浮かぶ大海
混迷を極める南都。
その景色を表情の抜け落ちた顔で見つめる男がいた。
「やっぱり、この魔法はよく聞こえる……」
流石は『長耳』という二つ名なだけはある。
グレイスでキーンたちと共に活動し、今は行方不明となっている駒者、リックの口を借りレギナは満足そうな声音で呟いた。
見る、というより聞くことでレギナは建物の屋上から南都の騒乱を観ていた。
大聖堂前の広場でポーンと戦う騎士団を。
はるか上空を飛ぶピクシエルとアスケラを。
南都の外に昇る噴煙を。
そして、灰となって消えた異形の人型魔物の結末を。
本当に……不思議なくらい思いどおりだった。
しかし、それはレギナの思いどおりということではない。
この状況を描いたのはたった一人の普通の人間だ。
――人って分からない。
レギナにとって人とは予想外な行動ばかりする異分子だ。
それはこの策を考えた『僧侶』だって変わらない。
むしろ、教皇と同じように契約しようとしたら涙を零して喜び始めたときから、あの精霊教の信徒は一番のわけが分からない人間だった。
誰も頼んでないのに――ピクシエルにいたっては止めてすらいるのに――何で自分からペデスに喰われにいくのか。
恨みがあるわけでもないのに、何で同族である人が一番死にそうな策を練ろうとするのか。
そして、何でそんな人間が立てた策がこうも思いどおりに進むのか。
まったくもって、レギナは不思議でならなかった。しかし、
「……ありがとう、エピス」
彼のおかげでレギナが目的を遂げることができたのは確かだ。
――あの地まで人が来てしまうかもしれない。
禽忌の庭を攻略され、刻限の砂に攻め入られたときから抱いてきた恐れ。
それをエピスは払ってくれた。
長い、長い、策もここで大詰め。
リシウスという駒者を人質に、その親友だという浄化師を魔瘴方界におびき出して契約し、貴族や王族、浄天とレギナは駒を手中に収めてきた。
瘴気の残滓を怪しまれないように人と接する機会が少なかったり、強力な魔物と交戦、もしくは魔瘴方界に入った人間だけを狙ってきたから時間はかかった。
加えて、途中からは浄による妨害もあった。
しかし、気づかれて浄で瘴気を相殺されようが契約は無くならない。
触れることさえできれば、瘴気を整えて元通りだ。エピスや手に入れた駒を使えばそんな機会はいくらでも作れる。
本当に、エピスは優秀だった。
彼のミスらしいミスなんて、ブルードを逃してしまったことくらいだろうか。
それも、ブルードの使用人たちを操って発覚を遅らせ、あえて災魔の存在を匂わせることで邪魔な人間を遠ざけることに利用したようだが。
そして今。
ペデスが産んだ魔物とピクシエル、タロスによって南都は混乱の真っ只中。
誰がどこにいるのか気にする余裕も、魔物以外に注意を向ける暇もない。
だからこそ、エピスの最後の一手――人による攻撃は想定できない。
天と地に集束していく『水』と『地』の精霊。
こんな混乱の最中でこの変化に気づける人間は少なく、気づけたとしても止めることなど不可能だ。
これでチェックメイト――のはずだった。
三度、暴風が天へと羽ばたく。
風と共に宙を駆けるはエピスが遠ざけ、レギナが仕留めそこなった少年。
彼は一直線に、空に浮かぶ『水』の精霊憑きの下へ向かっていた。
やはり、あの少年を異形ごと燃やそうとしたのは間違いではなかった。レギナは自身の直感が正しかったことを確信する。だが、気づけたとしても……
「ここからひっくり返せる?」
小首を傾げる女王の瞳には、確かにいつかの路傍の石が映っていた。
――運が良かった。
再び空を駆けながらテルスは幸運を噛みしめていた。
あのとき。
リシウスの必殺がテルスとロキオンごと異形を線の内側に封じ込めた瞬間、テルスは疑問を抱くよりも先に対処法を思い出していた。
リシウスの必殺【蒼火】。
あの魔法は魔力を注ぎ込むことで、常に対象を燃やし続けることを可能とする。
マテリアル《Ⅳ》以上の魔物に対して”再生限界まで倒し続ける”という定石を打てる非常に強力な魔法といえるだろう。
だが、蒼い線の内側に閉じ込めさえすれば勝利が確定するようなこの魔法にも弱点はある。
一気に大量の魔力を放出する魔法と違って、【蒼火】は線を描いてから魔力を注ぐ。それゆえに精密性には優れているが、発動に僅かなラグがあることと、線に干渉して消してしまえば魔法が発動しないことがこの魔法の弱い部分だ。
つまり、【道化の悪戯】という他者の魔法に干渉する術を持つテルスにとって、リシウスの【蒼火】は防げる必殺なのだ。
反射的に蒼い線を斬り、ロキオンを引っ張って脱出できたのは、この情報を詰め込んでくれたティアのおかげだろう。
だが、テルスにティアに感謝の念を抱く時間も、灰となって消える異形を見送る暇すらもなかった。
空へと集束していく馬鹿げた魔力。
それを感じたと同時に、テルスは放心しているリシウスをロキオンに押し付け、走り出した。
そう、幸運だったのだ。
ティアの話を聞いていたからリシウスの必殺に対処することができた。
ソルの話を聞いていたからすぐにこの魔力を追いかけることができた。
近くに『風』の上位魔法を使えるアイレがいたことも、自分が空を走れることも全て、運が味方をしてくれた。
しかし、幸運なんて偶然はこの空で尽きた。
「……シズク・リンウ」
眼前で空に手を翳すは東都の姫君のような少女。
その長い黒髪で顔が隠れていようと、空に満ちるこの『水』が何よりも彼女を証明していた。
『天涙』シズク・リンウ。
マテリアル《Ⅴ》にして、メルクの幼馴染。彼女は空に浮かぶ大海に呆然とするテルスに目を向けることなく、ただ……
南都サウセンを見下ろしていた。




