舞い降りる
どれほどの時間が経ったか。
マルシアが倒れ、広場を赤く照らしていた花焔が散っていく。
その中には二つの人影があった。
膝をつくテルスと――ゆっくりと歩くエクエス。
だが、黒屍はもう終わっていた。
一歩進むたびに、エクエスの身が灰となって崩れていく。
あれほど感じていた重圧など今は欠片も感じない。本当に、その姿は屍が歩いているかのようだった。
エクエスは手を伸ばす。
追うように、求めるように、やらねばならないことのように。
そして、伸ばした手は少年の頭に触れ――灰となって風にさらわれた。
撫でるような風にテルスは顔を上げる。
一瞬だけ、何もないはずのエクエスの眼窩に自分が映っている気がした。
きっと錯覚だったのだろう。エクエスはゆっくりと眼窩を精霊樹の方、多くの人々が集まるその場所に向けたのを最後に、還った。
薄く黒に染まった風が空へ流れていく。
彼方に。空の褪せた青に溶けていくそれをテルスはただ見送っていた。
「……終わった」
ぽつり、と零した呟きが合図だったかのように、テルスの体から力が抜けていく。
そんな、人形の糸が切れたかのように倒れる少年を相棒は優しく受け止めた。
〈大丈夫……?〉
「……そっちこそ」
肩越しに見るルナはテルスに負けず劣らずボロボロだ。
落葉の森や雪花の湖ですら汚れ一つ付かなかった浄化師装束が破けて煤に塗れている。
幾重にも浄化師を守るための術式が編まれたあの服ですらこうなるのだ。
浄化師装束がなければ、ルナが負った火傷や切り傷は確実に彼女の命を奪っていただろう。
「ごめんな……」
相棒の頬に触れながら、テルスは謝る。
守るために自分がいるはずなのに、こんな傷を負わせてしまった。
まったく、騎士失格だ。本当に救いようがない。だって……
「ありがとう。俺たちの時間は無駄じゃなかったって証明できた」
今、テルスの胸にあるのは達成感だ。
浄化師を守れなかった騎士としての後悔よりも、相棒たちと重ねた時間の意味を証明できた誇らしさが勝っている。
ルナも同じ思いなのだろう。
くすぐったそうに、テルスの手に頬を寄せる彼女は本当に嬉しそうに微笑んでいた。
「……え、僕のこと忘れてない? 大活躍だったんだよ。テルスもルナ嬢も僕がいなかったら死んでたくらいの大活躍だったんだよ。あれ?」
ルナの肩でへばりながら、ソルが恨めしそうに愚痴を零す。
二人を見るその目は呆れというか、達観というか、何とも形容できない生温かい感情が込められていた。
「忘れてないよ。ソルもありがとう。いつも助かってる」
〈ありがとう。あの精霊魔法はソルがいなくちゃ凌げなかったよ〉
そう、ソルがいなければあの精霊魔法には対処できなかった。【リベリオン】を使えなかったら、エクエスの『デウス』にも抗えなかっただろう。
それだけじゃない。
ルナがいなければ戦うことすらできなかった。
タマとハンスの”悪戯”がなければテルスの刀は届かなかった。
メルク、エレンリード、マルシアたちがいなければ瘴気を削り切ることはできなかった。
そして、ヴィヌスやジャンたちが用意してくれたこの鞘と刀がなければ、テルスの必殺は成り立たなかった。
――ハバキリ・迦楼羅。
トランプ・ワンと呼ぶに相応しいテルスの新しい必殺。
籠手型の魔具『ディール』とヴィヌスの鞘を接続。
籠手に溜めていた魔力を鞘の内に止め、抜刀と同時に全魔力を解放するという、まさに一刀に全てを賭けた必殺だ。
この技は自分の限界を超える魔力を一瞬で、一刀に集中させるなんて、馬鹿げた行為の上に成立している。
一歩間違えれば魔力が暴発して命を落としかねない。【リベリオン】で大きな力を行使した経験がなければ、テルスもこんな無謀な技を成立させられなかった。
〈テルス……テ……?〉
ルナの文字が霞んでいく。
慣れぬ必殺を限界の状態で使ったからだろう。極限の集中が解けた今、疲れ切った体はゆっくりとテルスを眠りに向かわせる。
まだ、終わってなんかいないというのに。
ばさり、と頭上で大きさ羽音が空気を震わせた。
大地を舐める暴風に空を見上げれば、そこには骨を纏った蝶の姿があった。
その姿は落葉の森の最奥にいた蝶によく似ている。ただ、その身に纏う不吉さはあの蝶の上をいく。
骨のような白を鎧のように纏い、瘴気の鱗粉をまき散らす。
その姿はこの状況も相まって、誰もに不吉や死という印象を刻みつけた。
「くそ、何で今さら……」
「もう戦えるやつなんていねえよ……」
駒者や衛兵たちが絶望に膝をつく。
もう、マテリアル《Ⅳ》と戦える者なんて残っていない。
テルスもルナも限界だ。メルク、エレンリード、マルシアは倒れている。コングやハンス、タマたちだってもう戦えるような状態ではない。
竜なんて二度目の奇跡はない。
人は人の力をもってこの絶望を打破しなくてはならない。
そう、この絶望は災魔エクエスを倒せば終わりなのではない。
空に飛ぶ骨の蝶を、広場に現れ始めた魔物の残党を、葉風の町リーフに押し寄せた魔物全てを倒さなくては終わらないのだ。
「私の勇者様が格好良く斬って終わらせてくれたのよ。こんな綺麗な結末を汚すなんて許さないわ。そろそろ私も《Ⅳ》が欲しかったし、ちょうどいいわね……」
だが、この理不尽に未だ膝を屈しない者もいる。
力強くシャベルを突き立て、綺麗を愛する漢はこの絶望に宣言した。
「かかってきなさい。私が相手よ」
岩槍が襲いかかる魔物の群れを貫いた。
コング・トゥルはまだ欠片も諦めていない。その意思を表すかのように、彼の魔法は力強く発現していた。
「……てめえら、意地見せろ。こいつらがこんな根性を見せたんだ。さっきまで親玉にびびって逃げていたようなやつらに負けるなんて俺が許さねえ!」
膝を震わせながら立ち上がったおやっさんが叫ぶ。
「まだ動けるやつはコングと俺に続け! おら、ハンス、てめえはまだ動けんだろ! タマの嬢ちゃんもだ! そこの浄化師さまも働きやがれ!」
それはただの意地だった。
叫びは力強く頼もしいというのに、おやっさんが走る姿は今にも倒れそうなほど弱々しい。
だが、一人また一人とその背に続き、残酷な結末に抗おうと走り出した。
――お、れも……。
テルスもコングとおやっさんに続こうと体に力を込めるが、鉄の鎖に繋ぎとめられたかのように体が重かった。その背に続き走るどころか、手を動かすことすらままならない。
それはルナも同じなのか、立ち上がれない彼女は荒い息を吐きながら【魔弾】を撃ち続けている。
鼓動の大きさ、体の熱。
抱きしめられているテルスにはルナが限界なのだとよく分かった。
「と、りっく……」
仲間や守るべき少女が戦っているのに、ここで気を失うなんてできない。
狭くなっていく視界に抗うように、テルスは【道化の悪戯】を発現する。
テルスの微かな魔力を精霊が増幅し、発現した炎が魔物を燃やす。
だが、その『火』は先ほどとは比べ物にならないほど弱々しい。それでも、テルスは『火』を灯し続けた。
しかし、終わりは残酷に近づいていた。
魔物の数が多すぎる。
質だって骨の蝶以外にも新たに巨大な蚯蚓が現れた。マテリアル《Ⅳ》二体にこの数の群れ。どう考えても、もう終わりだった。
きっと、そんなこと皆が分かっていた。
その上で、抗うのだ。
こんな結末は認めないと。
駒者や衛兵だけではない。
シュウたちが拙い魔法を魔物に向けて撃っている。
そんな子供たちが戦う姿に勇気づけられ、守られていた住民たちもそれに続く。
おやっさんが霧で骨の蝶や魔物の群れを惑わしている。
コングが蚯蚓型の魔物を串刺しにし続けながら、魔物の群れと狂戦士の如く戦っている。
だが……ついに、魔物の群れが前線を突破した。
数体の獣型が一直線にルナへと襲いかかる。一体だけなら【魔弾】で止められただろうが、今のルナに魔物の群れを止める力は残っていない。
テルスは最後の力を振り絞り、ルナを抱きしめて庇う。
諦めてなんていない。ギリギリまで引き寄せて、カウンターの『火』を叩きこむ。近くならまだまともな火力になるかもしれない。
「【道化の――」
そんな決死の思いで唱えようとした呪文は轟音にかき消された。
それはまるで、役者の交代を告げるかのように。
降り注ぐ雷が、荒れ狂う風が、燃え盛る火が魔物の群れを一掃する。
「――なんか、状況はよく分かんないけど……」
そうして、新たな役者が舞台に上がる。いや、戻ってくる。
誰もが唖然としながら見上げる空から、緑の衣装に身を包んだ少女がふわりと舞い降りた。
変わらぬ姿で、変わらぬ笑顔で、変わらぬ理不尽さで。
道化のお姫様――ルーン・ハーレキンは開演を告げた。
「さあ、悪戯のお時間です」
――デウス・フルメン。
天を走る雷に骨の蝶は撃ち落とされる。
その光景を最後に、これが夢か現かも分からないまま、テルスの意識は暗闇に落ちていく。
だけど、その心は安堵と――喜びに満ちていた。




