混迷と再誕
止めることも追うことも許さず、全てを置き去りにして異形は跳ねる。
霞むような速度で外を目指すその影は一直線に空を走り、【浄光大結界】に突き刺さった。
雷鳴の如き轟音が空気を震わせる。
焦燥に駆られながらテルスが見上げた先には、白壁に阻まれ地上へと落ちていく異形の姿があった。
「間に合え……!」
それを見ても安堵なんて感情はまったく湧かない。
魔力を振り絞り、ただ異形に追いつくことだけを考えてテルスは疾走する。
その先の白壁には大きな亀裂が走っていた。
――二度目の突進は防げない。
通常の【魔壁】よりは堅くとも、【浄光大結界】は防御や閉じ込めることを目的とした魔法ではない。浄で領域を染め上げる祓魔の結界魔法だ。
ペデスが撒き散らした瘴気がなければポーンは数秒で祓われ、異形の魔物も再生にもっと時間がかかっていただろう。
だからこそ、その瘴気が消えかけている今、魔物は狂ったように外を目指す。
脇目も振らず結界の外へ走るポーンと同じく、異形も自身に放たれる魔法を気にもせず二度目の跳躍のために力を溜めている。
ああ、間に合わない。
自分の魔法ではあの魔物を止めることはできず、四方八方に散っていくポーンが射線を塞ぐこの状況では誰かの魔法に期待することもできない。
だから、テルスは追うことを止めた。
「テルス、どこに行くんだい? あのバッタみたいな魔物が跳んでいってしまうよ!」
「分かってる。あれは止められない。けど……」
耳を引っ張るソルに答えながら、テルスはその場所に走る。
浄の白壁から感じる魔力か。それとも、壁の方から近づいてきているからか。
理由も分からない確信に従い、テルスはその名を呼んだ。
「ルナ!」
その声と同時に、二度目の雷鳴が鳴り響く。
罅割れた白壁を砕き、異形は外へと脱出した。その姿に最悪の事態を想像し、町を守る衛兵や騎士団員たちから焦燥と自責の声が漏れる。
だが、まだだ。この賭けはまだ終わっていない。
異形はやはり白壁の亀裂を狙って跳躍した。
亀裂の位置は高かったため、蹴り破った勢いのまま外に飛び出した異形が着地するまではまだ時間が残っている。
「――投げて」
すれ違うように再会した相棒はそれだけでテルスが求めることを理解した。
翳した手の先で白壁の一部が解除され、魔法の手がテルスをむんずと掴む。
「ソル、ルナにあの話をしといて」
「え、僕がいなくて大丈夫なのかい?」
「大丈夫。俺よりルナの方が危ないかもしれないし。だから、頼むよ」
「仕方ない。ルナ嬢には僕がついてあげよう」
そう言って、ソルは首を傾げるルナへとジャンプする。
詳しく話す時間はない。
すでに異形は屋台が並ぶ大通りに着地しようとしている。
投げるまでの僅かな時間で相棒と交わせる言葉なんて、ほんの一言か二言くらいだ。
〈気をつけて〉
「そっちも。あと……」
横目に見るは、陽光に煌めく雪花や白桜を思わせる姫の姿。
銀の刺繍が施されたいつもと少し違う浄化師装束。
白い髪に映える銀の髪飾り。
首から下げているペンダントが淡く輝いているのもあってか、その姿は神秘的にすら見える。
いつも隣にいるテルスが言葉に詰まるほど、式典用の衣装に身を包むルナは綺麗だった。
この見た目と雰囲気なら『聖女』とか『白桜』の二つ名も納得だ。
もっとも、ルナ自身はこの姿を見られるのが嫌なのか、少し頬に赤みが差している。
白を染めるその頬と唇の鮮やかさに、いけないものでも見ている気がしてテルスはそっと視線を逸らす。
「えーと、似合ってるよ」
何とか間に合わせた感想の返答は全力での投てきだった。
真っ赤になった相棒を見ることなく、テルスは飛ぶ。
その強烈な風圧と迫る瘴気に、テルスの意識は完全に戦闘へと切り替わった。
「逃げろ、魔物だ!」
「何で町中に!」
「ひいいい、助けてくれえ!」
大通りの真ん中に着地した異形を悲鳴が迎える。
着地の衝撃で転がった馬車から這い出た客に、異形がその爪を振りかざし――
「ソードペア」
灰の刃が異形の爪を斬り飛ばした。
何が起きたか分からないといった様子で腕を見る異形の前に、テルスが猫のように柔らかく着地する。
間に合った。
一瞬、頭に過ぎった安堵を封じ込め、テルスは加速する。
【強化】、【道化の悪戯】、ルナが上書きした【浄光】。
三種の魔法をもって、間合いを詰めたテルスに異形は耳障りな声で鳴く。
それはきっと嘲りの声だった。
跳躍し、テルスから離れた異形は遅すぎるとでも言いたげに裂けた唇を歪め――激怒する。
「片脚だけ、か」
斬り裂かれた片脚が宙を舞う。
両足ともいけたと思ったんだけど、と不満気に零すテルスは異形の目にどう映ったか。
それは叫びながら襲いかかる異形を見れば明らかだった。
死神の鎌の如き両爪が振るわれる。
姿が、声が、力が、瘴気が。
何もかもが恐ろしい魔物を前にテルスは退くのではなく、前進した。
「【魔刃】」
するり、と異形の懐に入りながら、テルスはその爪を斬り落とす。
べつに難しいことではない。
手足の先端に瘴気が集中しているため、感覚を研ぎ澄ませばタイミングや軌道、予備動作の大きさだって手に取るように分かる。
あとは、ラブレがやったように、こちらの攻撃を合わせればいい。
瘴気の濃さから考えて、魔法で異形の攻撃を防ぐことはできない。
躱すことも速度で負けているのでは厳しい。
だから、斬り落とす。
目には目を歯には歯を。攻撃には攻撃を。
防ぐのではなく、躱すのでもなく、テルスは異形と斬り合うことを選択した。
――狂っている。
少しのミスが死を意味する舞踏に誰もが思う。
恐怖はないのか。
自分から死神の鎌に近づき、斬り落とす。
そんな、いつ終わるかも分からない作業を、延々と、正確に、ただただ積み重ねる。
たとえ、それが唯一の正解だとしても普通は感情が邪魔をする。
勇気というには理解が難しく、狂気というには冷静すぎる舞踏に声すら忘れて、観客たちは引き込まれていく。
「悪戯、悪戯……」
飛び散る石畳の破片を払い、姿勢を制御するためだけに風を使う。
余分なものは必要ない。あるのはこの魔物と自分だけでいい。
削ぎ落し、削ぎ落し、削ぎ落し、極限の集中の先にある舞台で道化はただ刀を振るう。
腕を断ち、首を落とし、苦し紛れにのしかかる巨体を斬り裂く。
刀と技だけでテルスは魔物を圧倒していた。
しかし、その圧倒は悪手だった。
少年が研ぎ澄ませてきた刃のような強さ。
怒り狂っていた異形もこうも斬られ続ければ理解してしまう――これでは勝てない、と。
叫びながら地面を殴りつけ、異形はテルスに背を向ける。
それは、テルスが最も恐れていた行動だった。
テルスがここまで圧倒できていたのは、異形が攻撃してきてくれていたからだ。
だからこそ、カウンターが成立していた。
だが、攻撃するのを止めて逃げられてしまえば、速さで劣るテルスは異形に追いつけない。
テルスに足りなかったのは技ではなく、経験。
舞台から降ろさないという駆け引きの妙こそがテルスには足りていなかった。
斬られることも気にもせず、異形は跳ねる。
しかし、その跳躍は大通りを封鎖するように張り巡らされた蒼い線に阻まれた。
「加勢します」
「ああ、ラブレの仇だ。ぶっ飛ばし――いてっ!」
「縁起でもないことを言ったら駄目です」
拳骨を落とされ頭をさするロキオンと、蒼く光る魔法を束ねるリシウスがテルスの隣に並ぶ。
三人の視線の先で、蒼い炎に体を包まれた異形のマテリアル《Ⅳ》がゆらりと立ち上がる。
戦いは第二幕を迎えようとしていた。
――誰もそれに気づかない。
「一匹たりとも【浄光大結界】の外に出すな! こいつらに付き合っている暇はない。タロスとあの《Ⅳ》、上空の災魔もいる。一番隊は加勢に――」
大聖堂前の広場に、《白騎》団長ガウル・K・ティガードの指示が響く。
その指示は正確でこの混迷を極める状況にあっても、進むべき道を示し続ける。
たしかに、彼の言葉に間違いはない。
待っていれば浄に祓われるような魔物よりも、町中で暴れるマテリアル《Ⅳ》や災魔にこそ駒を割くべきだ。
しかし、彼も、この場にいる誰も、気づいていなかった。
ペデスが残した血だまりが未だ消えていないことに。
女王が完成品と呼ぶ災魔の唯一にして最悪の力に。
「シンコ、ウ……セイ、レイサマ……」
血だまりから這い出たそのポーンは虚ろに呟き続けていた。




