禽忌の庭Ⅲ
エリュテイアたちが王域に踏み込んだのと同時刻。
役割を終えたはずの後方部隊は待機しているのではなく、想定外の魔物の群れと交戦していた。
一人、また一人と魔物の波に飲まれていく。
魔物の鳴き声に混じって聞こえる声が断末魔か、誰かの指示かも分からない。
もはや、部隊はろくに機能しておらず、兵士や駒者たちの意思は恐怖に折れかけていた。
――こんなはずじゃなかった。
そんな言葉が幾度も頭を過ぎる。
この部隊の仕事はもう終わった。本隊を魔障方界に送り届け、あとは安全な位置で待機しているだけのはずだった。それなのに――
今、部隊は魔瘴方界の中にいた。
行きは交戦など皆無だった。
それなのに、帰りは見たことがない規模の群れが現れた。
前に進むことはできず後退し、後退し、後退し……気づけば部隊は本隊を追うように越境していた。
この部隊は支隊。本隊とは違って魔瘴方界に入らなくていい。
心の隅でそんなことを思い、安堵を覚えていた者は多い。だからこそ、この事態に大半の兵士や駒者が浮足立っていた。
「ここは鳥型の巣窟だろ! 何で、マンティコアがいるんだよ!」
「駄目だ、下がれ! こんなの突破できるはずがないっ!」
「馬鹿野郎、これ以上下がったら王域だ! 突破するしか道はねえだろうが!」
前も後ろも、どこを見渡しても地獄しか広がっていない。どの道を選択しようと待つのは死という終わりだけ。違いなんて死因くらいのものだろう。
鳥の嘴か、獣の牙か、虫の毒か。
魔物たちはそれを選択する時間すら与えてくれない。急かすように魔物の群れが押し寄せ、
それは凍りついたように動きを止めた。
「フ、フヒヒ、止めたよお、トーリ」
「ご苦労様です、リタ。では、【魔矢】多重展開……掃射、アポロウーサ」
この苦境にあっても涼やかな声が響いた瞬間、日差しを思わせる山吹色の光が閃いた。
幾条もの光が雨あられと魔物の群れに降り注ぐ。
魔法で拘束され、逃げることもできない魔物の群れを数という暴力が飲み込み、周囲一帯の自然ごと駆逐していく。
十秒以上もの間、鳴り続けた矢の雨音がようやく止むと、もはや更地といっても過言ではない光景が部隊の眼前には広がっていた。
「これで時間が稼げますね。前にはいけなさそうですが。どうします?」
圧倒的な暴力を見せつけた射手――トリウィア・ボルスはいたって自然に自らが守護する浄化師に問いかけた。
「フヒ、行くしかないよねえ。今から王域に入れば本隊に追いつけるかなあ」
不気味に笑いながら浄化師、リタ・ヘカーテは自らの騎士に答えを返す。
しかし、その返答は生き残った部隊の面々からすれば正気を疑うものでしかなかった。
「正気かよっ!? もう指揮官も死んだ! この部隊以外の奴らもやられてる! 逃げる以外、選択肢なんて……ない……」
咄嗟に声を上げたのは部隊の駒者。
だが、その声は次第に小さくなり消えていった。
目深に被ったフードの奥。
そこからリタの真っ暗闇みたいに黒い眼が覗いていた。口を閉じてもなお見つめてくるその目に怯んだのか、声を上げた駒者は一歩、二歩と下がっていく。
「でも、その、今なら脱出できませんか……ね?」
「できないと思うよお。まだまだいっぱいいるし」
そう言ってリタが指差した先では、魔物たちがじりじりと近づいてきていた。
その数は相変わらず絶望的な多さだ。とても、この数を相手にして生き残れるとは思えない。
先ほどトリウィアが放った『アポロウーサ』を警戒しているからか。即座に襲って来ようとはしない。だが、猶予なんて一分もないだろう。
「ほらあ、ここで戦い続けるより、王域で本隊を追いかけた方が望みがありそうでしょお?」
この魔物の群れを突破できない以上、それは正しい。
ただ、リタの見た目のせいで、どうにも不吉な予言にしか聞こえなかった。
浄化師にしては珍しい夜闇のように黒い髪と目。
それとは対照的な真っ白で染み一つない肌。
顔立ちも悪くないし、若いのに浄化師としての実力も上位に入る。
ただ、怖い。プラスの印象を打ち消すほど、怖い。
口調か、それとも雰囲気が原因か。どうしても彼女を見ると、幽霊とかそういうホラーなものを想起してしまう。何故だか浄化師装束を纏った彼女は、シーツみたいな白い布を被っている幽霊にしか見えなかった。
むしろ、見た目だけなら隣のトリウィアの方がよほど浄化師らしい。
明るい金髪に血色のいい肌。何より、笑顔が可愛らしい。
そんな健康的な魅力に溢れた彼女の雰囲気はリタとは正反対だ。これで幼い頃から仲が良く、今では浄化師と騎士のペアなのだから人間関係とは不可思議に満ちている。
「それにしても、嫌な感じですね……」
王域へと押し込もうとするかのように溢れる魔物。
情報にない獣や虫型の魔物たち。本隊と別れた後に魔物が襲ってきたことといい、全てが悪い方に向かっている。
不運だったと片付けてしまえば簡単だが、リタとトリウィアにはどうしても拭えない違和感があった。
魔物が本能ではなく、理性で動くはずがない。魔瘴方界に向かう部隊を見逃したのも、帰り道を塞ぐように群れているのも、タイミングが悪かっただけ。情報にない魔物の行動も、いないはずのマテリアル《Ⅳ》も、たまたま発見していなかっただけ。
――本当に?
馬鹿な考えだということは分かっている。
だけど、不幸としかいいようのない偶然の連続に想像してしまうのだ。
こちらの情報が全て漏れていて、誰かが自分たちを抹殺しようとしている。
そんな、ありえない陰謀論を。
「もし、王域に入るのがこの魔物たちの思いどおりだったら……」
「それでも、行くしかないねえ。じゃあ、トーリ。ここにいる皆にもう一度『浄』を渡すか――」
それが予定調和だとしても王域に入る。
いち早く覚悟を決めたリタが指示を飛ばす前に、再生を終えた巨大な獣が咆哮を上げた。
「あれでも死なないのかよ……!」
マテリアル《Ⅳ》。その理不尽さを示すようにマンティコアが迫る。
トリウィアの矢によって肉片となるまで五体を撃ち抜かれたはずだというのに、溢れる瘴気は変わらず身も凍るような恐怖を伝えてくる。
マンティコアの瘴気と咆哮。それに怯んだ一瞬が致命的だった。
眼前に迫るは人喰いの獣とそれに追従する魔物の群れ。出遅れた。今、背を向けることは死を意味する。
この波を凌いで王域に入る。情報が正しいなら、それで王域外の魔物である獣と虫は振り切れるはず。厄介なのは王域に住まう権利を持つ鳥の方だ。
もう一度、『アポロウーサ』を。リタとトリウィアの視線が一瞬だけ交錯する。
「【魔壁】を! 五秒耐えてください! 上空のコルウスたちを――」
そこまで指示を飛ばし、トリウィアはその異変に気づいた。
鳥がいない。
見上げれば、あれほど煩く上空を羽ばたいていた鳥は影すらなく消えていた。
代わりに木々の隙間から覗くのは、遥か上空で無数の影を焼き尽くす紅蓮――
「リタああっ! 動きを止めやがれっ!」
降ってくる紅蓮から声が聞こえてくる。それが誰なのかは知っている。何でここにいるのかはまったくもって分からないけども。
「何でいるのお、あれ? まあ、助かったけどお。【幽かな灯火】」
呆れを滲ませながら、リタは『浄』の輝きを周囲に灯していく。
今にも消えそうな幽かな白い光。夜の墓場に似合いそうな人魂みたいな光の群れに、魔物たちの動きが鈍る。
怖いからではない。『浄』で形成された人魂から、その魔法が発現したからだ。
「【浄光結界】発動からのお……」
人魂から人魂へと光が繋がり、『浄』の結界が発現する。
それは本来の【浄光結界】に限りなく近いもの。
人が魔瘴方界内でろくに動けないように、魔物は染めようのない『浄』の空間に動きを封じられる。その上からダメ押しとばかりに、さらなる魔法が加わった。
「【浄呪】」
何故か掠れた声で紡がれた魔法により、魔物たちは完全に動きを止めた。
魔法によって生み出された圧力に囚われた魔物の群れ。それは、マンティコアといえど例外ではない。
この魔法から次の一手、トリウィアの『アポロウーサ』で魔物を一掃するまでが、このペアの連携。
しかし、今回は何故かやってきた男が止めの刃とともに舞い降りた。
「焔閃火っ!」
焔の刃に切り裂かれるは人食いの獣。
そして、一閃を追うようにして溢れた爆炎がマンティコアを、魔物を、森を飲み込んだ。
今度こそ完全に更地となった森に火の粉が舞う。それを散らすように降り立った男の第一声はリタたちへの文句だった。
「なんで、お前ら魔瘴方界にいんだよ。ベガを連れてきてなかったら、追いつけねえとこだったじゃねえか」
「そもそも、追いつけちゃあいけないんですけどお」
浄化師見習いまで連れてきていたのか。リタの責めるような視線に気づいたのか、シリュウはすぐに「ベガたちはもう気球で帰らせた」と言い訳を加えた。
「まあ、ちょうどいいでしょう。王域に行くなら戦力は多い方がいいです」
シリュウが来ようと魔物の数は変わらない。大きくなっていく羽音に誘われたかのように、魔物がここへ集まってくる。
それでも、シリュウがいるのなら突破という選択肢も取れるだろう。だが、ここにいる誰も前に進もうとは考えなかった。
「……シリュウ、上から見えたあ?」
「見えなかった。矢とあれのおかげでここが分かったがな」
何かがいる。魔物の群れに遮られた先。
進んできた道から何かが追いかけるように近づいてきている。
普通の魔物ではない。その魔物は下手をすれば背後の王域よりも不吉な気配があった。
「……さっさと行くぞ。止まっていたらうざったい鳥もくるしな」
逃げようとすれば、目の前の群れと戦っている間にあれとぶつかるだろう。
だから、逃げる。
おかしな話だった。
王域という危険地帯に逃げる。正気を疑うシリュウのその意見に誰も異論を挟まない。何かを考えるよりも先に感情があれと戦うことを拒否していた。
素早くリタが『浄』の補強をし、シリュウたちは王域へと踏み出す。
逃げるために。戦うために。そして、追いかけるために。
「さあて、エリュが死ぬ前に追いつかねえとな」
自分たちが必死に侵入を拒み、抗っていた場所。
それなのに、この男は笑顔を浮かべて、さらなる奥を目指している。
果たして、それを見る目に宿る感情は呆れか頼もしさか。リタたちはシリュウに引きずられるように王域を進み始めた。
――うっとおしい。
周囲を埋め尽くす数えるのも億劫な鳥の群れ。
つきまとう煩わしい羽音と鳴き声に、エリュテイアの我慢はそろそろ限界に近づいていた。
「我慢」
「まだ、私たちの出番ではない」
苛立ちに気づいた隣の浄化師二人が釘を刺す。
アスケラもキーンも彼女の心情を読み取れるほど、付き合いが長いわけではない。
それでも、エリュテイアが何を思っているかは分かる。それほどまでに、漏れ出る魔力と熱が雄弁に彼女の感情を語っていた。
「浄化師は魔力の温存をしなくてはいけない。魔瘴方界の解放にどれほどの魔力が必要なのかは不明。瘴気の核の存在も伝承にすぎない。王の能力、強さ、存在すらも未知。加えて分断されたファイ総長たちと合流できるかも分からない。不確定要素があまりに多すぎる。ギャンブルの方がまだましなこの状況で、魔力の浪費という更なる――」
「話が長い」
「魔力、大事」
「話が短い」
そんな前提はエリュテイアも分かっている。だが、我慢と怠惰では話が違う。
ここは魔物の領域、その中心地たる王域。
それなのに、こんな無駄話に時間をさけるほど余裕がある。エリュテイアたちが見つかっていないわけでもないのに。
見上げれば空に、枝に、鳥の影がある。
突き刺さる視線の槍衾。重なる無数の羽音とさえずり。
たじろぐほどの数の魔物が周囲を埋め尽くしているのに、それが襲ってくることは不思議なほど少ない。
だが、この鳥たちは何もしてこないわけではない。
「こっちは駄目だ!」
「後退しろ! 別の道を行く!」
突如、枝の上で静観していた魔物たちが一斉に飛立つ。
雷鳴のような羽音とともに迫りくる黒い壁。それを迎え撃とうという考えは最初からない。【魔壁】や『風』の魔法で足止めをしながら、部隊はガウルの指示に従い鳥がいない方へと逃げていく。
「……キーン、進んでいる方角は?」
「北東だ。一応、中心に向かっている」
東都寄りから越境したため、少し東よりに北へと進めば魔瘴方界の最奥にたどり着けるはず。だから、方角は合っている。だが、致命的に進み方を間違えている気がしてならない。
「……モビング」
エリュテイアの頭に浮かぶのは鳥の習性の一つ。
小鳥が捕食者に対し、集団で鳴きながら突撃する行動だ。
鳥型魔物たちの行動はこれに酷似している。だが、モビングは通常、巣や雛などを守るために外敵を追い払うもの。魔に堕ちたこの鳥たちが単に外敵を追い払うためにそれをしているとは思えない。
おそらく、追い払い……その上で誘導している。
これは鳥たちがいない方へ逃げながら進んでいるのではない。鳥という壁で仕切られた一本道を進んでいるだけ。どこかでこの壁を壊さなくては最奥にたどり着くことも、他の隊と合流することもできるはずがない。だから、
「ガウル! 戦うときは私が出る!」
「何だって?」
守るべき浄化師からのまさかの出陣宣言。それを聞いて、この部隊を率いる男は慌てて前列から中央へやってきた。
「いや、君が出たら駄目だ。浄化師は最奥まで魔力を温存しておいてくれ」
「そのとーり」
「そうだ。最奥にたどり着いても魔力が切れていました、では話にならならない」
瘴気の核を祓うのにどれほどの『浄』が必要なのかは分からない。旧王都にはもっと詳細な資料があったのかもしれないが、今は絵本や僅かなメモのような資料しか最初の魔瘴方界攻略についての情報は残っていない。
この先の未知を思えば浄の温存は必要だ。
しかし、エリュテイアはその言葉に首を振る。
「違う。本当に話にならないのは、最奥にすらたどり着けませんでした、だ」
温存したまま最奥にもたどり着けず死ぬのでは本末転倒。ガウルやキーンだって本当に危なくなったら、浄化師というカードを切るべきだと考えているはずだ。
「これは進んでるんじゃない。進ませてもらってるだけ。皆も分かってるはず」
「それは……」
「中心には向かっている。でも、このまま最奥に私たちを行かせるとは思えない。どこかで、方角がズレる。それか、こいつらが誘導したい場所に着くことになる。そうしたら、戦わないとでしょ?」
このまま、この煩わしいと鳥の群れと戦わないなんて展開はありえない。
では、誰がこの鳥の壁を打ち崩すべきか。これは、そういう話だ。
「それで、雑魚と戦うなら私が一番効率良く殺せると思うけど。一人でいいし、皆の力を温存できるよ」
その意見には誰も異論を挟まなかった。
正しく、何より……反論できる勇気がないから。
どんなに正しさで理論武装されていようと、今までの話はようするに、どうせ戦うんだから私に殺らせろ、というおねだりである。
エリュテイアはあくまで優しく、穏やかに、お願いしているつもりだ。だけど、部隊の誰もそんな可愛い言葉には聞こえない。
見目麗しい女性からの脅迫に、どうするんだ、とでも言いたげな視線が四方からガウルに突き刺さる。数秒後、深いため息を零したガウルは”お願い”に屈した。
「はあ……なんで、俺の周りにはバーサーカーばっかなんだ……分かった。エリュテイアを中心に据える。アスケラは状況を見て隊のサポートを。キーンはなるべく最奥まで魔力を温存しておいてくれ。皆、気を引き締めろ! もうすぐ本格的な戦闘となる! 速度を緩めず、最奥を目指す。この隊でこの地を解放するんだ! 今はいない隊に頼るな! 一人一人が最善を尽くせ!」
指示の返答は気炎万丈の咆哮。
それを受けて、エリュテイアがにこりと見惚れるような笑みを零す。いい気合、いい根性。そして……幕開けだ。
「……ガウル、残念ながら少し西に巨大な瘴気の塊がいくつか視えた。この鳥たちがそちらに誘導するつもりなら、そろそろ……来るぞ」
チェレンが告げたものは、エリュテイアにも視えていた。
どうも、この鳥たちは大型の鳥のもとへ餌を運びたいらしい。進むにつれて視界に入る気配に厄介そうな魔物が増えてきた。
――まあ、関係ないか。
エリュテイアに焦りはない。これは全部、倒せる範囲だ。ついに隠そうともしなくなった好戦的な笑みを見て、左右の浄化師が距離を取る。
これがエリュテイア・ドラグオンの本性。
浄化師の間は猫を被っていたが、弟子は師匠に似るもの。あの、野生の獣みたいな戦い方しかできないシリュウの師匠が、おしとやかな性分であるはずがない。
「さて、出番だ。茜、東雲」
エリュテイアがぱんぱんと手を叩くと、夕日みたいに赤い猫と綿雲のような白い犬が現れる。
彼女はよしよしと二匹の精霊を撫で――魔力を束ね始めた。
「全員、【対エリュテイア耳栓】は起動しているな! 隊から離れるな、死にたくないなら密集しろ! 撃ち漏らしを排除する遠距離魔法の準備もしておけ!」
「失敬な。このくらいなら一匹たりとも逃がさないよ」
慌てて動き始める部隊を横目に、彼女は鼻を鳴らす。そして、殺戮の合図となる呪文が凛とした声で紡がれた。
「【アクエル】、【イグニス】……吠えろ、咆閃華」




