負け犬の飢え
深夜。
空っぽの盤場にテルスはいた。いつかあった熱気は今はなく、寒々とした空と星だけがこの場を見下ろしている。
こんな時間にこんな場所で何の用?
そんな言葉を口にするのは野暮というものなのだろう。テルスはただ静かに眼前の影に視線を向けた。
凍てつく魔力を滾らせ、燃える戦意を眼に宿す。今にも飛びかかってきそうなその影は人ではなく獣の影絵としか目に映らない。
餓狼。まさに、その言葉こそ相応しい。だが、静寂の後、獣――メルクが吐いた言葉は意外なものだった。
「……悪かったな」
「え……何が?」
テルスはメルクに謝られるようなことは何もされていない。
少なくとも直近では。
何か振り返ると隣からご飯だのお菓子を奪ってきたりとか、お金をたかられたりとか、ソルとの口喧嘩がうるさいとか、疲れてるのに修行に付き合わされたりとか色々と思い浮かぶこともあるが、このタイミングとなるとさっぱりだ。
「ごめん。どれのこと?」
「どれ? いや、そんなに謝ることしてねえぞ、俺。せいぜい、ドラグオンの酒蔵にあったのを割っ――」
ああ、それは怒るのは自分じゃないな。
バレたあと厳しく当主とかメイドとかにしつけられるであろう獣もといワンちゃんに、テルスは哀れみの視線を向けた。
「……あー、いや今のは違う。俺が言いたいのはこの前の妖精の事だ」
「ピクシエル?」
ますますメルクが何を謝りたいのかテルスには分からない。
首を傾げるテルスにメルクはただ刃を向け、
「俺は弱い」
何も言えなかった。
ただの一言に込められた重さに、覚悟に、想いに。そして何より、友の表情に。相応しい返答などテルスには思いつかなかった。
「弱いからこそ、こんなことになっている。そうだろ、テルス」
分かっている。この問いかけの答えなど求められていない。
だから、テルスは刀を抜く。
――そういえば、まだだった。
手合わせはいくらでもしてきた。
だが、テルスとメルクは本当の意味で戦い、決着をつけたことはない。
正確にはできなかった。ゆえに、これはあの――騎士選定の続きなのだ。
今、盤上にある駒は二つのみ。もう予選のように途中で終わることも、本戦のように邪魔が入ることもない。
いつもの手合わせと同じと思えば一瞬で沈むことになる。疑問も何もかも頭の隅に追いやって、テルスは放られたキャスリングを受け取り――意識を戦闘へ切り替えた。
そうして、盤上に騎士が立った。
声はない。魔力も凪いでいる。
ただただ静かで……研ぎ澄まされた刃を首筋に当てられているかのような死の気配。
切り替わったテルスの気配にメルクは小さく息を飲む。
どうしてか、あの黒い”騎士”を思い出す。姿も魔力も違うのに騎士と騎士の雰囲気は不思議と酷似している気がした。
だからだろうか。メルクが初手に選んだ魔法はあの時と同様のものだった。
「【魔剣《氷雨》】」
発現した無数の蒼剣はまさに横殴りの豪雨と言うべきもの。
雨から逃れることなどできはしない。【魔壁】で防ごうと剣雨はそれを削り切る。圧倒的な攻撃範囲と連射速度を誇る魔法はこれだけで勝負が決まる一手となる――普通ならば。
「ああくそ、同じかよ……」
ただ剣を振っただけ。それだけでテルスはメルクの剣雨を散らした。
あの災魔とまったく同じではない。エクエスは蠅でも払うかのように剣を振るっていたが、テルスは普通に剣を振っているし、魔法だって使っている。
だが、蒼剣を斬り払い、反射させ、奪った『水』で逸らし、まるでそこだけ雨が降っていない道を歩いているかのようなテルスの姿は、まさにメルクが求めていた強者のものだった。
――ああ、これだ。これがこいつと戦う理由だ。
自分はこれと同じことができるだろうか。
テルスと出会ってから幾度となく浮かぶその問いの答えから、メルクはずっと目を背けていた。
メルクは自分が恵まれていると自覚している。
希少な『水』と『氷』という二重属性。それに加え、自身と同じ属性の精霊魔具まで持っている。魔力量も多く、体格だって不足していると思ったことはない。
だけど、できない。
ああ認めよう。メルク・ウルブズは『水』と『氷』の属性を持っていないテルス・ドラグオンと同じことができない、と。
「【水精の杯】」
精霊魔具から溢れた水を蛇に変じ、頭上からテルスに襲わせる。
この魔法だけで仕留められるだなんて思っていない。あくまで上に注意を向けるための陽動。次の一手、地面からの氷の杭で体勢を崩して――
「駄目か。お前はどういう目をしてんだよ」
そもそもテルスは頭上を見ていない。それなのに水の蛇は首を切られ、氷の杭は魔力に干渉されたのかテルスを捉えられていない。
かつての五浄天の騎士エイン・ヴァイパー、仲間であるコング・トゥルの魔法を模した水は一蹴された。だが、メルクの手札はこんなもので尽きはしない。
「おら、物量で押し流してやるよ!」
溢れ出す波濤が宣言通りテルスに押し寄せる。
水の線が四方八方に伸び、触れた水を氷結させる。水の手が掴みかかる。水の玉が跳ねる。変幻自在に形が変わる波濤は生きているかのようにテルスを飲み込み、
「【魔刃】」
一閃。
感情のない声が小さく響いた瞬間、その全ては両断された。
伸びた灰の刀身に呆然と視線を向けるメルクは自覚のないままに唇を嚙みしめる。
この盤場の半分は飲み込むような水量だった。それを【魔刃】だけで、たった一振りで斬り払い――返す一刀でこの首を斬り裂かれた。
「くそ……」
後方に飛びながら、メルクは傷のない首を撫でる。
これが実戦だったら、もう死んでいる。保護用魔具キャスリングの守りがなければ今頃、この首はその辺に転がっていたはずだ。
ちくしょう。この戦いが始まる前から胸を締め付ける敗北感が強くなる。
メルクはある意味で負け続けてきた。
シズクに勝って救うこともできなかった。雪花の湖の王の力に膝を屈した。黒い騎士には敵とすら見られていなかった。そして、妖精には遊ばれているだけだった。
でも、テルスにはできた。
雪花の湖の王を倒した。黒い騎士を倒した。ルーンたちを救った。妖精だって、テルスが来たことで形勢が逆転した。
……俺には何が足りない?
魔力や武器、持っている手札はメルクの方が上。
それでもテルスはどんなに手札が少なくて、弱くても勝利を引き寄せる。テルスが為してきたことが、そう信じられる。
それは技か運か心によるものか。いずれにせよ、その何かはメルクにはない。だから、負け続けてきた。
そして今、テルスに勝っているはずの手札の数や強さだってあの道化姫、ルーン・ハーレキンの前には霞む。
――ならば、俺である必要はどこにある?
テルスのように結果を出してきたわけではない。ルーンのように隔絶した力を持っているわけでもない。ルナのように浄をもっているわけでもない。コングのように戦い以外でも役に立っているわけでもない。
――なあ、遊びでやってるわけじゃないんだよ。ミユ・リース、アリス・ラムダ、シリュウ・ドラグオンたちを外してまで、俺を魔瘴方界の攻略に入れる理由はどこにあるんだ?
そう、餓狼は自身の心に冷たい牙を突き立てる。
……何が足りない。俺は何を喰らえば……
お前たちと戦える? お前のように勝てる? お前みたいに誰かを――シズクを救うことができる?
「あああああああっ!」
その心情を現わすかのように吹雪く魔力の中、餓狼は吠える。
ただ一緒にいるだけじゃない。お荷物になんぞなりたくない。絶対に手に入れる。お前を喰らって、俺はその隣に立つ。
対等を。
自分自身気づかぬままに。飢える狼が求めているのはなんてことはない、居心地の良くて楽しい――これまでと同じ関係だった。




