦うのは難しいから、絶対に倒さなきゃいけない魔物だよ。中心部付近に巣があるらしいから奥に進めば進むほど注意して〉
「……うん」
〈それ以上の《Ⅲ》と《Ⅳ》も相手にしちゃダメ。《Ⅲ》は蛹みたいな魔物。こちらが何もしなければ無害。ただし踏んだら死ぬトラップだと思って。《Ⅳ》はブレニーナが巨大化したような魔物。すごく高いとこを飛んでいるから、まず勝負にならないと思う。それに倒せても、体力も魔力も使い果たすことになるから、これも戦っちゃダメ。以上が特に注意が必要な魔物〉
「…………うん」
ルナが素早く宙に書き出していく情報を見れば見るほど、いかに今の状況が詰みに近いか突きつけられていく。
何処に『鬼』がいるかも分からぬ森の中で『かくれんぼ』をしながら進まなければいけない。おまけに、鬼によっては見つかった時点で千人くらいに増えてゲームオーバーときている。
こんな森の中を二人だけで、怪我を負った子供を背負い進まなくてはいけない。
〈あとは《Ⅴ》。落葉の森中心部にいる王の情報は……ない。挑んで帰ってきた人が一人もいないから。そもそも挑めた人がいるのかも分からない〉
そして、道の先で待つのはより深い絶望。
〈……とにかく魔物に見つからないように進んでいくことを心がけて〉
「……了解。見つかったらいけないなら、音が出るような魔法や武器は使えないか。君はそういうのはある?」
〈私は……〉
ルナは手をかざし『魔法陣』を発現させた。
掌を中心に浮かぶ幻想的な三つの白い図形は、ルナが魂に刻んだ魔法の術式だ。信頼に足る者にしか見せないはずのそれを目にし、テルスは声もなく驚いた。
〈手を魔力で形成して自在に動かせる魔法、姿を見えなくする透明化の魔法、身体の強化と治療ができる活性化の魔法。あとは【強化】、【魔弾】、【魔壁】。これが今、私が使える魔法〉
浮かぶ魔法陣に書かれたとおりの説明。
魔法とは『願い』。意思を世界に反映させる力だ。
魔力や属性といった枷はあるが、例えば火の属性の者ならば、魔法で火の大剣を形成するのも、火の弾丸を飛ばすのも思いのままだ。『火』という属性に反せず、それを実現できる魔力があるならば、どんなことだろうと可能なのが魔法。
しかし、魔法は決して万能とはいえない。
なぜなら、本来は魔法の行使には多大な時間が必要だからだ。火の弾丸を一つ飛ばすのに、数分もかかっては誰も使おうとは思わないだろう。『どんなことだろうと可能』という膨大な選択肢の中から、一つの魔法に思いを集中させ、世界に反映させるのは非常に難しい。
そんな時間がかかる魔法を限定し、短縮化したのが『魔法陣』だ。自分が思い描く魔法を術式化し、魂に刻むことで瞬時に魔法を行使することができる技術。
だが、魔法陣の数を増やしてしまえば、魔法の行使に時間がかかるようになってしまうため、魔法陣は基本的に七つ程度。つまり、人は大きく分けると七つ程度の魔法しか使えない。
それなのに、ルナは魔法陣をテルスに明かした。それは自分の手札を全て見せてしまうことと同義だ。
例えば、僅かな時間しか魔法陣を見ていないテルスでも、ルナの『姿を消す魔法』は他の魔法と併用ができないものだと分かってしまう。
魔法陣を見れば言葉で伝えるよりも遥かにその魔法を理解できる。だからこそ、本当に信頼できる人にしか明かさないのが常識だ。
「俺の魔法は……」
ルナは考えなしに魔法陣を見せたわけではない。ここから生きて帰るために最善を尽くしているだけ。それが分かっているからこそ、テルスも自身の魔法陣を発現させる。
暗い灰色に染まる図形は、テルスの積み上げてきたものの証。これを誰かに見せるのは久しぶりのことだった。
「えーと、魔力を対象に纏わせて補助する魔法、あとは【強化】、【魔弾】、【魔壁】、【魔刃】が俺の使える魔法」
〈一番最初の魔法……なんか、すごい複雑……〉
「うーん、先生にはトランプでいうジョーカーみたいな魔法って言われたけど……まあ、【強化】に近い、ちょっと自然も操れるような魔法ってとこ。あと、なんか精霊が微妙に力を貸してくれる?」
〈精霊ということは、これは精霊魔法? 実はエルフだったりするの?〉
精霊魔法とは、その名の通り精霊が行使する魔法のことだ。自身の魔力を対価に、精霊が魔法を行使することで人の意思を反映させる魔法。
精霊という魔素と密接な繋がりがある存在を介すことにより、魔法の効果は飛躍的に上がる。しかし、この魔法は精霊と意思疎通ができる者にしか使えない。そして、それができるのはほぼエルフだけ。精霊魔法を使うと聞けば、エルフだと思うのは自然な流れだ。
だが、テルスはエルフではない。自身の生い立ちを知らないため、もしかしたらエルフの血が入っている可能性もあるが、少なくとも見た目に反映されるほどエルフの血は濃くない。もしも、精霊と意思疎通できるほどエルフの血が濃かったら、テルスの顔はもっと線が細くて儚げな美形になっている。
「俺はエルフじゃないし、これは精霊魔法でもないよ。あくまで、自分が使ってる魔法を精霊が手伝ってくれるだけ。それでも落とし穴とか、目くらまし、そういったことにしか使えない魔法だけど」
〈変わった魔法だね。なんか本人もよく分かってないようだけど……うん、汎用性がある分、効果は控えめ。でも、使い方次第で輝くすごく面白い魔法……〉
ついに文字を書くのも止め、しげしげと興味深かそうにルナは魔法陣に見入る。
〈この魔法で魔物の巣穴を塞いだりもできそうだね。上手く使えばグッと生き残る可能性が上がりそう〉
「それを言うなら、君の透明になる魔法だろ。かなり魔力を使うみたいだけど、あとどれくらいいけそう?」
〈ここはただでさえ瘴気が濃いから……透明化は時間にもよるけどあと五回程度かな。私が魔法を使うたびに動ける時間は短くなる。悪いけど戦闘はあなたに任せることになると思う〉
「そっかー……」
テルスにとっては悪い冗談であってほしいが現実は無情なもの。ルナの『浄』を維持するためにも、テルスが前に立って、魔物を倒していくしかない。
「分かった……あとは装備か。君はなんか使えそうなものは持っている?」
〈ごめん。私は武器を使わないから、今も護身用の短刀くらいしかないんだ。あなたは?〉
「俺は……」
テルスは言葉にしながら武器を軽く見せていく。
「まず刀。あとは煙玉、ロープ、ナイフ、爆弾……はここじゃ使いづらいか。ああっ! 魔石を忘れた……ということはただ働き……もういいや忘れたことを忘れよう。えーと、あと持ってるのは……」
すらすらと流れるように出てくる道具の名。ひょいひょいと腰のポーチや外套のポケットから、手品のように出てくる道具――中には役に立たなさそうなものもある――にルナは目を丸くする……どうやら、魔石を忘れたという、残念な嘆きは聞き流してくれたようだった。
〈ええと、ストップ! なんで、そんなに道具があるの?〉
「いつも持ってるから。かさばるのはないから持ち運びも楽。ほら、ナイフとかは投げやすい物だし、小さいから服にも仕込んである」
そう言ってテルスは唖然としているルナに外套の裏側を見せる。テルスなりの工夫がされた外套の裏側のポケットには小さめのナイフが所狭しと詰め込んである。
テルスにとっては普通のこと。どっかのクランは異次元に繋がっているのではないかと思うほど、武器や道具をいつも持っていた。しかし、その普通は常識から外れていたようで、ルナは目を丸くして驚いている。
すぐそばの少女の驚愕に気づかないテルスは、次々と使えそうな道具をルナに渡していく。
「ナイフは五本渡しておく。軽いし普通のより投げやすいから無いよりマシ。バックパックに入っていた煙玉も持っておいて。俺はまだ五個あるから大丈夫。あと、いざって時用に爆弾も。魔力を込めて投げれば五秒くらいで爆発するから。これはいる? 紐を引っ張ると飛んでいく人形なんだけど」
ルナは武器を受け取るとあたふたと手を振っている。だが、そのボディランゲージで何を伝えたいかはテルスにはさっぱり分からない。
そして、ルナの開いた口から声は聞こえなかった。
「あ、ええと……」
この少女は声が出ない。
その事実を本当の意味でテルスは理解した。それほどまでに、今までの意思疎通に問題がなかったのだ。今、少女が何を伝えようとしているのか分からなくて狼狽するほどに。
「……とりあえず、こんなもんかな」
テルスは深くルナに理由を聞かなかった。わざわざここで聞き出す必要はないし、宙に文字を書き出したりと、状況によっては声に出すよりも便利な手段があるのだ。意思疎通には問題ない。
それに――聞こえるのに話せない。
寒くもないのに、スカーフをしている意味がなんとなく分かったから。そういう人は孤児院にもいたし、テルスも多少の知識は持っていた。
〈うん、ありがとう。大事に使うね〉
いくらか落ち着いたルナが宙に赤い文字を書き、頭を下げる。どうやらさっきのボディランゲージの意味は「ありがとう」とか、そんなニュアンスのことを伝えたかったようだ。
「まあ道具は使ってなんぼだから、存分に使いつぶして。あと、白いと目立ちそうだし、バックパックに入っていた外套を着とけば?」
〈うん〉
バックパックからテルスと同じ迷彩柄の外套を取り出し、羽織るルナ。
浄化師の白装束と、森に溶け込むため濃い緑を中心にした迷彩が致命的に合っていない。が、本人はとても満足そうだった。
「……そこそこ確認もできたし、どうやって進んでいくか話そうか」
そう言うと、テルスはパンの欠片を口に放り込む。この簡素な食事が最後の晩餐になるかもしれないと思うと、喉を潤すただの水もパサつくパンも物足りない。人生の最期くらいはおいしいものをたらふく食べたいと思うのは贅沢なのだろうか。
〈そうだね。中心はここから北に進んだところ。距離は魔物のことも考えると、半日以上はかかるかな。野宿も視野にいれた方がいいけど、それは難しいね。あと〉
途切れる文字。
その理由はテルスにも分かった。近づいてくる木の葉を踏みしめる足音に二人は顔を見合わせると、木陰の中から外の様子をうかがう。
「あれは?」
〈インセクタ〉
短く交わされる会話。テルスはルナの文字を読み、茂みから覗く先にいる魔物から隠れるのではなく障害を倒す意識へと切り替える。
魔瘴種虫人型生物インセクタ。
その姿は二足歩行の大きな虫。脚には木を加工した槍を持っている。大きさや虫の顔は個体によって変わるが、この表現の枠に収まる程度の変化でしかない。武器を持つ程度の知恵もあり、集団で行動する厄介な種類でもある。だが、知恵を得た代わりに野生が薄れたのか、鋭い五感はないようで、テルスたちの方が早くその気配を察知していた。
三体のインセクタ。
周囲を警戒しながら槍を携え歩いていくる姿は、兵隊蟻という言葉が相応しい。この三匹の魔物に存在を気づかれ逃がしてしまえば、大量の仲間を呼ばれる。マテリアル《Ⅱ》とはいえ、瞬時に三体の魔物の息の根を止めるのは困難だ。しかし、今は逃げることができないことも、自分がやらねばいけないこともテルスは分かっている。
「さてと……流石にこのまま近くまで来られると気づかれるから、間合いに入ったら仕留める。ということでサポートよろしく」
〈大丈夫? マテリアルは《Ⅱ》だよ?〉
マテリアル《Ⅱ》の魔物を安全に倒せるようになれば、駒者としては一人前といえる。そんな魔物を一体ならまだしも、三体を逃がさず、短時間で仕留めるとなれば、ある程度の実力は必要だ。
つまり、ルナはテルスにその実力があるのか、と問うているのだ。
「あいつらだけなら、多分大丈夫」
辺境の駒者の実力を測りかねる当然の問いかけに、テルスは標的から目を離さず答える。
王域に入っての最初の戦闘。
始めが肝心と、テルスも気合を入れ刀を握っていた。
一歩、二歩とインセクタが歩を進めるたびに間合いが狭まっていく。テルスにとってやることはいつもと変わらない。何も気づかせずに仕留められる間合いに踏み込むのを静かに待つ。息を潜め、魔力を体に行き渡らせながら、魔物の隙を見逃さぬよう集中を深めていく。
(残りはだいたい三十メートルか……一、二の……三!)
――【強化】、【道化の悪戯】。
全身に魔法を纏わせたテルスの全開。出し惜しみなどせず、テルスは自身にとっての最速で魔物に奇襲をかける。
落ち葉が巻き上がるよりも疾く、瞬時に間合いを詰めたテルスは、インセクタが侵入者に気づいたのと同時にその首を刈り取る。返す斬撃で二体目を屠り、最後の一匹を仕留めようと右足を踏み出した刹那、異変に気づく。
埋もれていく右足。
すでに膝まで落ち葉が敷き詰められた大地に沈んでいる。底なしの沼に嵌ったかのように足は動かない。バランスを崩し、手を突くとクシャリと嫌な感触が手に広がった。
「――っ!?」
喉まで出かかった悲鳴をなんとか飲み込んだ。
テルスの視線の先、掌の下には木の葉に擬態していた虫の成れの果ての姿があった。黄緑の体液を撒き散らし、潰れている虫型魔物を目にしたテルスは、右足を包み込む蠢く感触の正体に気づいてしまう。
テルスが踏み出した先は天然の落とし穴。虫が己の体で作り出したその罠は、底へ底へと誘うように木の葉が流れ、テルスをさらなる底へと引き込もうとする。
足から這いよる虫、埋もれていく右足を覆うぞわぞわとした感触。無数の異形の生物に悲鳴を上げないのは、テルスの理性の糸がまだ切れていないからだ。
ここで叫ぶことが、どういう結果に繋がるか理解しているからこそ、テルスは唇を噛み締め、蠢く感触にただ耐え、最後のインセクタに刀を向ける。
しかし、明らかな隙ができたテルスをインセクタは攻撃しない。キィと短く鳴くと、背を向け、翅を開く。
目の前の侵入者を倒そうとはせず、仲間を呼ぶために飛ぼうとしていた。その行動はテルスとルナにとって、もっとも警戒する最悪の行動。ここでインセクタを取り逃せば、ただでさえ低い生還の可能性がより絶望的になってしまう。
「まずっ」
急いでテルスはナイフを取り出す。それと同時にテルスは突如、空中に投げ出された。
ルナの魔法【閃手】。白い魔力で形成された『手』に掴まれ、虫の沼から解放されたテルスは目標の魔物だけを見据え、ナイフを投げた。
「エッジペア」
自称姉たちから受け継いだ技術。外すわけがない。魔法の補助も受け、空を裂くように飛ぶナイフはインセクタの細い首を切り飛ばした。
「……ギリギリだなあ」
最悪の事態にならなかったが、この数秒で嫌というほど不快な目にあったテルスは、インセクタの死骸にさらにげんなりする。
三体のインセクタは首を切断されてなお、その体がばたばたと動いていた。昆虫が頭を取られても、動くのを止めないのと同じく、インセクタもその神経が最後の足掻きのように槍を持つ脚を動かしていた。
数十秒もしてようやく瘴気へと還ったインセクタ。それと同時に、最後まで警戒を緩めなかったテルスの我慢も切れ、ようやく小さく悲鳴を上げた。
「あああー! 気持ち悪い、なんだこれ! ちょっと背中の虫取って、体にまだ張り付いてるんだけど!」
〈ええ! 待って近づかないで離れて! 遠くから取るから、ちゃんと取るから、ストップ!〉
大慌てで文字を書きながら【閃手】を使ってまでテルスを近づけさせないルナ。
全身、とくに右足とテルスから見えない背中には無数の虫が張り付き、わしゃわしゃと蠢いている。
その姿は落ち葉を貼り付けた悪趣味な仮装をしているよう。こんな姿では近づかれて嬉しい人はまずいない。ルナが拒絶するのも無理はなかった。
ルナの手から伸びた【閃手】は、本当の手であるかのように繊細に動き、虫を払い落としていく。こんなに小さくとも魔物は魔物。『浄』の魔力に怯えるようにテルスから離れ、【閃手】が触れただけで、消滅する虫もいた。
数分後、ようやく体に張り付く虫から解放されたテルスはルナに抱きつかんばかりに感謝していた。
「ありがとう、ありがとうございます! いやあ死ぬにしても、あれは絶対に嫌だ。虫に全身張り付かれて、少しずつ食われながら死ぬなんて本当遠慮したい。うわあ、今でもなんか体に張り付いてる感触が残ってる……」
〈私もあれを見たときは鳥肌が立ったよ。怖い、怖すぎるよあれ。私、あれに飛び込むなら、さっきの混魔と戦う方がいいな……〉
二人揃ってため息をつく。
なぜなら、その嫌で仕方ない虫たちが蠢く領域を通らなければいけないから。
「さて、ここを通らなければいけないのだけど……」
〈やっぱり、ここを通るんだよね……〉
二人とも考えていることは同じであった。
一歩足を踏み間違えばさっきの二の舞。虫が全身に張り付く最期を迎えることになる。それでもこの道を通るのは、インセクタが見回りにきてすぐの道であることと、ここが一番安全に前に進める場所だからだ。
虫の沼があると分かっているため対策も取れる。いきなりマテリアル上位の魔物と出くわすよりかは命の危険は少ない。
「ここはインセクタが通っていた。でも、あいつらは虫に足を取られていた様子はなかった」
〈となると通れる道はあるってことだよね。見分け方がある? でも……〉
二人がどんなに地面を、それこそ穴が開くほど睨もうと、そこには落ち葉が一面に敷かれた大地が広がるだけ。虫がどこにいるかもほとんど分からなかった。
〈うーん、インセクタには分かるのかもしれないけど、私たちは無理だね。確実に見分けようとするなら私が魔力を流せば分かると思う。でも、それだと魔力を使いすぎるかもしれない。それに危ない賭けになるかな〉
賢い選択とは言えない案。ルナもそれは分かっている。
擬態し、隠れている魔物を見つけるには、虫を探すときに茂みを揺らすのと同じく、その住処を荒らせばいい。だが、この王域でそんなことをしてしまえば、次々と魔物が現れることになるだろう。
しかし、魔物が隠れている場所を特定することは魅力的だ。ちょうどテルスはこの状況にあった道具を持っている。
「まあ、『浄』の魔力を使わなくても分かる方法はある……と思う。おまけに他の魔物からも見つかりづらくなる……はず」
〈えっ、そんな方法があるの?〉
「まあ……ところでさ、君って虫は大丈夫なほう?」
〈好きではないけど、触ることくらいできるよ〉
「そっかー……」
それがどうしたの、といった表情を浮かべるルナにテルスは神妙な面持ちで思いついた方法を語る。
それを聞いたルナはなにかを諦めたかのような泣きそうな顔で、こくりと頷くのであった。




