エルフの森の人形姫と悪戯白鼠 4
見慣れた庭に立つそれはまさしく恐怖の具現だった。
息苦しいほどの瘴気は未だ薄れない。
風と雷の渦の中で、フードル・ヴォルテの姿をしたそれは変わらぬ嘲笑を浮かべている。
震えが止まらない。その姿を見て、瘴気を感じ取っただけで、アルンの体は凍り付いたかのように動かなくなった。
アルンだけじゃない。
森の騒めきがこの地に住まうあらゆる生命の恐慌を伝えていた。
「逃げよう、アルン!」
「お嬢様、お嬢様! ここから離れましょう!」
本能に従い逃げ出す精霊のネズミの声も、守るように自分を抱きしめるメイドの声も聞こえている。
それでも、アルンの体は動かない。それは恐怖だけが理由ではなかった。
あの黒の中心に父と母がいるから、アルンの体も意思も二人をおいて離れることを拒んでいた。
「「【ウェント】!」」
シャルルとジュディの声が重なると同時に、精霊たちが暴風を発現させる。
それを心底愉しそうにフードルは見ていた。
「【ウェント】……そん、なに大事か……?」
精霊魔法の風がぶつかり合い渦を巻く中、フードルは視線を屋敷に向ける。
光を失ったその瞳は屋敷を……開いた扉から両親を見守るアルンを映していた。
「――っ、貴様! 【イグニス】」
「【イグニス】。どうし、た……焦っているぞ……王都でのお前とは大違い、だな……」
シャルルとジュディが精霊魔法を発現させるたびに、フードルは同じ精霊魔法でそれを迎え撃つ。
だが、状況は二体一だ。
それもフードルが相手をしているのは、最強の精霊魔法の使い手であるシャルルと、それに匹敵するほどの腕を持つジュディだ。
魔法が飛び交うたびにフードルの体に傷が増えていく。
左腕は拉げ、破れた服から覗く肌は黒く焦げついている。もはや立っていられることが不思議なほどの傷だ。
それなのに、フードルの顔から笑みが消えることはない。
まるで、自分こそが圧倒的に優位に立っていると言うかのように、その目は全てを見下していた。
「どうせ、この体では勝て、ない……なら、こうしよう……」
黒雷が庭を埋め尽くす。
木の根のように張り巡らされたそれは明らかに屋敷を中心としていた。
「この魔法は、フードルの……!」
「貴様、私の友をどこまで侮辱する!」
「知る、か。そら、防いでみろ――」
鼻で笑うフードルがその手を振り下ろし――黒雷が屋敷に殺到する。
「あ……」
強くメイドに抱きしめられながら、アルンは死が迫っているのを感じた。
まるで雷撃の檻が迫ってくるかのような魔法。
逃げ場はない。力があるがゆえに、アルンは張り巡らされた黒雷の範囲も威力も正確に理解していた。
だからこそ、黒雷が『雷』で晴らされていく様にアルンは目を見開いた。
「――デウス・フルメン」
天へと手を翳すシャルルがその力を示す。
これは血の証明。シャルルに、そして、アルンに流れる赤い記憶の発現。
荒れ狂う轟雷。
天候は一変し、重苦しい雲に覆われた空を術者の怒りを示すかの如く雷光が照らす。
精霊の王の力を前に、初めてフードルの顔から笑みが消えた。
「これだ、から……王都のあいつといい、精霊は本当に鬱陶、しいな……」
「今は失せろ。なに安心しろ、そう待たずとも近いうちに滅ぼしてやる」
「ほう。それ、は楽しみ――」
それがフードルの最後の言葉だった。
眩い光が世界を包み、遅れてくる轟音にアルンは身を縮める。
そんな少女に黒い何かが飛んで――。
「……【ウェント】。アルン、そのまま目を閉じてなさい」
「え、はい、母さま……」
「あの、ジュディ様、ひっ!」
「あなたも離れていなさい。こいつはこんなになっても動くのよ」
自分の目に置かれたメイドの手は震えている。
それを不思議に思いながらも、父と母の声と薄れた瘴気にアルンは安堵していた。
これで危ないことは終わり。いつもの日々が帰ってくると。
しかし、
「……危なかった。こいつが王都のように瘴気を広げていたら……」
「できなかったのかしら。それに、次がない。近くに強い瘴気の気配はないわ」
「だが、いつまで安全かは分からない。この森に浄化師がいない以上、やはり取るべき道は一つだ」
未だ厳しい声の二人にアルンは首を傾げる。そして、頭を撫でる手にゆっくりと目を開く。
久しぶりに見た大好きな父と母。その顔は寂しげに笑っていた。
「アルン、よく聞いて――」
災魔。王都シャトランジで起きていること。
それらを聞かされても、アルンは全てを理解できなかった。
祖先と同じ精霊の王様がいるから王都を見捨てることはできないとか。
王都の次は必ずこの森を襲撃するだろうとか。
あいつはおそらく私たちの大事なものを狙ってくるとか。
森の外に出たことなんて一度もないアルンにとって、それらは実感の湧かない話だ。しかし、シャルルとジュディと一緒にいられないということだけは理解せざるをえなかった。
たった三日間。
アルンは両親と過ごし、他のエルフたちと共に森を離れることになった。
エルフの森に残るのは限られた者のみ。それ以外のエルフは族長であるシャルルの命により、葉風の町リーフへ避難することになった。
ほとんどのエルフは理由を聞いても実感することはアルン同様なかっただろう。それでも、多くのエルフがシャルルの言葉に従ったのは、それだけ彼が信頼されていたということだ。
外を見てみたい。その願いは叶った。
だけど、遠いリーフの地で見上げる空はどこか色褪せているように思えた。
「さて、今日は何をするかい?」
「そうだね……また精霊樹にでも登ろうか……あそこは遠くまでよく見えるから」
今日も今日とて、アルンは一緒についてきたネズミと同じ時間を過ごす。
もう、あれから何十日が経っただろうか。アルンはずっと二人の帰りを待ち続けていた。
そのうち帰ってくる。父さまと母さまなら大丈夫。二人はあんなに強いんだから。
少女はそう信じていた。
自分を預かってくれているヴォルテの家の人やメイドたちがいくら暗い顔をしていようとも。
しかし、この日。
少女の願いは他ならぬ友達の手によって打ち砕かれた。
「ああ、そうだ。王都は滅んでしまったらしいけど、今度エルフの森の近くに新しい都ができるらしいよ――」
それは精霊にとっては”いいこと”だった。
友達のエルフが気にしているから、ネズミはそれらしい話をしている商人の後をつけ、盗み聞きをしてきた。
これはそれを伝えているだけ。ただ、真実を。ありのままに。
それを認めたくなくて、アルンは初めて本気の喧嘩をした。
酷いことを言った。
本当はそんなこと思っていないのに酷い言葉をぶつけ、友達に、皆に感情のままに当たり散らした。
謝らないと、とすぐに思ったのだ。
でも、ネズミは次の日もその次の日も来なかった。
でも、両親を探しにエルフの森に戻ったメイドたちはいつになっても帰ってこなかった。
謝るから。本当に悪いと思っているから。
だから、また会いたい。合わせてほしい。
好きな人たちに言った最後の言葉があんなひどいことだなんて嫌だ。
アルンはずっと待ち続けた。
何年も、何十年も引きこもって、謝るために大事な人達の帰りを待った。
だが、誰も帰ってくることはなかった。当たり前だ。死人が戻ってくることなんてないのだから。
彼女が外に出るのは半世紀以上が過ぎたあと。
聞こえてきた悲鳴に窓を開き、赤いピエロが子供を追いかけまわしているのを見たとき――彼女の時計はもう一度動き始める。
待つのではなく、探す。謝るために、彼女は大事な人達を探し始める。
そうして、長い長い時間が過ぎ、彼女は友達と再会した。
一人と一匹がどんな言葉で謝って、喧嘩をして元の関係に戻ったのかは――彼女たちの秘密である。
来週から六章です!




