変わらない日常
――また、同じ夢を見ている。
明るく幸福な夢なんかじゃない。
これは、無力で何もできなかった自分の後悔に塗れた記憶だ。
五年前のあのとき。魔物が振り下ろした骨の剣を前に、私は何もできなかった。
だけど、お姉ちゃんは違った。
私を助けてくれたその手を覚えている。微笑んでいるその表情を覚えている。
こんな夢でも、目を覚ましていても、あの瞬間のことは鮮明に思い描ける。
同じ物を食べて、同じ物を見て、同じように生活してきた。
違いなんてものはたった一年、早く産まれたくらい。
だけど、お姉ちゃんには……ミケ・フェリスには勇気があった。
――ああ、それなのに。
あれから五年が過ぎても、妹の私は勇気なんてものを――これっぽちも持っていないのだ。
ゆっくりとタマ・フェリスはベッドから起き上がり、窓の外に視線を向ける。
カーテンの隙間から覗くリーフの町は暗く、夜明けの気配は空の端にしかない。まだ誰も起きていない静かな静かな、早すぎる朝の時間。
「私は……」
――前に進めているのだろうか。
藍色の空を見上げながら、重ね続けてきた自問をタマは繰り返す。
その問いに答えなんてものはなく、その代わりに思い出すのはやっぱり仲間たちの言葉だった。
――仕方ねえよ。お前は待ってればいい。
――大丈夫。俺が何とかする……絶対に。
魔物の前に立てなくなった仲間を前に、ハンスとテルスはそう言った。
そう、タマは怖くなってしまったのだ。
魔物の前に立つだけで震えが止まらなくなる。それは、あんな魔物に遭遇して、仲間と唯一の肉親を失った少女の当然の反応だった。
マテリアル《Ⅰ》や《Ⅱ》ならばいい。震えていようが後れは取らない。でも、《Ⅲ》や《Ⅳ》、まして、あの災魔を相手にするのならばこの恐怖は致命的だ。
何度も恐怖を克服しようとした。
テルスやハンスに頼んで森に連れて行ってもらい、魔物と数え切れないほど戦った。
それでも震えは止まることはなかった。どんなに魔物が弱くても、瘴気を感じるとあの魔物を思い出してしまう。
不甲斐なかった。一緒に戦えないことが悔しかった。いっそ、薄情者と責めてほしかった。
それなのに、二人とも安堵したような表情を浮かべるのだ。
何よりもタマはそれが嫌だった。
置いて行かれたくない。二人と違う、安寧の日々なんて送りたくない。
情報を集めようとギルドで働き始めたのも、魔具や薬といったあの魔物を倒せる可能性を探し始めたのも、そんな思いからだった。
――諦めていない。
立ち止まっていても、進んでいなくても、前を見ていればそう言える。
前だけを、横も後ろも見なければ、そうやって自分を騙し続けて皆の仲間でいられる。
タマにとってこの五年は、諦めていないことを証明し続ける日々だった。
「……おはよう」
いつか撮った写真。過去の皆に呟いた声は誰にも届かず消えていく。
五年間住み続け、慣れ親しんだ居場所。
本も、花も、料理道具も、気に入ったインテリアも、少しずつ増えていったこの部屋にはそれでも何かが足りない。
立ち上がったタマは仕事に向かう用意を始める。
”いつも”になってしまった独りの一日が今日も始まった。
「先輩、この仕事があ!」
「ほら、またタマに頼らない!」
ギルドに着くなり、騒がしい声が助けを求めてくる。
五年も働いていればそんな声にも慣れたもの。タマは同僚に挨拶しながら、涙目の後輩に近づく。
「おはよ。魔石の鑑定? 見せて」
トリックでの経験は本当に役に立っている。
魔石の鑑定。魔物の特徴。魔法。相手の実力の見極め方。
間違いなく、大道芸よりもこちらの方が役に立っている。
まあ、それも二人の狙い通りなんだろう。
きっと、これは皆と離れても生きていけるように、ファル団長やルーンが教えてくれていたのだから。
「これは《Ⅰ》と《Ⅱ》、カニスとキャタピラー、ゴブリンの瘴気。《Ⅲ》は倒してない」
「はへー、流石先輩。どうしてわかるんですか。こんなに濁っているのに」
「慣れ。瘴気は混ざっても溶け合いはしない。色で分けていけばいい」
「色って、どれもほぼ濁った黒じゃないですか……」
後輩は魔石をじーっと眺めている。
それを横目にタマは受付に座り、てきぱきと今日の仕事を始めた。
三時間ほどだろうか。駒者のレベルに合った依頼をすすめたり、依頼完了の報酬を渡したり、後輩の面倒をみていると、見知った悪人面がタマの前に立った。
「なんか、いい依頼はあるか?」
「ない」
タマは無愛想に、しっしっとハンスを追い払うように手を振る。
人気受付嬢失格の対応だが、タマはだいたいこんな感じだ。
とくに、ハンスやテルスに対しては遠慮がない。
ただ、「ない」という言葉に嘘はなかった。
最近は魔物の動きが少なく、町の近くでハンスに出てもらうような退治の依頼はない。
やはり、テルスとルナが落葉の森を無力化したからか。
数ヶ月前から町に近づく魔物の数がかなり減っている。エレンリードが率いる《紫電の駒》が何度か調査している旧落葉の森の小魔瘴方界にも魔物が少ないという。
なら、テルスとルナが落葉の森で遭遇したという魔物たちはどこに行ったのか?
ハンスに動いてもらうとしたら、その調査だ。
しかし、小魔瘴方界に単独で行かせられるはずもない。
次に《紫電の駒》が調査に赴くまで、おやっさんやハンスといったリーフの上位駒者にとくに仕事はないのである。
それに、今日は……
「それより。どうするの?」
「何がだよ」
「テルスたち。もうすぐ帰ってくる」
今日は精霊祭当日。
リーフも精霊樹がある広場を中心に屋台が並び、南都ほどではないが賑やかになる。
そして、明日明後日には南都で精霊祭の式典に出ているテルスたちはリーフに帰ってくるだろう。
「ちっ……分かってるよ」
会ったら、きっとあの話になる。
それが分かっているから、ハンスは苦々しい表情を浮かべていた。
「ねえ……ハンスはあの話、どう思ってる?」
思い出すのは、あの少年が五年間ずっと抱えていた秘密。
「べつに。あいつが何か隠してんのは知ってたろ」
「……うん」
そうだ。テルスが何かを隠していることも、それを明かすことができない理由があることも二人は知っていた。
それが、おやっさんに話した「言葉を喋る魔物」というのに関係していることだって、何となく勘づいていた。
だから、災魔の話を聞いても大きな衝撃はなかった。
――でも。
やっぱり、話してもらいたかった。
どんな理由があっても、どんな危険があっても、仲間として一緒に頑張りたかった。
テルスに文句があるとしたら、そこだけなのだ。
ハンスだって、そう思っているから、ああもテルスに怒ってしまうのだろう。
「……約束したからな。会って飯食って、話はするさ。だけど、俺はまだあいつと一緒にはいられねえ」
「意地っ張り」
自分とハンスは一緒なのかもしれない。ときどき、タマはそう思う。
タマがハンスやテルスに置いていかれまいとするように、ハンスはテルスを追いかけているのかもしれない。
五年間、テルスがハンスよりも弱かったときから、ずっと。
「そろそろ、俺は行く。それと、お前もちゃんと考えておけ」
「何を?」
「自分の気持ちってやつだよ」
「……余計なお世話」
「はっ、先輩からの忠告だ。じゃあな」
背を向けて手を振る悪ぶった男をタマはジト目で見送る。
「ほんと、余計……」
手元にある書類に目を落としながら、タマは小さな声で呟く。
「せえんぱあああい! 助けて!」
「こらっ!」
騒がしい声がギルドに木霊する。
それに、ため息をひとつ零してタマは立ち上がる。
頭に浮かぶ少年を振り払うこと以外、何も変わらない日常。
リーフの町に警鐘が響き渡る一時間前のことだった。




